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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年8月

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2017.8.11 金曜日 研究所 サキの誕生日

 早朝。

 全てを聞いた久方創は、呆然と自室の床に座り込んでいた。その前では、橋本が座り、深く頭を下げて止まっていた。外はどんよりと曇り、午後には雨が降る予報だった。


 お前のせいだったんだ。


 久方がつぶやいた。


 お前が「突き落としてくれ」なんて言ったから。


 あいつは悪くない。


 橋本が下を向いたまま言った。


 だから言ったろ。全部俺のせいだって。


 だから、母さんはおかしくなったんだ!


 久方は叫んだ。


 お前のことが忘れられなくなって、

 だからよみがえらせようとして、

 今僕がこうなってるんだ!

 そんなのないよ。ひどすぎるよ。

 きっとそのせいで母さんは──


 ごめん。


 橋本が言った。


 俺が間違っていた。でもな、あの時はそうするしかないと思い込んでたんだよ。何も希望がなくて──


 もういいよ!


 久方は逃げるように部屋を飛び出した。

 まだピアノの音は聞こえない。1階へ行き、裏口から畑に出て、曇り空の下をひたすら歩いた。


 そうか、そうだったんだ。


 なぜこんなことになったのか、なぜ自分がこうなのか、なぜあの人が橋本にこだわるのか──やっとわかった。久方は歩きながら気持ちを落ち着けようとした。しかし、なかなか心臓が落ち着いてくれない。おそらく、心拍数がいつもの倍になっているだろう。そう感じるくらい、久方はおののいていた。


 橋本に徴発されたとは言っても、

 あの人が突き落とした事実に代わりはない。


 久方は思った。


 サキ君とお母さんに知らせなきゃ。

 でも、今日はダメだ。

 サキ君の誕生日なんだから──


 気がついたら『クマ注意』の看板がある森の入口まで来ていた。猟友会に見つかったらまた「一人でこんなとこ来ちゃ危ないべや」と怒られるだろう。

 この町の人は、互いに気を遣って生きている。

 しかし橋本は、当時の札幌で孤立していた。父親と新道先生を除けば、心配してくれる人などいなかった。

 久方は森に入り、あの大木がある所まで歩いていった。木はいつもどおりそこにあった。何が起きても、揺るがずにそこに立っている。すぐにぐらついて倒れてしまう人の心とは、なんという違いだろう。

 

 ああ──


 久方は大木にすがりついた。


 僕はどうしたらいいんですか?

 全てわかったのに、どうしていいかわからないんです!


 久方はしばらく木にくっついたままだった。大木はもちろん口を開かないし、答えも教えてくれない。しかし、何かが、久方の体から抜けていった。上がりすぎた心拍数が下がっていくのを感じた。

 我にかえって木から身を離した時、身体からは焦りが消えていた。


 明日、サキ君とお母さんに話そう。


 久方はそう決めた。さっきまで見えなかった景色が急に見えるようになった。どす黒い雲がものすごい勢いで空を移動していく。日光が強まったり弱まったりしながら、草や木の色を変えていく。風で木々は大きく揺れている。これから天気は大いに荒れそうだ。

 久方は早足で建物に戻った。うるさいショパンが天井から落ちてくる。キッチンに行き、パン種を冷凍庫から取り出してオーブンに入れ、卵を焼いた。ポット君を起動させてコーヒーを頼んだ。そして、作業の合間に、冷蔵庫に入っている箱をちらちらと見た。本堂まりえに作ってもらった特製チョコレートの箱だ。


 サキ君、受け取ってくれるかな?


 久方は現実的な心配をし始めた。




 夕方、平岸家で早紀の誕生パーティーが開かれた。今年は久方も結城も呼ばれていた(が、結城は来なかった。車に乗ってどこかへ行ってしまったのだ!)。

 久方が平岸家に入ると、奥からはもう新橋五月と佐加が話すけたたましい声が響いてきていた。有名なインフルエンサーについて話していて、盛り上がっているようだ。会場には学校の友達が集まっていて、早紀はその中心にいて楽しそうに笑っていた。心なしか、いつもより輝いて見える。


 橋本だって、本当はこういう生活がしたかったんだ。


 久方は急に強く思った。


 家族に愛されて、友達がいて、みんなが誕生日を祝ってくれて──でも、それができなかったんだ。当時は髪の色に厳しかったから。


 久方は早紀にそっと近づくと、チョコレートの箱を差し出し、


 お誕生日おめでとう。


 と言って笑った。早紀は「ありがとうございます」と言い、その場で箱を開けた。中には、チョコレートでできたバラの花束が入っていた。セレニテのウィンドウに飾ってあるものを小さくしたようなものが。


 うわーこれすごくね!?


