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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年8月

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2023.8.9 水曜日 松井カフェ

 松井カフェ。高条勇気がカウンターで動画を見ていると、ヨギナミがやってきた。いつもは『おっさん』と一緒だが、今日は一人のようだ。


 いらっしゃい。


 松井マスターがヨギナミに近づいていった。ヨギナミは軽く頭を下げてからカウンターに座った。


 どう、もう落ち着いた?


 はい。大丈夫です。コーヒーをお願いします。


 ヨギナミはいつもと変わらない様子だった。母親が死んだばかりだというのに。勇気はスマホを見るふりをしながら、ヨギナミの様子をうかがっていた。


 昨日杉浦さんと平岸さんが来て、お母さんのことをいろいろ話してたのよ。あの3人は仲がよくて、学生の頃からよくここに来ていたから、思い出がたくさんあるのね。

 

 松井マスターが言った。


 そうですか。


 ヨギナミが言った。松井マスターがコーヒーを出した。ヨギナミは何も入れずにそれを飲んだ。他の客がやってきて、松井マスターはそちらの対応をするためカウンターを離れた。ヨギナミは黙ってコーヒーを飲み続けていた。

 しばらくして、松井マスターが客の対応を終えると、


 マスター。


 ヨギナミが口を開いた。


 お母さん、いつ頃までここに来てたんですか?


 ナミちゃんが生まれる一年前くらいまでは来てたわね。


 松井マスターが答えた。すると、


 やっぱり私のせいなんですか?


 ヨギナミが言った。


 母が笑わない人になったの、私が生まれてきたからなんでしょうか。


 そんなことないわよ。


 松井マスターは大声で言った。しかし、勇気にはそれが「ええ、そうだけど、あなたには知ってほしくないのよ」に聞こえていた。ばあちゃんはそういう気遣いをする人だと知っているからだ。


 私ずっと不思議に思っていたんです。


 ヨギナミが言った。


 みんなの話を聞いていると、母は、若い頃はとても楽しく暮らしていたみたいなのに、私は母が楽しそうにしているのを見たことがない。笑うのもめったに見なかったんです。

 やっぱり、私が生まれたから母が不幸になったんじゃないかって──


 そんなことないわよ。


 松井マスターはまた大声で言った。「そうだけど、それは言っちゃいけないのよ」と勇気には聞こえた。


 あなたのお母さんは不幸なんかじゃなかったと思うわよ。病気ではあったかもしれないけど、きちんと世話をする娘さんがいて、幸せだったと思うわよ。だからそんなこと気にしなくていいのよ。


 でも、母の私に対する言動から考えると──


 ヨギナミは納得しきれていないようだった。


 確かに、あさみさんのナミちゃんに対する態度は、母親としては問題があったかもしれないわね。


 松井マスターが、今度は静かな声で言った。


 でも、人の心なんてわからないものなのよ。

 人はそれぞれにその人独特の天国と地獄を抱えていて、全く同じ環境にいてもどちらに取るかは人によって違う。他人から見れば、病気だったから不安だったのかもしれないとか、何とでも推測はできる。でも、その人本人の心の内は、本人にしかわからないのよ。

 心でこうしたいと思っていても、できないことはあるしね。

 だから、他の人が勝手に「この人はこうだったんだ!」なんて、安易に決めつけちゃいけないのよ。

 もうわからないことなの。

 死んだ人がどう思ってたかなんて。

 わからないことを考えてもしょうがないのよ。


 あのさあ。


 勇気が話に割って入ってきた。


 お母さんが不幸かどうか知って、

 ヨギナミはどうしたいの?


 ヨギナミが答えなかったので、勇気がこう続けた。


 自分のせいで母親が不幸だったかもしれない。だから何なの?そうだとしてもそれはヨギナミのせいじゃなくて、お母さんが自分の人生を自分でしくじっただけじゃん?

 それはお母さんの問題であって、

 ヨギナミの問題じゃないよ。

 なんでそんなこと気にする必要があるの?

 知ってどうすんの?


 すると、ヨギナミはしばらく動きを止めた──かと思うと、みるみるうちに目から涙が溢れてきた。

 勇気は慌てて、カウンターの箱ティッシュをヨギナミの前に投げた。


 ごめん。ごめんね。


 ヨギナミがティッシュで涙を拭きながら言った。


 ずっと考えてたの。

 お母さんの人生は何だったんだろうって。

 私を産んだせいでみんなに不倫って言われて嫌われて、不幸なまま死んだんじゃないかってずっと思ってたの。


 すると、他の席にいたおばさんがクッキーを取ってきて「おごるわ」と言い、別な席のおじいさんが「これ、あの子に」と言って千円札を置いていった。

 町の人達は、与儀あさみが亡くなって娘だけが残された今、昔噂話をして仲間はずれにしたことを後悔し始めているようだった。ここ数日カフェに来た常連達の様子や話す内容から、勇気はそれを察していた。死んでから後悔したって遅いのにな、と勇気は思っていた。


 誰のせいでもないのよ。

 物事って時々、どうしようもなく起こるものなのよ。


 松井マスターがしみじみと言った。


 お腹すいてない?オムライスでも食べてく?


 いえ、平岸家でごはんが出るので大丈夫です。


 ヨギナミは鼻をかんでから立ち上がった。そして、勇気に近づき、


 ありがとう。目が覚めた。


 と言って、真っ赤な目でにっこり笑ってから店を出ていった。

 勇気は、ヨギナミのことを初めてかわいいと思った。今まで早紀以外の女子はみんなブスだと思っていたのに。


 今の、動画に撮っておけばよかった。


 勇気がつぶやくと、


 何を言ってるの。やめてちょうだいよもう。


 松井マスターが呆れた。

 数十分後、店内に奈良のとっつぁんが入ってきた。


 保坂のヤロー、また離婚するって騒ぎ出したぞ。


 といきなり言った。


 与儀さんが亡くなってはじめて大事なことに気づいたとか言ってよ、今更何言ったって遅えっつうんだよ。

 あ〜、気晴らしにパチンコ行きてえな。

 久方さん、今日は来てないの?


 松井マスターは苦笑いした。あなたのパチンコ仲間は『久方さん』ではないのよと、そろそろ教えてあげるべきだろうか。

 勇気は保坂秀人に連絡した。


 今、家中のものが空を飛んでっから、

 保の家に避難してるべ。


 と言ってきた。


 俺ちょっと保ん家行ってくる。


 勇気はスマホをポケットに入れて店を飛び出した。


 これ以上子供を混乱さすなってんだよ。なァ?


 奈良のとっつぁんが松井マスターに同意を求めた。マスターは困った笑いでそれを受けた。








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