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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年8月

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2017.8.20 日曜日 ヨギナミ

 夏休み最後の日。佐加が平岸家にやってきて、数学の宿題を丸写ししていた。もちろん、ヨギナミに見せてもらって。


 夏休み終わっちゃうよ〜!

 何か思い出に残ることしたい!今日中に!


 佐加はそう言って、平岸ママと一緒にラズベリームースを作っていた。ヨギナミも手伝った。あかねは部屋にこもってマンガを描いていて、早紀は研究所に行っていた。


 様子見に行った方がいいかな?


 ヨギナミが言うと、


 でも今日おっさん来るんでしょ?ここに。

 ヨギママと一緒に待ってようよ。


 佐加はそう言って、ムースを一切れテレビの間の隣の部屋に運んでいった。そこにはヨギナミの母の遺骨が入った箱と、写真と、おりんが置いてあり、左右にろうそくが立ててあった。平岸ママの手で、ごはんと水も供えられていた。

 佐加は作ったムースを写真の前に出し、


 見て見て、ヨギナミと一緒に作ったさ。


 と言った。ヨギナミの母が生きていた頃と同じような調子で。自分よりも娘らしいとヨギナミは思った。佐加はいつも母と仲良くしゃべっていて、母も自分より佐加としゃべっている方が楽しそうだった。

 平岸ママが小さな折りたたみテーブルを持ってきてくれたので、母の写真の前でムースを食べた。佐加が今作っているワンピースの話をするのを聞きながら、ヨギナミは時々、ちらっと母の写真を横目で見ていた。

 おっさんみたいに幽霊になって、

 こっちを見ていたりしないだろうか。

 と思ったりした。だとしても、ヨギナミには何も見えない。たぶん母も、そこまでして私と会いたいとは思っていないだろう、とヨギナミは思っていた。

 亡くなってからそんなに経っていないのに、母はもう、町の人からは忘れ去られているようだった。仲の良かった平岸ママやスギママ、佐加だけが、生きていた頃のように今も気をつかってくれる。

 でも、それもそのうち、終わるだろう。

 ヨギナミは自分の心をはかりかねていた。母のことを忘れてほしい、でも忘れてほしくない。自分だけが覚えていることもたくさんあるが、それはいつまで抱えていればいいのか。母の人生は何だったのか。自分は何なのか。これからどうするのか。

 一人で生きていくしかない。

 それはもう決まっている。

 覚悟しなくてはいけない。

 でも、どこか寂しい。

 昼食にカルボナーラを食べ、テレビの間で佐加の好きなアイドルが出ている番組を見ていると、早紀が帰ってきて佐加の隣に座った。むっつりと機嫌が悪そうな顔をしていた。


 どしたの?


 佐加が尋ねると、


 結城さんと奈々子が、昔の思い出話を延々としてて、全然歌の練習してなかった。


 早紀が言った。


 しかも、私が戻ってから『発声練習くらい真面目にしましょうよ』って言ったら、無視してリストのハンガリー狂詩曲を弾き始めた。


 結城さん、冷たいね〜。


 佐加が大げさな声を上げた。それから早紀は『やけ食いしたい』と言って、残りのムースを食べにキッチンへ行った。

 昼の番組が終わった頃、平岸家のインターホンが鳴り、おっさんが現れた。何やら緊張した面持ちで、どこで買ってきたのか、仏花を抱えていた。ヨギナミと佐加は『久しぶり〜!』と言いながら喜んでおっさんを迎え、遺骨のある部屋に案内した。平岸ママが花を見て『花瓶を持ってくる』と言って奥へ行き、死んだ人には少々不釣り合いな美しいブルーと白の混じったガラスの花瓶を持ってきて、花を生けた。

 佐加はおっさんに会ったのが本当に久しぶりだったので、前会った時から今までの間に起きたことをひととおり長々としゃべった。ヨギナミの母が死んで、葬式に行ったことを話すときは涙ぐんでいて、おっさんは『俺も行くべきだった。ごめん』と言っていた。

 佐加の話を最後まで聞いてから、おっさんは写真に向かって手を合わせ、目を閉じてじっと祈り続けていた。ずいぶん長く。何を祈っているのだろうとヨギナミは思った。自分も早く成仏できますように、とか?それとも母の冥福を祈っているだけ?いや、おっさんと母はお互いをわかり合っていたから、何か自分の知らないことがあるのかもしれない。ヨギナミは、そこはあまり突っ込んで聞かない方がいいと思っていた。誰にだって、自分にしかわからないことがある。母も、おっさんも、そして自分も。

 早紀が戻ってきたが、おっさんの姿を見て『げっ』と言ってどこかに行ってしまった。まだおっさんを嫌っているらしい。佐加が早紀を探しに行き、入れ替わりで平岸ママが入ってきた。


