2017.8.25 金曜日 高谷修平
修平は図書室のドアの前に立ち、入ろうかどうか迷っていた。今日は百合が中にいるはずだ。しばらく来ていなかったので気まずい。
しばらく中の様子をうかがったが、何も聞こえてこない。
修平はそっとドアを引いた。カウンターの百合がこっちを向いて、
「ずいぶん長くサボっていたんじゃないですか?」
と、きつい声で言った。
「いや、でもさ」
修平は言い訳のように言った。
「今ほとんど利用者いないし、本の整理しようにもほとんど動いてないよね?だから必要ないかなと思って」
「でも図書委員なんですから、図書室が開いてる日は来てください」
百合はそう言うと、手元の問題集に取り組み始めた。
修平はいつものクセで本棚の奥へ行き、考え込んだ。
さっきの百合の言い方だと、自分が来なかったのが寂しかったみたいじゃないか。
やっぱり自分のことが好きなのでは?
しかし、それを本人に言う勇気が出ない。また神がどうとか言われたら反論できないからだ。
でも変だ。
何かがおかしい。
修平はくるっと向きを変えると、カウンターまで真っ直ぐ進んでいった。
「何ですか?」
気配に気づいた百合が顔を上げずに聞いた。
「あのさあ」
修平は言った。
「ずっと気になってたんだけど、『神と一緒にいたいから男の人と付き合えない』って言ってたよね?でもさ、なんで男の人と一緒にいると神と一緒にいられなくなるの?確かに聖書には独身でいた方がいいみたいな書き方してる所もあるけどさ。でも百合、確か、修道女にはなりたくないって言ってたよね?なら、男と付き合ったっていいんじゃない?」
百合が顔を上げて修平を見た。無表情だった。
「俺が嫌で付き合いたくないんならそれでいいよ。でもさあ、これからずっと、あらゆる男を拒絶して一人でいる気?神様はそんなこと望んでるかな?俺にはそうは思えない」
修平はそこまで一気に言ってから、
「今日は帰る。久方さんに会う約束があるから」
と言って、図書室を出た。百合の視線に、これ以上耐えられなかった。
あんな冷静な目で見てほしくない。前はもっと違った。少なくとも、好意のある目で自分を見てくれていたのに。
本当は約束などなかったが、修平は久方創に会いに行くことにした。もしかしたら、先生と橋本がまた話したがるかもしれない。
さっきまで晴れていた空が、急に黒い雲に覆われ始めた。雨になるかもしれない。修平は自転車で急いで研究所への道を走った。
建物からはショパンの曲が響いてきていた。インターホンを鳴らすと、久方創が玄関まで出てきて、
「サキ君なら、来てないよ」
と暗い表情で言った。
「別にサキを探しに来たわけじゃないですよ。先生と橋本が話したいかもしれないと思って」
「そうだね。もうしばらく会ってないし」
久方は修平を中に入れた。半円球の頭をしたロボットが麦茶を運んできたが、なぜか不満げな表情を表示していた。
新道先生と橋本は、待ち合わせをしていたかのように同時に現れ、もっぱら橋本があさみやヨギナミの話をするのを、新道先生がうなずきながら聞いていた。
「修平君」
2人の幽霊を眺めていた修平に、久方が声をかけた。
「相談したいことがあるんだ」
「何ですか?」
「サキ君の気持ちを僕に向けるには、どうしたらいいと思う?」
「えっ?」
修平は驚き、2人の幽霊も同時に久方の方を向いた。
「サキ君は結城に夢中だけど、結城はサキ君と付き合うつもりなんかない。奈々子さんのことで頭がいっぱいだから。このままいけば、いずれサキ君がひどく傷つくことになるよね。だから、何とか気をそらせたいんだ。何かいい方法はないかな」
そりゃ無理でしょう、と修平は言いたくなったが、久方の思い詰めた顔を見ると、そんなことは口に出せなくなってしまった。
「あの〜」
修平は迷った。はっきり無駄だと言うべきか、てきとうに励まして流すべきか。
「え〜と」
『はっきり言っちまえ』
橋本がつぶやいた。修平は新道先生に助けを求める視線を送った。先生は、伏し目がちにうなずいた。『まあ、仕方ないですね』と言っているみたいに。
「あのですね、ゲフッ」
修平は変な咳払いをしてから言った。
「久方さん。サキのこと好きですよね?」
