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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年8月

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2017.8.1 火曜日 サキの日記

 結城さんが戻ってきた。思ったより早く。

 研究所の客室で寝ながら本読んでたら、階段を上がってくる足音がして、その後すぐ、またあのトッカータが聞こえてきた。私は結城さんの部屋まで走っていき、「歌の練習しましょう!」と叫んだ。結城さんはピアノを弾くのをやめて、


 ここに泊まってみて、どうだった?


 と聞いてきた。


 怖いくらい静かで落ち着かなかったです。

 考え事するにはちょうどいいけど。


 と答えたら、


 だよな。なあ、

 久方はもう戻って来ない方がいいと思わない?

 こんなとこにもう3年も住んでんだよ?もういいだろうって。

 最近生きる気にもなってきたみたいだしさあ。


 と結城さんは言った。そうかもしれない。所長はもう、神戸のちゃんとした家族の所にいて、昔のことなんて忘れるべきなのかも。

 たぶん、私も、昔のことは忘れるべきなんだ。

 

 練習しましょう。奈々子もそのうち出てきますよ。


 発声練習を始めた。30分くらい経った。奈々子はなかなか出てこない。なぜか結城さんが西野カナの曲を弾き始めたので、私が3曲くらい歌うはめになった。その後ようやく、奈々子が出てきた。


 アヴェ·マリア·ファディスタを歌いたい。


 と言って、何語だかわかんない外国語のアベ・マリアを歌い出した。すごくいい声で。私の体から発しているとは思えない声だった。音色豊かで、空気を浄化してくれそうな美しい響き。

 やっぱり私とは違う。

 そう思った。

 同じ体なのになぜだろう?

 やっぱ魂が違うから?

 その後、奈々子は自分で作った曲や、結城さんが勧めた曲を歌って一時間くらい過ごし、急に、


 創くんもいないし、

 今日はサキと遊んであげて。


 と言って、引っ込んだ。

 私に気を遣ったのかもしれないけど、私が戻ったのを見た結城さんがちょっと嫌な顔をしたのが悲しかった。でも、


 どっかにメシ食いに行く?


 と言ってきたのでびっくりした。私が「行く!」って言うと、結城さんは車で少し離れた居酒屋みたいな店に行こうと言った。

 結城さんと2人で車に乗った。

 こんなのめっちゃ久しぶり!

 助手席に乗っている間ずっとドキドキしてた。結城さんがすぐ横にいる。体の熱を感じる。横顔はいつ見てもきれい。結城さんってどうしてこんなにきれいなんだろう?もういい年のオジサンのはずなのに。

 着いたのは、前に駒さんと一緒に来たことのある店だった。そういえばあの時、酔っ払った結城さんにつかみかかられたっけ。それで「お前のせいでピアノがやめられない」って。

 あれは奈々子に言った言葉だ。

 嫌なことを思い出してしまった。

 今日はあんまりお酒飲ませないようにしようと思った。

 席につくと、結城さんはメニューも見ずに、


 新橋さ、大丈夫?


 と聞いてきた。


 何がですか?


 奈々子のことだよ。他人に体使わせてて大丈夫?

 俺一応心配してんのよ?久方が『別人』のせいで狂ってたのを見てきてるからさあ。


 めっちゃ軽い口調で言われた。


 大丈夫じゃないですよ。最近やたらに人の体使って結城さんと仲良くなってるし、

 でも、我慢してるんです。奈々子と、結城さんのために。


 私がそう言うと、


 ごめん。


 謝られた。全然嬉しくない。


 謝らないでくださいよ。


 でも、気がとがめるんだよ。

 俺らの世代の問題に若い奴巻き込んでるからさ。

 きっと久方も橋本もそう思ってるよ。

 自分のせいで若い人の人生を狂わせてるって。


 所長のせいじゃないですよ。


 もちろんあいつのせいじゃない。


 結城さんのせいでもないですよ。


 でも、俺には責任があるんだよ。関わった人間としてな。


 結城さんは運ばれてきたコーラを一気に飲み干した。車で来てるからお酒はやめたようだ。安心したけど、ちょっとつまんないかなと思った。酒に酔った方が本音吐いてくれたかもしれないと思って。でも、結城さんが奈々子のことだけでなく、私のことも心配してくれているのは嬉しかった。

