2017.7.28 金曜日 久方 神戸
よく知っているはずの街なのに、初めて来た場所のような気がする。
神戸の街に降り立った久方はそう思っていた。慣れ親しんでいた景色のはずなのに、初めて見たもののように目に映る。
ずいぶん長く、離れていたんだな。
現実感がないまま歩き、気がつくと、父の会社の入口に立っていた。一階の手前が事務所、奥と2階が住居という造りになっていて、ガラス戸の向こうではパソコンに向かう父親らしき後ろ姿が見えていた。
久方はしばらく様子をうかがった。
本当に、ここに戻ってきてよかったのだろうか?
そう思いながらも、深呼吸し、思い切って戸を開けた。
おっ、おお〜!
振り向いた父親が声を上げて笑った。
やっと帰ってきたか〜!長いこと行方不明やったな。
行方不明じゃないよ。ちゃんと連絡はしてたじゃないか。
久方は父につられて笑ったが、まだ緊張していた。
本当に僕は、ここに戻ってきてよかったのだろうか?
奥からパタパタと人が走ってくる足音がして──母が出てきた。神戸のおかん、優しい方の母親が。
少し太ったように見える(が、本人には絶対そんなことは言わない)。相変わらず、柔らかい物腰をしている。
おかえり〜!
母は大声で言いながら久方の腕に触れた。そしてにっこり微笑んだ。久方もやっと心から笑えた。
ずいぶん長く帰ってこなかったやないの。
母は言った。
ごめん。
しばらくはこっちにいるんやろ。
一週間はいるよ。
母は久方の袖をつかんで、なかなか離そうとしなかった。まるで、離したらまたどこかへ行ってしまうのではと心配しているかのように。そのまま、近所のあそこの家の子は今大阪にいるとか、あっちの娘さんはえらい実業家に嫁いだとか、ここ数年の噂話をし続けた。久方は黙って聞いてやった。そのうち父が『立ち話してないで中入れ』と言ったので、母は食事の支度に戻り、久方は自分の部屋に行った。
3年ぶりの自宅の部屋。
きれいに片付いていて、ホコリ一つ落ちていない。きっと頻繁に掃除してくれていたのだろう。久方は小学生の頃から使っている机と、部屋に貼りっぱなしの植物の写真を見た。その中でもひときわ目立つ写真。
スーパーブルーム。
年に少しの間だけ、砂漠一面に花が咲き乱れる場所がある。いつか行ってみたいと思い、写真を貼った。
あれはいつだったろう?中学生の頃か、もっと後か。
こんなの、忘れてたな。
久方はその写真をじっと眺めた。花の研究をしてみたいと思っていた時期があった。だから植物や生物を学んだ。
本当に知りたかったのは自分自身のことだった。
自分は何者なのか?
どこから発生した生物なのか?
それが知りたかった。
そして、人生は迷走した。
久方は椅子に座り、改めて部屋全体を眺めた。ここに引き取られて以来、十数年を過ごしてきた部屋。窓からは隣の駒の家が見える。昔はよくチェロの音が聞こえていたし、窓越しに会話して互いの家族にうるさがられたこともあった。ここで勉強し、音楽を聴き、眠り、迷ったり悩んだりした。
思い出の一つ一つが、急に降り出した雨のように久方の心に満ちていった。
そうか。
久方はつぶやいた。
僕の人生は、もうここにあったんだな。
かつて『別人』と呼んでいた幽霊、橋本に取られた時期がけっこうあった。それでも、『久方創』の人生は確かにここにあって、自分がなぜ存在しているかを教えてくれる。
ごはんできた〜。
母の声がした。食卓に行くともう父が座っていた。テーブルには久方が好きなものがほぼ全て並んでいた。苦手な油っぽいものは──きっとその方が作りやすかっただろうが──一つもなかった。
デンマークチーズケーキ買ってあるから、後で食べな。
母は言った。それから父と、さきほど道を道を聞かれたという観光客の話をしていた。道を教えている間もずっとスマホで動画を撮っていて、ユーチューバーかもしれないと言っていた。父は、なんでもかんでも撮るのはどうだろうなと言った。久方はそれで高条を思い出したので、その話をした。
学生さん、ほんまに遊びに来てるんやな。
父が言った。
来てるよ。来る時は毎日のように来てる。
お前んとこで何するんやそいつら?
