2017.8.6 日曜日 研究所
久方は昨日から畑仕事に専念していた。水やりは早紀達に頼んでいたが、その他のことをほったらかしにしてしまったため、やることはたくさんあった。幸い天気はいい。空は青く、きれいな雲がいくつか浮かんでいて、草原や畑の緑は日に輝いている。いい日だ。
何が起きても、ここの景色は変わらない──
久方は、悲劇の前と後の景色の変わらなさを思った。あさみはもういない。それは大きな喪失だ。しかし、この大自然には何ら影響を与えていない。もしかしたら、人類が滅んでも、この景色はそのままここにあり続けるのではないか。
ひととおりの仕事を終え、中に戻ろうとした時、
あーいた!所長いたー!!
佐加が裏口から出てきた。久方は走って逃げようかどうか迷ったが、
サキは今結城さんと発声練習してるよ。
後ろからヨギナミが現れたので、久方は逃げるのをやめた。
ヨギナミ、大丈夫?
私は大丈夫。所長さんこそ大丈夫なの?
僕は何ともないよ。橋本は落ち込んでるけど。
3人で1階の部屋に行くと、天井からピアノと、サキが発する声が聴こえてきた。
ヨギママがいなくなってさ、昨日ずっと部屋にこもって考えてたんだけど、
佐加がらしくないことを言い出した。
でも、うちが落ち込んでてもヨギママは喜ばないから、気晴らしに遊ぶことにした!
所長、一緒にマンボー行かね?たまにはおっさんじゃなくて所長が遊ぼうよ〜!
大きな音が苦手だから遠慮するよ。
パチンコは音がうるさすぎるから近寄れない。
久方は言った。天井を気にしながら。声が、発声練習から歌に変わった。これはきっと奈々子さんだろう。
所長、やっぱりサキのこと気になる?
佐加が尋ねた。久方は答えなかった。
だったらさ、手遅れになる前に何とかした方がいいよ。
いつまでも一緒にいられるわけじゃないんだから。
いつ何が起きるかわかんないし。
佐加がしんみりと言った。
その時、インターホンが鳴った。玄関に行くと、高谷修平がいた。
自転車乗りたくて、走ってたらここまで来ちゃいました。
修平が笑って言った。
自転車ってあの電動のやつ?
うち乗りたいと思ってたんだよね!
佐加が外に飛び出していき、停まっていた自転車に乗って走り出した。
おい!待て!俺の自転車ァ!
修平は慌てて追いかけていった。
田舎だからって油断して鍵かけないからだよ。
久方は笑って言った。
高谷も佐加も、お母さんのことで落ち込んでいるみたい。
ヨギナミが言った。他人事のように。
でも、あの様子ならもう大丈夫かな。
久方はその言い方を聞いて、ヨギナミのことが心配になってきた。あまりにも冷静すぎる。そういえば、橋本が泣いていた時でさえ、ヨギナミは表情を崩さなかった。どうしたのだろう?
久方はポット君にコーヒーを頼み、ヨギナミに席をすすめた。天井からは美しい歌声が聞こえる。これはシューベルトのアベ・マリアだろうか。
ポット君がコーヒーを置いて去っていった後、ヨギナミが、
所長、お母さんが亡くなって、悲しい?
と尋ねた。
悲しいよ。
久方は答えた。
でも、この悲しみが自分のものなのか、橋本のものなのか、よくわからないんだ。たぶんほとんどは橋本の悲しみなんじゃないかと思うよ。
あいつは本当に悲しんでるから。
うん、わかってる。
ヨギナミはそう言ってから、
私、全然悲しくないの。
と言った。顔に表情がなかった。久方は驚いて立ち上がりそうになった。
みんな、私が一番悲しんでると思ってる。少なくとも『そうあるべき』だと思ってるよね。でも私、何も感じないの。母が危篤でもうダメだろうと言われた時から、心が全然動かない。亡くなったって聞いても、あ、そうなんだ、って思っただけ。その後まわりの人達がすごく気を遣ってくれて、何か困ったことがあったら言ってね、みたいなことを言ってくれたけど──
あの、それは、
久方はとまどいながら言った。
今までずっとお母さんの世話で苦労したから?いなくなったからもう世話しなくてすむみたいなこと?
