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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年8月

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2017.8.18 金曜日 研究所

 朝の5時頃、久方は例の気配で目覚めた。

 ああ、まただ、と思った。

 橋本が、寝ている自分の隣に立って、じっと見下ろしてくるのだ。

 昨日もこうだった。朝目覚めると、橋本が何か言いたげに自分を見ている。なのに、一言も発さない。ただじっとこちらを見つめている。まるで地縛霊だ。気味が悪い。


 もう!何なの!?


 久方は叫びながら飛び起きた。


 言いたいことがあるんなら言ってよ!


 すると橋本は、


 ごめん、悪かった。


 と言った。これも昨日と同じだ。


 だからもう昔のことはいいって言ってるじゃないか!

 朝から枕元に立つのやめてよ!

 怖いってば!


 久方が叫んでいるうちに橋本は消え、今度は、叫び声のせいで早く起きすぎたピアノ狂いが、仕返しのように『超絶技巧』を弾き始めた。そして久方はうめきながら着替えを持って1階に逃げた。昨日と同じように。




 今頃深〜く反省しちゃってるんですねぇ。

 いろんな人を傷つけて人生変えちゃったことに。


 昼頃、遊びに来た早紀が、レモネードを飲みながら言った。レモネードは平岸ママが大量に作って配りまくったものだ。自慢したいらしい。久方も飲んでみたが、普通のレモネードとどう違うのかわからない。しかし、目をつけられると怖いので感想は言わない。


 自分の行いが変えた未来を直に見て、やったことの罪深さがやっとわかったんですよ。

 せいぜい反省して、そのまま成仏すりゃいいんですよ。

 そういえば、昨日杉浦塾だったんですけど、佐加が英語の日記書くの忘れてて、これから7月分書くって言ってましたよ。大変ですね。


 サキ君はちゃんと書いてるの?


 英語も日記も得意なので大丈夫です。

 毎日書いてます。


 すごいね。


 でも数学全然ダメなんで、ヨギナミに見せてもらいます。


 ダメだよ自分でやらないと。


 他愛のない話をした後、早紀が、

 

 所長。


 真面目な顔で言った。


 私のこと、好きですよね?


 なぜそんなことを聞くのだろう?久方は少し考えてから、無言でうなずいた。声がうまく出せなかった。


 でも、私はその想いには応えられないんです。


 早紀がすまなさそうに言った。


 ここにはもう、来ない方がいいですか?


 そんなことないよ。


 久方は言った。


 遠慮しないで、今までどおり来てほしい。

 結城と奈々子さんのこともあるし。


 元からわかっていた。早紀と一緒にいられる時間は限られていると。なら、その少ない時間だけでもできるだけ一緒にいたい。たとえ自分のことを想ってくれなくても──


 そうですか、わかりました。


 早紀は少し安心したようだ。


 ところで、結城さんはどこへ行ったんですか?


 今日は奈良崎君の家に行ってるよ。保坂君と楽器で何かやってるんでしょう。


 えっ?とうとううちのクラスの男子の家に行くようになっちゃったんですか?

 それって私を避けてます?


 違うよ。あいつの人生が元から現実逃避なだけ。

 僕も人のことは言えないけど。


 それから久方は、


 今までの人生が後ろ向きすぎたから、これからは前を向こうと思ってるんだ。


 と言った。すると早紀は、


 所長、無理してません?


 と言った。


 前もアファメーションの本とか急に読み始めて、『前向きにならなきゃ!』とか言ってたような気がするんですけど。そしてその後、ろくなことが起きなかったような。


 あれとは違うよ。


 どう違うんですか?


 今は、自分は生きててもいいんだってわかってる。


 久方はそう言って笑った。


 僕を生かすために、いろんな人が関わってくれたこともね。

 散歩に行こうか。今日も曇っているけど、これでもう何日曇りだろうな。ずっと同じ雲が居座っているように見えるけど、実は違うんだよ。雲はすごい速さで移動していて、今見ている雲と、さっきの雲は同じじゃない。川の流れが止まらないのと同じで──


 久方は早紀と散歩しながら、むやみに雲や風や空についてしゃべり続けた。早紀は黙って聞きながら、空を見上げたり遠くを眺めたりしていた。蒸し暑い日だが、雲で日光が遮られているおかげで、焼け付くような暑さにはならなかった。

 2人は草原を歩き、森の近くまで行って『クマ注意』の看板を見て引き返してきた。ヒマワリ畑で写真を撮り、建物に戻ってみると、1階で結城がテレビを見ていた。なぜか奈良崎と保坂も一緒にいて、地下から持ってきたお菓子を勝手に食べてきた。


 あ〜所長、お邪魔してま〜す!


 久方を見るなり、奈良崎と保坂が声を上げた。それを見た早紀が嫌そうな顔をしたかと思うと、


 帰ります。


 と言って、くるっと背を向けていなくなってしまった。

 若者2人と結城は一緒にアイドルのPVを見ながら、誰がかわいいか議論していた。久方はそれに加わりたくなかったので、2階の自分の部屋に行った。


 一番かわいいのはサキ君に決まってるのに、

 結城は何も見えてないんだな。


 と久方は思った。少々ぼんやりしてから、昔書いていた日記を取り出した。ずいぶん前の、下手なドイツ語で書いてあるものだ。

 なぜこんなものを北海道まで持ってきたか?

 それは、レティシアのことが一生忘れられないと思っていたからだ。

 なのに、ここ半年、一度も彼女を思い出さなかった。


 僕はもう二度と人を愛したりしない。


 と、昔の日記に書いてあった。今読むと笑ってしまうが、当時は本当にそう思っていたのだ。


 時間が経つと、こんなにも変わってしまうんだ。


 久方は思った。最近の自分といえば、早紀のことしか考えていないからだ。でも、その早紀は結城に夢中で、こちらを振り向いてはくれない。さっきも言っていたではないか。『気持ちに応えることはできない』と。


 サキ君のことも、いつか、忘れられる日が来るんだろうか?


 今はそうは思えないが、先のことはわからない。ただ一つだけ確かなのは、このまま時が経てばいずれ早紀には会えなくなるということだけだ。自分は神戸に帰るし、早紀は東京に戻る。LINEでやり取りすることはあっても、今みたいに会うことはできなくなる。


 いや、先のことはいい。

 今を大事にしないと。


 久方は思った。今まで過去のことばかり考えすぎて人生を潰してきた。この上、未来を心配して今をムダに使う訳にはいかない。早紀と会えるのは今だけなのだから。

 階段を上がってくる足音がたくさん聞こえたかと思うと、隣からピアノの音とギター、そして、なぜか結城の歌声が聴こえてきた。

 下手だ。音痴すぎる。

 久方は耳をふさいだ。


 なんすかそれ!?ふざけてんすか!?


 奈良崎の叫び声がした。結城は構わずに調子外れの歌を歌い続け、保坂の笑い声が聞こえた。

 久方は1階に逃げ、早紀に「結城の歌が音痴過ぎて若者に笑われてるよ」と伝えた。後で「どうして私の前ではそういう楽しい面を見せてくれないんでしょうね」と返事が来た。

 

 たぶん男どうしの方が楽しいんだよ。


 と久方は答えておいたが、もしかしたら結城も早紀のことを意識していて、目の前にいると素でいられないのかもしれないと思い、どうにも落ち着かない気分になってしまった。


 あいつがサキ君を本気で好きになったら?


 想像するだけで恐ろしい。







 

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