 お墓をどうしようか考えていたんだけどね。


 平岸ママが言った。


 身寄りもないし、沖縄のお母様とも連絡が取れないから、しばらくうちで預かることにしたのよ。あさみも一人よりはここの方がにぎやかでいいと思って。

 あの子、一見人嫌いに見えたけど、寂しがりやだったもの。


 そうだな。そうしてやってくれ。


 おっさんが写真を見つめたまま言った。


 俺は、置いていかれた者がどんな気持ちになるか思い知ったよ。

 あさみが教えてくれた。

 生きていた頃にわからなかったことは全部、あさみが教えてくれたよ。

 なのに最期にそばにいてやれなかったのが申し訳なくてな。


 でも、あなたと知り合えて、

 あさみは幸福だったと思うわ。


 平岸ママがそう言って笑い、『お茶を入れてきますから』と言って出ていった。

 おっさんはまだ、あさみの写真をじっと見ていた。


 夏休み、今日で終わりだよ。


 ヨギナミが言った。


 だから佐加が、今日のうちに何か特別なことがしたいって朝から騒いでる。


 特別なことなんかしなくても、若いってだけで毎日が特別なんだけどな。

 若いうちはわかんねえよな。


 おっさん、おじいちゃんみたいなこと言うね。


 生きてりゃもうじいさんの歳だからな。


 おっさんがやっとヨギナミの方を向いて笑った。平岸ママがお茶を、佐加が缶入りのクッキーを持って戻ってきた。


 サキ、マジでムース全部食ってたさ!

 あんなにあったのに。

 ヤバくね?半ホール一人で食ったよ?

 太るよ?


 早紀はどうしたの?

 

 ヨギナミが聞くと、佐加は、


 部屋に戻って勉強するって。宿題まだ終わってないんだって。そんなの、ヨギナミとホソマユの写せば楽勝じゃん。


 おい、自分でやれよ。


 おっさんが言うと、


 そんなこと言うんならクッキーやらないよ。


 と佐加が言って、ニヤッと笑った。おっさんは呆れた顔で黙った。

 それから平岸ママとおっさんが交互に、生きていた頃のヨギナミの母について思い出話をした。学生時代は気が強かったこと、一緒によくない遊びをしていたこと、寝込むようになってからの話──2人とも、保坂典人の話は避けていた。ただ、自分が知っている友人、大切な人としての『与儀あさみ』の話をしていた。

 ヨギナミは2人の話を聞きながら、自分の話が全く出てこないことに気づいていた。たぶん母は、どちらにも私の話をほとんどしていなかったのだろう、とヨギナミはわかっていた。母にとって、大事なのは自分の人生であり、それだけで手一杯だった。平岸ママのように、子供に気を遣うような余裕は、あの母にはなかったのだ。

 ヨギナミは話の途中でそっと立ち上がり、廊下に出た。佐加がついてきた。2人はテレビの間に行き、なんとなく『夏休み、本当に終わっちゃうね』『高校最後の夏休みなのにさ〜、早いよね〜』という話をした。本当に話したいのはそんなことではなかった。しかし、どちらも、それをどう表現していいか、自分の中にうまい言い回しを見つけられなかった。


 おう、ここにいたのか。


 おっさんがやってきた。


 もう帰るわ。明日からちゃんと勉強しろよ。


 何それオヤジくせ〜。


 佐加が笑った。


 ヨギナミ、何かあったらすぐ創の所に行けよ。

 あいつはお前が来ても嫌がらないからな。


 おっさんが言った。


 私は大丈夫だって。おっさんこそもう平気?


 平気ではないな。


 おっさんが薄く笑った。


 でも、人はいつか死ぬもんだ。俺だって本当は──


 何か言いかけて、やめた。おっさんはそのまま玄関に行き、ぎこちない動作で靴を履いて出ていった。背中がとても寂しそうだった。


 忘れてたけど、おっさんもう死んでんだよね?

 なのに成仏できないんだよね?


 佐加が言った。ヨギナミはうなずいた。


 何とかなんないかな〜。お祓いも効かないんだよね?

 

 それから『おっさんを成仏させる方法』を2人でいろいろ考えたが、いい案は何も浮かばないまま、佐加は迎えに来た父親の車で帰っていった。

 ヨギナミは母親の前に戻り、おっさんがそうしていたように写真を見つめた。若い頃の、自分を知らない母、これから何が起きるか、何も知らない女の子。

 母にも若い頃があった。今の自分のように、将来やりたいことやなりたいものがあった。でも、うまく生きていくことができなかった。自分だけを残していなくなってしまった。

 その意味を、ヨギナミは知りたかった。

 この一連の出来事は、母の人生は、

 何のためにあったのだろう?

 自分を生むため?

 おっさんに『残された者の悲しみ』を教えるため?

 母自身は、自分の人生から何を学んでいたのか。

 何を感じて、何を考えていたのか。

 もっと話しておくべきだった。でも、生きていた頃はお互い意地を張ってろくな話をしなかった。料理にも家事にも文句をつけてばかり、自分もそれに慣れて無視してばかり、きちんと向き合って人生について話す機会は、とうとう訪れなかった。


 ごめんなさい。話を聞いてあげられなくて。


 ヨギナミは若い母に向かってつぶやいた。


 でも、お母さんも悪いんだよ。文句ばかり言って。


 そして立ち上がり、なぜかにじんできた涙を手の甲でぬぐってから、夕食の支度を手伝うためにキッチンへ行った。








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