ううん、そういうことじゃない。ただ、何ていうか──ただ、そういうものなんだって思うだけ。母が病気なのも、弱いのも、わがままなのも、ただ、そういうものだからって、それと同じ。いつかこの人は死ぬなって、私、わかってたのかもしれない。母が寝付くようになった頃には。
日が陰り、部屋が暗くなった。
私、冷たいのかな?
ヨギナミは言った。久方は答えられなかった。かま猫がテーブルに乗って来たので、ヨギナミが頭を撫でた。その優しそうな手付きからは、冷たさは感じられなかった。しかし、どういうことだろう?久方はやはり心配だった。いったいヨギナミの身に何が起きているのだろう?
ピアノの音と歌声が止まった。早紀と結城が降りてきた。久方はお菓子を取りに地下へ行った。戻ってくると、佐加も戻って来ていて、
カッパさ〜、ちょっと走っただけでへばっちゃって、あたしが自転車の後ろに乗せて平岸家まで送ってやったさ。あいつマジで体力ないよね〜。
などと話していた。久方は心の中で高谷修平に深く同情した。佐加と一緒に自転車に乗るなんて、想像しただけで悪夢のようだ。
今日は幽霊さん、何か話してた?
ヨギナミが早紀に尋ねた。
別に。『今日は喉の調子がいい』とかそんなこと言ってただけ。
早紀が答えた。
少しずつうまくなってるよ。
結城が言った。
秋浜祭、何歌うの?
佐加が尋ねた。
あ、そうだ。もう決めておかないとまずいよね。
あと2ヶ月?
早紀が言った。
あの祭りならやっぱりノリノリのアイドルだろ。
結城が言うと、
ダメです。アイドルの曲はアイドルにまかせとけばいいんです。もっと真面目な曲にしましょう。
と早紀が言った。
祭りで真面目な歌歌って楽しいか?イベント会場でクラシック歌ってる奴なんているか?
やっぱアイドルがいいよ。
早紀と結城が曲目について言い争って、佐加がそれに余計な意見を挟んでいる間、ヨギナミは黙って冷めたコーヒーを飲み、マグカップを持ってキッチンへ行ってしまった。やっぱり何か変だなと久方は思った。
学生3人が帰ってから、久方が結城にヨギナミの話をすると、
ああ、そういうもんなんだよ。
別におかしなことじゃない。
と言った。珍しく真面目な顔で。
亡くなってすぐには実感がないんだよ。そうか、いなくなったのか、ってことを認識するだけでな。
でも、時間が経ってから思い出すんだよ。
外を歩いてて親子連れを見た時とかさ、昔一緒にいた時のことをふっと思い出した時──そういう時が一番悲しいんだよ。もうあの人はそばにいないって本当に実感する時が。
ヨギナミはまだそこまで行ってないんだよ。
まだ亡くなって数日だろ?
これからじわじわと来るんだよ。
その時がまわりの大人の出番なんだよ。
久方はそれを聞いて思い出した。結城が、母親を交通事故で亡くしていることを。
お前が悲しみを実感した時、まわりにそういう大人いたの?
久方は尋ねた。
いや。
結城は薄笑いを浮かべて言った。
近所のカフェのマスターと、すすきので遊んでた奴らくらいかな。
慰めにはなったよ。
でもそれで完全に癒やされるわけじゃない。
結局、最終的に喪失を受け入れなきゃならないのは自分だ。
結城は残りのお菓子をつかんで立ち上がると、
お前も手遅れにならないうちに神戸に帰れよ。
親はいつまでも生きてるもんじゃないんだぞ。
今日のメシは俺が買ってくるわ。
と言って出ていった。
油っぽいものはやめてよ!
久方は廊下に向かって叫んだ。
それから、神戸の母親に『北海道にはいつ来れるの?』と尋ねた。父の方から『9月には行ける』と連絡が来た。久方は両親が来た時の計画を立て始めた。楽しいことを考えていた方が気がまぎれるし、あの2人には北海道を満喫してもらいたい──いつも働いてばかりで、遊んでいるのをあまり見たことがないし。
しかしヨギナミは──久方は思った。ヨギナミに何かあった時、やはり出てきてほしいのは橋本なのだが、その橋本が一番悲しんでいる。大丈夫だろうか。他の人達にヨギナミを支えられるだろうか。それとも、本人が言っていたように『そういうものだから大丈夫』なのだろうか?