コーヒーを飲んたり話したり、あと、結城にピアノを習いに来てる子もいる。
そうだ、父さん。もう結城いらないんだけど。
まあ、そう言うな。一緒にいた方が楽しいやろ。
何も楽しくないよ。うるさいだけだよ。朝の6時にピアノを鳴らすんだよ?食うの好きなくせに料理できないし──
まあまあ。
久方は結城について文句を言い続けたが、父はのらりくらりと話をかわしてしまった。
あんた、もう体調は大丈夫なん?
母が尋ねた。
もう心配ないよ。今までで一番落ち着いてる。
久方は答えた。やっぱり森の話はできないと思った。
そうか。あんたが大丈夫ならそれが一番。
これも食べな。
母は笑って料理をすすめた。久方は素直に受け取った。
実はな、
父が言った。
お前はもう帰ってこないんじゃないかと、母ちゃんは心配しとった。
あんた、いらんこと言わんでええよ。
母が止めた。しかし父は、
元いた場所に帰って、そのまま戻ってこないんじゃないかと、俺も心配した。
と続けた。そして息子を見た。やや悲しげな目で。
僕は──
久方はためらいながら言った。
ここに帰ってきていいのか、わからなかったんだ。
少し間を置いて、こう続けた。
僕はここの子になりたかった。でも、父さんにも母さんにも似てないでしょう?どこかで、ここにいちゃいけないんじゃないかと思ってた。北海道に行ったのは、幽霊に人生を返すためだった。でもそれは間違ってるって言われたよ。
それから、もう電話で話したけど、いろいろあって──
久方の目に涙が浮かんできた。
でも、ここに戻ってきて気づいたよ。
ここが僕の家だったんだって。
でも僕は、ずっとそのことを忘れていたんだ──
ためこんでいた感情が一気に溢れてきた。
そうだ。自分にはこんなに素敵な居場所がもうあったのに、なぜ遠くに行って自分を捨てようなどと思ったのだろう?こんなにいい人達が自分のことを想っていてくれたのに。
久方は自分が情けなくなった。同時に、嬉しさも込み上げてきた。
自分には家族がいる。
帰る場所がある。
泣くな!
父が息子の肩を叩いた。
そうや、ここがあんたの家や。
母が強い口調で言った。
どんなに遠くに行っても、あんたの帰ってくる場所はここや。いつ帰ってきてもええんや。当たり前やないの。
そうだよね。
久方はささやいた。
ごめん。何年も忘れてて。
どうして『自分は愛されていない』などと思ったのだろう?愛はここにあったのに。遠くへ行かなくても目の前にあったのに。
久方は涙をぬぐった。
ええんや。帰ってきてくれたからええんや。
ほら、酒飲め。
父が酒を勧めた。
僕は飲めないってば。
いいから飲め。一口くらいいけるやろ。
仕方なく日本酒を口にした。苦い。
それから久方は、北海道で出会ったものの話をした。町の人、学生達、他の幽霊、そして自然──草原の雄大な景色を語る時、久方の目は輝き、声にはなんとも言えない熱がこもるのを、父と母は感じていた。2人は思っていた。
ああ、この子はやっぱり純粋な子なんだ。
昔とちっとも変わってない。
昔から季節の変わり目や景色の変化に敏感で、桜やツツジに見とれたり、鳥を熱心に眺めたりしていた。大人になっていろんなことに傷ついても、その純真さは失われなかったのだ──そう思い、父と母は安心した。ただし、息子がいつまでも草や木や星の話をやめないので、父はそのうち飽きてきて『そろそろ風呂にでも入ってこい』と息子に言ってやらねばならなくなった。
夜。
久方創はベッドに横たわって天井を見ながら、自分の存在というものについて考えていた。
昨日まであれほど不確かだったものが、急にしっかりした形を与えられたような気がした。これが故郷の力なのだろうか?それとも家族の力?
