2017.8.4 金曜日 研究所→ヨギナミの家
昼過ぎ、久方創は『研究所』に戻ってきた。町の人がふざけてそう名付けた病院の廃墟だ。ほんの一週間前まで暮らしていた場所──なのに、神戸の家から戻ってくると、見知らぬ場所のような気がしてしまう。
ちょっと前まで、
ずっとここで暮らしてもいいと思っていたんだけどな。
だが、今はそうは思えなかった。自分が帰るべき場所は北海道ではなく、神戸のあの家、あの両親がいる場所なのだ。それがわかったのに、なぜここに戻って来る必要があるのか。
橋本と、早紀のためだ。
久方は神戸の両親に『来年の3月までは北海道にいる』と言った。つまり、早紀が秋倉高校を卒業するまでだ。父と母は『本当に戻ってくるのか?』と心配そうにしていた。久方は2人に『一度、北海道に来てよ』と言った。秋頃に行けるかもしれないと父は言っていた。客室を整えておかなければ。
久方は1階の部屋に行った。早紀がいるかもしれないと思ったが、そこにいたのはのんきにくつろぐ猫達と、結城だった。結城はなぜか、テレビもつけずに、ソファーに座っていた。
テレビつけないの?
久方が話しかけると、結城はゆっくりと振り向いた。表情がなかった。
どうしたの?
悪い知らせがある。
結城が言った。
落ち着いて聞けよ?
そして、こう言った。
ヨギナミの母親、亡くなった。
数分後、久方、いや、橋本が、草原の道を走っていた。
あさみが死んだ。
嘘だと思いたかった。確かに長く意識がなくて、みんなもうダメだと言っていたが、橋本はどこかで、あさみがいつか目を覚ましてくれるのではないかと期待していた。しかし、それは叶わなかった。
あさみの家は、何もなかったかのようにそこに建っていた。橋本は隠し場所から鍵を取り出し、家の中に入った。
座卓の上に、遺灰が入った白い箱と、あさみの写真が置いてあった。写真の中で笑っているあさみは、かなり若い。ずいぶん古い写真のようだ。
橋本は白い箱と写真を交互に見た後、その前にひざまづいた。そして、長いこと動かなかった。
おっさん、帰ってきてたの?
声がしたので見ると、窓際のあさみのベッドで、ヨギナミが寝ていた。今目を覚ましたばかりなのか、目がとろんとしていた。
お葬式はもう終わったよ。
ヨギナミが寝たまま言った。
私、ここにいたらお母さんの気持ちがわかるかと思って──でも、やっぱりわからない。
ヨギナミが起き上がった。
ごめん。
橋本が言った。
所長さん、神戸に行ってどうだった?
あいつはもう心配ない。家族を取り戻した。
それよりお前大丈夫なのか?
橋本が尋ねたがヨギナミはそれには答えず、座卓の近くまで来て座った。
その写真、高校を出たちょっと後のなんだって。お母さんは大人になってからは自分の写真を撮りたがらなかったから、昔の写真しか残ってないの。
ヨギナミが言った。橋本は改めて写真をじっと見た。幸せそうな若い女性。自分が知らない、昔のあさみの姿。
本当に、いなくなっちまったんだな。
今まで接してきたあさみの姿が、橋本の頭の中で一気によみがえってきた。窓から呼びかけてきたこと、町の人の冷たさについてひたすら話し続けた日のこと、一緒に外に出て草原を見つめた日のこと──
ごめん。
橋本はまた言った。
最期に、そばにいてやれなくて、本当にごめんな。
声は涙でくぐもっていた。そして、
わからねえ。
吐き出すようにつぶやいた。
あさみがいなくなったのに、
なんで俺はまだここにいるんだ?
橋本が声を殺して泣き始めたので、ヨギナミが隣へ行き、背中をさすった。
ごめんな。本当につらいのはお前だろうに。
そうかな?
