2017.7.26 水曜日 研究所
天井からピアノと、早紀が発声練習している声が聴こえる。まだ奈々子さんは出てきていないようだ。出てきたらきれいな歌声が聞こえてくるはずだから。
久方は1階でソファーで寝ながら、上に乗ってきたかま猫のあごの下をなでてやっていた。今までは歌の練習中、結城が変なことをしないように隣で見守っていたのだが、今日はやめた。
早紀を見るのが、つらくなってきた。
奈々子さんに操られている姿を見るのもつらい。
結城に夢中なのを見るのは、もっとつらい。
久方は目を閉じ、できるだけ何も考えずにいようとした。そのうち、奈々子らしき歌声が聴こえてきた。穏やかで美しい声が。どこか懐かしさがある。やはり、昔聴いたことがあるからなのか、それとも、歌い方が優しいからなのか──
聴いているうちにうとうとしてきて、久方は半分眠っていた。
どのくらい経ったのか、はっと目を覚ますと、ピアノも、歌声も止まっていた。練習が終わったのか?でもまだ早紀は降りてきていない。
何か起きたのかもしれないと思って、久方は2階へ行った。結城の部屋のドアの前で様子をうかがったが、何も物音がしない。
久方はそっとドアを開けてみた。
結城と、早紀(いや、奈々子か)が、抱き合っていた。
2人はお互いに腕を回してしっかりくっついたまま動かず、久方が部屋に入ってきたことにも気づいていないようだった。
久方がショックで止まっていると、
ずっとこうしていたい。
奈々子が言った。
でも、ダメだよね。この体はサキのものだから。
奈々子は言いながら離れようとしたが、結城が無言で引き止めた。
もう少し。
結城が言った。
ああ、もう見ていられない!
久方は静かに退却した。
元のソファーに戻り、今度は近寄ってきたシュネーをなでて、久方はまた目を閉じて考え込んだ。
見てはいけないものを見てしまったような気がする。
一方で、自分も早紀とあんなふうに抱き合えたら──と思ってしまい、久方はそれを振り払うように身もだえして顔をソファーにこすりつけた。
少ししてから、ピアノの音が再開し、同時に降りてくる足音が聞こえた。久方が起き上がると、うつろな表情の早紀が近づいてきて、久方の隣に座った。
大丈夫?
大丈夫じゃないです。コーヒーがほしいです。
思いっきり濃いやつ。
久方はキッチンへ行き、自分でコーヒーをいれて早紀の所へ持っていった。
私を使って結城さんにくっつくのやめてほしいです。
早紀はコーヒーをすすりながら言った。
だって、体が結城さんのぬくもりを覚えちゃうじゃないですか。
言い方が生々しかったので久方は若干引いた。それから早紀は『私だって結城さんのことが好きなのに、私には冷たい』といつもの愚痴を言った。天井からは嫌味のようにラヴェルのソナチネが響いてくる。
いつまでこんなことに耐えなきゃいけないんですかね?
早紀は心底疲れているようだった。
奈々子さんが納得するまで、かな。
それっていつなんですか?
さあ、僕にはわからない。でも、サキ君が嫌ならやめてもいいんだよ。しばらく練習するのやめてみたらどうかな。ちょうど僕は明後日神戸に帰るし──
久方がそう言うと早紀は、
所長、本当に帰るんですか?
と尋ねた。
うん。帰るけど。
戻ってくるんですよね?
早紀は心配しているようだった。
神戸に行って、
そのまま戻ってこなかったりしないですよね?
そんなことしない。4、5日で戻るよ。
久方は笑った。自分がいなくなることを、早紀が少しはさみしがってくれることが嬉しかった。
客室のシーツとカーテンは変えておいたからね。
そんなことしなくてもいいのに──
インターホンが鳴った。玄関にヨギナミがいた。手にバナナがたくさん入った袋を持っていた。
市場でたくさんもらったから、どうぞ──
ヨギナミが言い終わらないうちに、早紀が袋をひったくり、バナナを一本取り出して食べ始めた。
ちょっといろいろあって。
驚くヨギナミに久方が言い訳した。それから、
僕は28日に神戸に帰ることになったから。
と言った。ヨギナミは、
おっさんも一緒ですよね?
と言った。ああ、やっぱり僕より橋本の方が気になるのかと久方は悲しくなったが、笑顔で『そう、一緒』と答えた。
バナナ、こんなにあると食べ終わる前に腐ってしまいそうだから、マフィンかパウンドケーキを作って入れようかな。
とひとり言を言いながらバナナをキッチンに運び、卵や小麦粉がまだ十分あることを確認した。ケーキ作りが始まり、ヨギナミと早紀も手伝った。焼き上がった頃にあかねが怒鳴り込んできたので、久方は2人にケーキを持たせて帰した。
おい、甘いもんはどこだ。
匂いにつられて結城が降りてきた。
ケーキなら、サキ君とヨギナミに全部渡しちゃったよ。
なんでだよ?俺の分は取っとかないとダメだろ?
なんでお前の分なんか取っとかなきゃいけないんだよ?
久方は夕食作りにとりかかった。結城はいつもどおりソファーに座ってテレビを見始めた。
さっき抱き合ってたのは、何だったの?
久方はそう聞きたかったのだが、夕食の時になっても言い出せなかった。うかつに聞いて『本気で欲しくなった』とか、そういうことを言われたら困ると思ったからだった。夕食は当たり障りのない会話で過ぎた。
結城は夕食後テレビを見続けていたので、久方は2階の自分の部屋に行き、窓から外を眺めた。
今日は天気がいいのに、外に出なかった。
今から星を見に行ってもいいかもしれない。
久方は外に出て、畑の道を歩いた。
空には期待通りの、満天の星があった。
ああ。
久方は星を見上げながら思った。
こんな素晴らしい星空を見たら、何もかもどうでもよくなる。
しばし空に見とれてから、
サキ君に見せたいな。
と思い、写真を撮って早紀に送った。すると、
私も今外に出て星を見てます。きれいですね。
と返ってきた。
久方はそれを見て笑い、また星空を見上げた。
離れていても、同じ星空を見てつながっていられる。
なんて素晴らしいんだろう。
久方は、夜空に自分の早紀への想いが溶け込んでいくような気がした。何の根拠もないのに、もうどこへ行っても大丈夫、そんな気がした。
たとえ同じような想いが相手から返ってこなくても、いいのだ。
自分の想いだけは確かなのだから。
久方はこの夜、何時間も、夜空を眺めて過ごした。