僕はここで育った。
久方はつぶやいた。
だから、今の僕がある。
なぜか、北海道で起きたことは全て夢のような気がしてきた。しかも、悪い夢のような。なぜわざわざ迷いに行ってしまったのだろう?今では不思議でたまらない。しかし、それが運命だったとも思う。そのせいで早紀に出会い、橋本と和解し、他の幽霊やあの人のこともわかったのだから。
サキ君。
久方は急に思い出して起き上がった。スマホを見たが、誰からも何も届いていなかった。変だなと思った。早紀かヨギナミが何か言ってきてもよさそうなのだが。
もしかして、本当に全部夢だったのか?
怖くなってきたので、早紀に『神戸に着いた。お土産は何がいい?』と送ってみた。すぐに『モロゾフのものなら何でも』と返ってきた。
ああよかった。サキ君は夢じゃない。
久方は安心した。なぜお土産がモロゾフでなければいけないのかは謎だが(もしかしてバレンタインのことをまだ根に持っているのか?)。
明日、母さんを連れて買い物に行こう。
久方は思った。父も母も息子と出かけたがっていた。これからの一週間、兵庫県の至る所に連れて行かれるだろう。父はもう温泉に予約したと言っていた。何でも準備するのが早いのは昔からだ。
お〜、帰ったか。
その部屋に電気ついてんの久しぶりやな。
窓の外から声がした。それはもちろん駒だった。久方が窓を開けて身を乗り出すと、隣の家の窓に駒がいて、チェロを抱えていた。
あれ?まだ実家に住んでんの?
久方はからかうように言った。
何言うてんねん。お前が帰ってくるって聞いたからこっちも帰ってきてやったんやないかい。いいから黙って聴け。今いい曲思いついたわ。
こんな夜中に迷惑だなあ。
ええやろちょっとくらい。
駒がチェロを弾き始めた。優しい旋律が夜風に乗って運ばれ、久方の部屋に満ちていく。
ああそうだ、昔もこんな風に窓越しにチェロの音を聞いたっけ。しばらくすると隣のお父さんが怒って──
お前やかましいんじゃゴルァ!!
予想どおり、駒の父親の声が響いてきた。
ええやろ久しぶりに友達帰ってきとるんやから。
あぁ?おっ、創くん、生きとったんか。
隣の窓から駒の父が顔を出した。真っ赤な顔をしている所を見ると、かなり飲んだのだろう。
お久しぶりです。
いや〜しばらく見ないからどっかで野垂れ死んでんのかと思ったわ。
今までどうしてた?
北海道で畑を作ってたんです。
久方は無難な答え方をした。嘘はついていない。
北海道!?ええなあ。カニ食うたか?ホタテは?
カニは高いからそんなに食べませんよ。ホタテの天ぷらなら食べましたけど。
天ぷら?変わったことすんなああっちの人は。
今度なんか旨いもん送って──
いいからもう引っ込めや!
駒が父親を家の中に引っ張りこんで、窓を勢いよく閉めた。
久方はふふっと笑ってから窓を閉め、エアコンの温度を落として、またベッドに横になった。そのうちうとうとし始めて、スーパーブルームの夢を見た。広大な砂漠に果てしなく広がる花の海。いつか行きたいと思っていた場所。
その中に、早紀がいた。
純白のワンピースを着て麦わら帽子をかぶり、手に小さなヒマワリの花を持っていた。そして、何かを訴えるような目でこちらをじっと見ていた。
ああ、そうだ。僕はまたあの町に戻らなきゃ──
久方はそう思いながら、眠りの中に落ちていった。