ヨギナミは言った。
お葬式で、みんな泣いてたのに、私は涙一つ出てこなかった。
俺は創の体を借りねえと、泣くこともできないんだ──
しばらく嗚咽が続いた。橋本が泣いている間、ヨギナミはずっと横にいて、背中をさすったり、抱きつくように寄りかかったりしていた。
30分ほど経った頃、ヨギナミがお茶と、スギママが置いていった秋倉名物『倉まんじう』を出した。
橋本はお茶を一口飲んだだけで、まんじうには手を付けなかった。
おっさん。私のことは心配しなくていいよ。
ヨギナミが言った。
私、どこかで、わかってた。母はもう回復しないって。だからもう心の準備はできてたんだと思う。元々そんなに仲良くなかったし──私、冷たいんだろうな。母が『あの子は冷たい』ってよく言ってたんだって。
そんなことねえよ。
橋本が小声で、うつむきがちに言った。
お前はまだ、自分に何が起きたか理解してないだけだ。
それから、こう言った。
俺もわかってなかったんだよ。一人の人間の死が、どれほどまわりの人間に衝撃を与えるかってことを。
橋本は一度黙った。ヨギナミは何も言わずに次の言葉を待った。
あさみは、町の連中にとってはどうでもいい存在だったかもしれない。でも、俺にとっては──
少し間を置いてから、
自分の存在を認めてくれた、大切な人だったんだ。
外から雨の音がしてきた。急な天気の変化に2人とも驚いた。さっきまできれいに晴れていたのに──
俺、もう帰らねえと。
橋本がだるそうに立ち上がった。
今日は創が久しぶりに帰って来て、やることがたくさんあるだろうからな。
でもな──
橋本がヨギナミを見て、言った。
お前、本当に大丈夫なのか?
大丈夫だって、おっさんの方が心配だよ。
お母さんのこと本気で好きだったもんね。
ヨギナミが笑った。悲しい笑い方だった。
一つ約束しろ。
何?
いつかあさみのことを思い出して悲しくなったら、遠慮せずに人に頼れよ。俺でも、カフェのマスターでも、平岸家の連中でもいい。
だから私は大丈夫だってば。
ヨギナミは笑って言ったが、
いや、今はまだ実感がわかないだけだ。そのうち、本当に自分の悲しみが理解できる時が来る。その時には絶対に、一人で耐えようとするなよ。つらいときは必ず人に頼るんだ。わかったか?
本当に大丈夫だって。
いいから約束しろ、な?
ヨギナミは嫌そうだったが、橋本がしつこいのでしぶしぶ、
わかった、約束する。
と言った。そして、自分の傘を橋本に貸した。橋本は『お前のは?』と聞いたが『もうすぐ平岸パパが迎えに来るから』と言われた。
橋本は傘をさして草原を歩きながら、ヨギナミに頼れる大人がたくさんいてよかったと思った。きっと本人が言うとおり、大丈夫なのだろう。
今はそれよりも──
あさみ、本当にいなくなったんだな。
橋本は同じ言葉を繰り返した。
俺はここで何をしてるんだ?
気がつくと、久方が草原に立っていた。
なぜか両目から涙があふれて止まらない。橋本が残していった衝撃と悲しみは、あまりにも大きかった。久方は泣きながら研究所に帰り、結城はそれを見てもいつものようにからかったりはしなかった。テーブルにはセコマで買ったらしきお弁当とお惣菜がたくさん並んでいたが、久方は食事どころではなかった。
スマホが振動した。
所長、もう聞きましたか?
と、早紀が聞いてきた。
聞いたよ。涙が止まらない。橋本のせいだ。
と返事した。
私がそっちに行きましょうか?
来てほしい、と思ったが、メソメソ泣いている所を見られたくないので、
大丈夫、そのうちおさまるから。
と答えた。
私もここ3日、考えてるんです。これはどういうことだろうって。修平も元気なくて部屋にこもってます。よく知ってる人が死んでいなくなるって、こんなに衝撃なんだって思いました。
母に『長生きしてね』ってLINEして逆に心配されました。
母。
ああ、今、神戸の母に会いたい。今すぐ戻って泣きつきたい。でも、それは大人のすることじゃない。早紀のためにも、元気にならないと──
久方は何とか泣き止み、結城が選んできた油っぽい惣菜を少し食べ、パソコンに向かって、Facebookに神戸の記事を書いた。
これは僕の悲しみじゃない。
久方は自分に言い聞かせた。
僕は元通り生活しなくちゃ。
まわりの人のためにも。
今、久方は、使命感だけで平静を保っていた。




