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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年8月

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2017.8.22 火曜日 研究所

 外は暗く、小雨が降っていた。

 久方創は、自分の体が傘をさして草原を歩いていくのを、少し後ろから追いかけていた。向かっている先は、ヨギナミの家だ。

 橋本が隠し場所から鍵を取り出し、中に入った。誰もいない。傘を玄関に置いて、床に座り、窓を見た。かつてあさみがいた窓辺、今は空っぽのベッド。

 橋本は無言でずっと窓辺を眺めていた。その間、雨の音が強まったり弱まったり、窓から日がさしたり陰ったりした。


 ねえ、何を考えてるの?


 あまりにも長い時間動かないので、久方は尋ねた。自分の顔がこっちを向いた。


 あさみはここで、

 何を考えていたんだろうかと考えてた。


 橋本が、久方の声で言った。


 ヨギナミは学校やバイトでほとんどいなかったし、俺もたまにしか来なかった。

 あいつはずっと、ここで一人だった。

 何を思って、この窓から外を見ていたんだろうな。


 それから薄く笑って、


 今さら何言ったって無駄だな。あいつはもういない。


 


 気がつくと、()()()窓辺を見ていた。


 



 研究所、午前11時。雨はやんだが、空は灰色の雲に覆われたままだ。

 今日はピアノの音も聞こえない。結城が出かけているからだ。夕方まで帰ってこないと言っていた。早紀が聞いたらがっかりするだろう。いや、学校が始まってしまって試験も近い。今日は来ないかもしれない。

 久方は、カウンターに座って窓の外を見ていた。

 静かだ。

 時々、雨の音や風の音がするが、その音すら、静寂を引き立てているかのようだ。何も起きていない。何も動いていない。猫達はソファーやテーブルの下で丸まっている。

 まるで、目の前の景色だけが存在していて、その他の世界が消えてしまったかのような、そんな静けさだ。この世界には、自分が今いるこの部屋しか存在していなくて、外には何もないのではないかと思わせるような、そんな静寂。


 久しぶりだな、こんなに静かなのは。


 久方は思った。でもそれは、物理的な静けさのことではなかった。内面だ。

 今までは、一人で静かな部屋にいても、心の中が静まることはなかった。過去や現在のいろいろなことが体と心を蝕んでいて、それらが発する騒音が常に聞こえていた。

 でも今は、何も聞こえない。

 頭の中にも、何のイメージもわかない。

 なぜ急にこうなったのかわからない。理由すらどうでもいい。

 とにかく、静かだ。

 そして、途方もなく平和だ。

 久方は雨の音と風の音を聞きながら、不意に訪れた静けさに浸っていた。これが長続きしないのはわかっていた。自分の中から気になるものが出てきたら、この平和はすぐに終わる。それはわかっていた。

 今だけは、ここにとどまっていたい──

 久方は昼食も忘れて、何時間も、窓辺に座っていた。

 幸いなのか悲しいのか、今日は早紀も、他の学生も姿を見せなかった。

 雲が動いていく。時々明るい光が入ってくる。その全てが美しい。

 久方は我を忘れて、その様子に見入っていた。自分の存在など忘れていた。しかし同時に、それが『一番自分らしい』ことなのだということもわかっていた。

 


 3時過ぎ、「やっぱりサキ君は来ない」という雑念が生じて、平和な時間は終了した。しかし、いつもほど落ち込んだりいじけたりせずに済んだ。早紀は受験生だ。他にやるべきことがたくさんあるはずだ、そう思った。

 結城は5時頃に、鶏の半身揚げを2つ持って帰ってきた。ショッピングモールに寄って、余計な油っぽいお惣菜を大量に買ってきたようだ。


 もう歳なんだか、もっと健康的な食事にしなよ。


 と久方は言ったが、結城は、


 歳取ったからこそパワーつけるために肉がいるんだよ。


 と言って、半身揚げをペロッとたいらげた。久方は半分だけ食べ、残りは冷蔵庫に入れた。野菜が欲しかったので自分でサラダを作ったが、それも大半は結城に食べられてしまった。だったら野菜も買ってこいよと言ったら「ここにあるんだからわざわざ買わなくていいだろ」と言われて呆れた。

 夕食後、結城はピアノを弾き始めた。なぜかいつもの暗いクラシックではなく、カフェで流れているようなモダンなジャズだった。


 何で?何かあった?


 珍しすぎる選曲に久方はとまどったが、不気味なスカルボよりマシなので何も言わないことにした。


 こんな平和な日はいつ以来だろう?

 いや、もしかしたら人生ではじめてかもしれない。


 信じられないほどいい雰囲気の曲を聞きながら、久方は、午前中、あさみのベッドをじっと見ていた自分(じゃなくて本当は橋本なのだが)の姿を思い出していた。

 自分と橋本が違う人間なのは知っているが、自分の姿や声でああいうことをされると、まるで自分がやったことのように感じてしまう。あそこであさみの死を悲しんで、昔を懐かしんでいたのは自分なのではないか。


 ──こういう感情があったのか。


 久方は思った。亡き人を想う悲しみと、懐かしい思い出に潜む喜びの入り混じったような、なんとも言えない感じ。こんな思いははじめてだ。久方は、橋本を通じてそれを知った。

 これはもはや『自分の体験』だ。

 久方にはそうとしか思えなかった。


 混乱するなよ。俺が悪かったよ。


 橋本の声がした。


 しばらくお前の体を使うのはやめるよ。

 いや、もう永久に使わない方がいいのかもな。


 でも、たまにはヨギナミに会わないと。


 久方が言うと、橋本は黙った。


 僕に悪いと思ってるんだろ。

 でも、今ヨギナミを一人にしちゃダメだよ。

 関わり合うのがお前の義務だと思うよ。


 でも、あいつも本来は、

 俺なしでやっていかなきゃ駄目なんだよ。


 いつかはね。でも今じゃなくていいでしょう?

 母親が亡くなってまだ少ししか経ってないし、

 僕はどうせ3月まではここにいるんだから。

 それまでの限られた時間は──


 時間が限られてるんだから、

 なおさら自分のために使えよ。

 新橋はどうするんだ?


 サキ君は僕に興味なんかないよ。


 そんなのどうでもいいんだよ。

 前にも言ったろ?相手がどうこうじゃない。

 お前はどうしたいんだ?

 自分がどうしたいかまず考えろ。


 相手の気持を無視して、

 自分の気持ちを押し付けることはできないよ。


 久方は言った。声はそこで途絶えた。


 また自分の言いたいことだけ言って消えたな。


 久方はつぶやいて立ち上がり、じゃれあっていた猫達に近づいた。かま猫とシュネーはいつだって気ままだ。遊びたい時は遊び、寝たい時は寝る。猫の世界は平和そのものだ。


 僕もさっきまで平和な世界にいたんだけどな。


 久方の心にはまた、早紀のことや幽霊のことが戻ってきた。それにつられて、昔のことやあの人のことも──

 いや、今日はもう、何も考えないことにしよう。

 せっかく平和な一日を過ごしたんだから、静かに眠りたい。

 そう思ったのだが、結城はいつまでもジャズピアノをやめないし、頭の中からは「明日はサキ君、来るかなあ」という雑念がわいて消えず、久方はこの日、夜遅くまで寝付くことができなかった。





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