 のぞきこんだ佐加が大声で叫んだ。声が大きすぎたので、久方は驚いて数歩後ろに退き、近寄ってきた新橋五月にぶつかった。


 久方さん。こんな意味ありげなものを娘に渡しちゃって、何を企んでるのォ?


 すでに酔っ払っているのか、赤い顔がからんできた。


 そういう意味はないですよ!


 久方は叫んで新橋五月から離れてから、また早紀に近づき、


 橋本が死んだ日のことを話してくれたよ。


 と早紀の耳元でささやいた。早紀は驚きの目で久方を見た。


 明日、お母さんと修平君を連れてうちに来て。

 全部話すから。


 久方はそれだけ言うと、また父親にからまれる前に平岸家を出た。平岸の奥さんが「もう帰っちゃうの?」と残念そうに言い、フライドチキンとサラダをお土産として無理やり久方に持たせた。


 

 帰ってから、久方は1階の部屋で一人、雨の音を聞いていた。太古の昔から変わらない音。橋本が生きていた時代にも、同じような音を立てていただろう。部屋で一人この音を聞いていると、自分がどこでもない空間にいるような錯覚に囚われた。2017年でもなく、1980年でもない、どこか、別な次元に。


 どうして、こんなことになったんだろう?


 それがどうしてもわからない。しかし、現に橋本は絶望し、あの人は橋本を突き落とした後、復活させようとして自分を作った。おそらく、もう一度生き直させるために。

 時代は変わった。

 今ではもう誰も、髪の色など気にしない。

 でも、当時は誰も、そんなことは予想していなかった。日本人ならば髪が黒いのは当たり前で、前に聞いた話だと、茶髪が流行し始めた90年代でも「日本人には似合わない」「猿みたいだ」「茶色い髪は頭悪そうに見える」と言う人がたくさんいたのだ。

 久方は結城のことを思い出した。90年代に金髪だった男を。


 今どこにいる?


 久方はスマホで聞いた。返事はすぐ来た。


 岩見沢でうまい飯食ってるけど?


 早紀の誕生日に何をしてるんだ、と久方は言いたかったが、それはやめて、代わりに橋本に聞いた話を送った。


 俺の時代でもうるさかったもん。

 80年代で赤い髪なんて地獄だろ。

 わかってやれよ。何でも許される今とは違う。

 自分でいることが許されない時代があったんだよ。

 マイノリティーや障害者にとっては、

 今だってそうなんだよ。

 誰もがポジティブに生きられるわけじゃない。

 それはお前もよく知ってるだろ?


 全くそのとおりだ。言い返す気もしない。

 久方は「フライドチキンもらったから冷蔵庫に入れとく」と送ってやりとりを終え、猫達にエサをあげて、「君らの世界には偏見がなくていいね」とつぶやいてから、2階の自分の部屋に行った。

 雨の音は、2階の方が強い。屋根に直接雨粒の当たる音がする。久方はベッドに座ったまま天井を見上げ、その音を全身で浴びた。また時間の感覚がなくなってきて、いろいろな光景が見えてきた。夢で見た橋本や新道先生のこと、若い頃の少しおかしいあの人のこと、それから自分の人生、奈々子と一緒に逃げ回ったこと、気づいたら神戸の両親の所にいたこと、駒と音楽について語り合ったこと、人生を『別人』に取られていると思っていた学生時代、勇気を振り絞って行ったドイツのこと、レティシアのこと。

 そして、この町で早紀に出会ったこと。

 自分と同じような苦しみを彼女が持っていること。


 ああ、そうか。


 久方は雨の響きの中で悟った。


 全部、このためだったのかもしれない。


 


 気がつくと、時計はすでに真夜中を回っていた。








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