2017.8.14 月曜日 研究所
朝6時、ハンガリー狂詩曲のあの始まりの音が、隣から響いてきた。久方はベッドの中で軽くうめいてから、着替えを持って1階へ逃げた。
窓から外を見る。空はどんよりと暗い。しばらく天気は悪そうだ。久方は帽子をかぶって外に出て、畑を見て回り、草原を歩いた。
風と草が、どよめいている。
空を覆う雲も実は止まらずに動いている。落ちてくることはないが、独特の圧がある。
青空が恋しくなるな。
でも、これはこれで美しい。
久方はしばらく、雲の動きを見つめていた。
建物に戻る。ピアノ狂いはまだ弾いている。今日はリストの日なのか。朝食を作っていると、早紀から「これから行ってもいいですか」と言ってきたので「いいよ」と答えた。朝食を食べ終わった頃、パウンドケーキが入ったかごを持って早紀が現れた。
普通に暮らすって、何でしょうね?
早紀は来るなりいきなりそう言った。
ちょっと前まで事件のことを気にしないで『なるべく普通に』ふるまうように努力してて、その次にヨギナミのお母さんが亡くなって、動揺してた所に橋本の話ですよ?
なんで次々といろんなことが起きるんですかね。
人生ってそういうもの?
早紀は最近考え込んでいるようだ。それから、昨日結城が学校に来て、古いレコードを聴きまくって変な様子だったという話をした。
結城はやっぱ音楽やって生きるべきだよ。
他にできることないんだから。
久方はそう言いながら天井を見上げた。ピアノはまだ続いている。
結城さん、現実逃避してますよね。
早紀が言った。
そうだよ。僕はもうやめるけどね。
久方は笑って言った。
どういう意味ですか?
来年の3月に、神戸に帰ることにしたよ。
久方はできるだけさらっと言った。
向こうに帰って、父さんや母さんに会ってわかったんだ。
あの家が僕の本当の家だって。
あの2人が本当の両親だって。
なのに僕はずっと放置してしまった。
だからもう帰ることにしたよ。
早紀が黙っているので、久方は、
大丈夫、サキ君が卒業するまではいるから。
だから留年はしないでね?
と言うと、
留年なんかしませんよ。
やっと早紀が言葉を発して、笑った。
だけど、数学がほんとにわかんないんですよね。もしかしたら今年も補習かも。でも卒業式に補習は嫌だなあ……。
それから早紀は、
カフェに行きましょう。
今日は勇気が岩保さんの所に行ってていないんです。
松井マスターに確認済みです。大丈夫です。
と言った。久方は気が進まなかったが、他にやることもないので行くことにした。
歩いている早紀を見ながら、久方は思った。早紀は、自分に気を遣ってくれているのだろうか。自分の気持ちを知っているから。そう思うと複雑だったが、少なくとも嫌われてはいない。仲良くしてもらえるだけで満足しなくては。
カフェには客が多く、席はほとんど埋まっていた。久方と早紀はカウンターに並んで座った。久方はコーヒーチケットを2枚松井マスターに渡し、早紀に「食べたい物はある?」と聞いた。早紀は「特にない」と答えた。
昨日ナミちゃんが来て、幽霊の話を聞いたのよ。
松井マスターが言った。
ヨギナミ、何か言ってましたか?
早紀が尋ねた。
『もったいない』って言っていたわね。今生きてたら『ただのおもしろいおっさん』だったのに、って。
おもしろいおっさん。
久方は笑ってしまった。
あれのどこがおもしろいのか全然わかんない。
早紀が言った。
あら?そう?
私もけっこう興味深い人だと思ってたわよ。
これ食べて、余ったから。
松井マスターが、小皿に乗ったアイスボックスクッキーのかけらを差し出した。早紀は喜んでそれを手に取り、口に放り込んだ。
橋本は、僕より人気がありましたよ。
久方が言った。
神戸の母に聞いたんですけど、橋本と仲良くなった奴がよく訪ねてきたそうです。僕も覚えてるんです。知らない人が突然家にやってきて、友達みたいに話しかけてくるから──怖くて仕方なかったな。
当時は本当に怖かった。まさか、笑い事にできる日が来るとは思ってもみなかった。
橋本は所長の体を使ってさんざん楽しんだわけですね。
いいかげん満足して成仏しろってんですよ。
早紀が言った。
でも最近は、もう一生2人で生きていく運命なのかなと思うことがあるよ。
やだ〜!そんなの絶対嫌です!
早紀が叫び、客の何人かがこちらを見た。松井マスターが口元に手を当てて「シッ!」と言った。早紀は小声で「すみません」と言って肩をすくめた。
私は奈々子と一生一緒なんて嫌なんですけど。
そうだね。それは何とかしないとね。
秋浜祭で歌ってもダメだったら、やっぱり結城さんが原因ですよね?
それは──どうだろう?
絶対そうですよ。絶対嫌ですよそんなの!
僕が気になってるのは、新道先生とあの人の関係性だよ。
久方が言った。
なんであの人は、新道先生まで呼び戻したんだろう?絶対邪魔されるってわかりそうなものなのに。
そういえばそうですね。
橋本が、あの2人は一人みたいなものだって言ってたのも気になる。
どういう意味ですかね?
わからない。修平君の体調は?
ここ数日、天気が悪いから調子よくないって言いながら、自転車に乗りまくってます。大丈夫でしょう。
早紀は興味なさそうに言ってから、
セレニテに行きましょう。
と言った。なぜ今まりえの所に行かなければならないんだと久方は思ったが、早紀が「チョコレート買いたい」と言い張ったので一緒に行った。
しかし、まりえは用事があって出かけていて、いなかった。こないだ試作品だったハスカップのチョコレートが売られていた。試食した早紀は「前より甘くなってる」と言って、小さな包みを一つ買っていた。支払いはあいかわらずクレジットカードだったが。
帰り道で早紀は、
所長とまりえさん、お似合いだと思いますよ。
と言った。
その話はやめてよ。そういう仲じゃないんだから。
やはり早紀は自分の存在が邪魔なのだろうか。だからこんなことを言うのだろうか。久方は密かに沈んでいた。つらい。
建物に戻るとピアノの音は止まっていて、結城の姿もなかった。車も消えていた。どこかへ行ってしまったらしい。
なんかまた避けられてる気がします。
早紀が言った。
映画見てもいいですか?
と言ったので、ウディ・アレンの『世界中がアイ・ラブ・ユー』を見た。早紀は見ながら「これ、マリリンの曲だ!」などと言って楽しそうにしていた。
ああ、僕の愛が通じる日は来ないのか。
久方はずっとそんなことばかり考えて、画面をあまり見ていなかった。