「それがどうかした?」
「その気持ちを、変えられますか?誰かに『このまま進んだら傷つくから、サキのことは諦めなさい』と言われたら、諦められますか?代わりに他の人を好きになったりできますか?」
久方は黙っていた。
「無理ですよね?」
修平は続けた。
「だから、無理ですよ。サキだって変わらないですよ。少なくとも今すぐには。誰もがよく言う聞き飽きた言葉ですけど『他人は変えられない。変えられるのは自分だけだ』ってよく言うでしょ。俺はそこにもう一つ付け加えたいと思います。『自分のことだって、そう簡単には変えられない』って。俺も好きな人いるからわかりますよ。変わらないですよ。たとえ相手に好かれてなくても。
変えられない自分の想いをどう処理するかは、自分で決めて責任を持つしかないんですよ。相手が振り向いてくれるかどうかは関係なく」
「何も変えられないのなら」
久方が聞こえるすれすれの小さな声で言った。
「僕はどうしたらいい?」
「今は見守るしかないんじゃないですか?無理強いしてもダメです──あ、でも、俺もあまり人のことは言えないんですけどね。さっきちょっと失言しちゃって。
それはともかく、今は普通に優しく接していればいいんじゃないですか。そしたらサキもそのうち気づいて気が変わるかも」
最後の一行は根拠のないサービスのようなものだったが、久方はそれで納得したらしく、それ以上はこの話題を蒸し返さなかった。この後、橋本が修平の好きな人について新道先生にしつこく尋ね、新道先生がいちいち正直に答えてしまったので、百合とのいきさつを久方に全部知られてしまった。
「君も大変だね。わかるよ、その気持ち」
久方が笑って言った。
「でも、僕と違って、ライバルは人間じゃない」
「もっと大変ですよ。神だもん」
「でも、神は愛し合う人を引き裂いたりしないよ。エディット・ピアフのシャンソンを思い出すなあ。確かどこかにCDがあったと思うけど。でも、この騒音の中では聴けないね」
久方は天井を見上げた。結城はまだショパンを弾いていた。
「今日はショパンを全曲制覇する日なんだ」
『お前いいかげんにあいつに言ってくれよ。ピアノはやめろって』
音楽が嫌いな橋本が言った。
「僕が言ったって聞かないよ」
久方が言った。雨の音が急に大きく響き出した。
『急に振ってきましたね』
新道先生が窓の外を見て言った。
『自転車はやめて、平岸さんを呼んだ方がいいですよ』
「そんなことしなくても大丈夫だって。自分で帰れるよ」
修平は言った。
「雨ガッパを貸してあげるよ」
久方が部屋を出ていって、ビニールのカッパを持って戻ってきた。
「うわあ、サキか佐加が見たら絶対『カッパがカッパ着てる!』って言われそう」
修平はそう言って笑いながらカッパを着て、去り際にふと思って、
「サキはそのうち、久方さんのありがたさに気づくと思いますよ」
と言って、研究所を出た。
こんな雨の中を走るのは初めてだ。風邪をひいたら命に関わるから、雨の日は絶対に外に出てはいけないと言われていたこともあった。それが今は、カッパ越しに雨を感じながら走っている。
──奇跡だ。
修平は思った。
ただ生きて、雨の中を自転車で走れる。
これは奇跡だ。
大丈夫、他のことは大したことじゃない。
生きているんだから。
平岸家に着くと、
「まあ!こんな雨の中を走ってきたの!?」
平岸ママに驚かれた。
「大変!すぐ着替えないと風邪ひくわよ」
「カッパ着てたから大丈夫──ヘクシッ」
「くしゃみしてるじゃないのもう」
平岸ママは濡れたカッパを回収し、生姜の入った紅茶を出してくれた。飲んでいるとあかねが現れ、
「また無理して健康ぶってんの?バカなの?」
と言ってきたので、
「たまたまにわか雨に当たっただけだろ」
と言い返した。するとあかねは、
「インスピレーションが!!」
と叫んで走り去った。
修平はため息をついて『他人は変えられない。平岸あかねは変えられない』と自分に言い聞かせた。それから、百合が自分に振り向いてくれる可能性と、久方が言っていた『神様は愛し合う人を引き裂いたりしない』という言葉を思い出し、百合が信じているのもそういう神だったらいいのにと思った。