 それから、学校のこととか、音楽のこととか、他愛もない話ををした。

 ヨギナミのお母さんの話をしたら「久方には知らせない方がいい」と言われた。所長から何か言ってきてないかと聞かれてスマホを見たら、「家族と一緒に過ごして、改めてここが僕の家だと思ったよ」とか言ってきてたからそれを伝えたら、


 そのまま帰ってくるなって言いたいね。


 と結城さんが嫌味な口調で言った。


 北海道なんてな、クソ寒いわ人は冷たいわでいい所でもなんでもないんだよ。本州の奴らは夢見すぎなんだって。

 神戸の方がよっぽどいい所だろ。

 わざわざこっち来てんじゃねえって言いたいね。


 でも結城さん、わざわざ所長と一緒に住んで世話してたんですよね?


 だからそれは関わった大人の責任ってやつだって。


 でも普通そこまでしませんよ。

 結城さん、意外といい人ですね。


 うわぁやめて、『いい人』なんて言われたくない。

 ただのつまんない奴みたいじゃん。


 結城さんが本当に嫌そうに身震いしたので、笑ってしまった。

 帰りにはもう外が暗くなっていて、空には星が輝いていた。見上げて立ち止まっていたら、


 新橋、やっぱ久方に似てるよね。

 こんなもんに感動する所とかさあ。


 と言われた。


 どういう意味ですか?きれいじゃないですか。

 結城さんももっと自然の美しさを見ましょうよ。

 感性を磨いてくださいよ。芸術家なんだから。


 俺は芸術家じゃないの。


 結城さんはそう言いながら車に乗り込んだ。


 ピアニストなのに?


 と聞いたら、


 俺のは、ただの気の迷いだ。


 とつぶやかれた。表情と声が暗かったのが気になった。どういう意味だろう。人に認められてないから?まだ自分の音に納得してないから?


 あのトッカータ、いつまで弾くんですか?


 車が発進してから、私は尋ねた。


 自分と、奈々子が納得するまで。


 結城さんはそう言った。

 そうか、やっぱりそこは奈々子なんだ。

 帰りはぼんやりしてしまって、気がついたら平岸家の前に着いていた。

 平岸家夫妻は揃って出かけていて、あかねが作り置きのゆで豚とサラダを食べていた。


 あの女、とうとう危ないらしいわよ。

 それでママが呼ばれたの。


 あかねが言った。ヨギナミのお母さんの容態が急変したという。

 あかねはそれ以上しゃべらずに無言で食べて、自分の部屋に戻っていった。私はキッチンでお茶をいれてテレビの間に行った。そこには修平がいて、テレビを見ていた。ても、ひっきりなしにチャンネルを変えていて、画面に集中していないようだった。


 ヨギナミのお母さん、もうダメみたいなんだって。


 修平がかすれ声で言った。


 俺、落ち着かないんだよ。今にも知ってる人が死ぬかもしれないと思ってさ。

 去年ヨギナミの誕生日に会っただろ。

 あの時の姿が頭から離れないんだよ。

 もっと何か言っとくべきだったのかなって。


 私は何と言っていいかわからず、「私達に今できることなんてないよ」と言ってその場を離れた。

 実際、どうしていいかわからなかった。友達のお母さんがもう死ぬかもしれない──ヨギナミは今どういう気持ちでいるだろう?──想像もできない。

 私は部屋に戻ってから、自分の母にLINEした。元気?って。


 今ちょうど妙子の撮影中。

 今回もぶっ飛んでるわよ。


 と返ってきた。元気ということだ。ヨギナミのお母さんのことは話さなかった。前にバカがこう言ってたから。「自分と同年代の奴が死ぬとこたえる」と。

 勉強する気しないのですぐ寝ようと思ったけど、結城さんのことやヨギナミのこと、いろいろ考えることがありすぎて頭が静まらない。でも今日は早く寝た方がいいかもしれない。──明日、何か起きるかもしれないから。できれば起きてほしくないことが。






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