2015.11.14 研究所
天井から音符が降ってくる……。
僕の頭に刺さってる……。
久方創は、もうだいぶ前から、童話の残酷な場面のような文章を、頭の中で繰り返していた。
上の階からはいつも通り、ピアノの音が聞こえてくる。しつこくリピートされているのはたぶん『悲愴』だ。しかし、助手と所長のどちらが今悲愴かというと……説明するまでもないだろう。久方は頭痛と音符に耐えながら、カウンター窓でうつむいていた。
注意した方がいいんだろうか?
止めてと言って止めてくれる相手だろうか?
久方はもう長い間迷っているが、決断できたためしがない。だいいち、こんなに四六時中、スピーカーでも使っているかのような大きな音を出していたら、同じ建物にいる自分が迷惑することくらい言われなくてもわかりそうなものではないか。
久方は頭痛をこらえながら文句ばかり言っていた……頭の中でだけ。
窓の外には、頭を抱える所長を見てニヤついている人物がいた。林の奥にいたので、破壊的なピアノの音も程よく優雅に聞こえる。
音楽に苦悩する少年……ウフフフフ。
妄想しながら笑うその人は、
もちろん、平岸あかねである。
強風の中、フードをかぶって久方の様子をうかがうその姿は、まるでパパラッチ、いや、もうほとんど魔女である。
あかねがもう少し近づいて様子を見ようとしたとき、林の道を誰かが歩いてきたので、慌てて木の影に隠れた。
ヨギナミだ。
なぜか、鍋を両手で持っている。
あかねは顔をしかめながらその場をあとにした。鍋がお似合いのヨギナミだ。どうせ食べ物かお金が目的に決まっている。なぜうちの両親はよその子にばかりお金や食べ物を分けて、自分のコスプレや漫画の資金は制限するのだろう?あかねはそれが気にくわない。なぜ自分で稼いだ金を、自分の子供のために使わないのだろう?
秋倉高校の下宿生たちはまだよかった。やむを得ない理由で来た人ばかりだったし、みんなあかねを妹のようにかわいがり、お菓子やエロ本から、漫画のネタになる体験談に至るまで、親がくれないものはみな彼ら『悪い兄姉たち』が提供してくれた。何人かは今でもやりとりがある。
ヨギナミは平岸家の客ではなく、しかも不倫女の子だ。なぜ大事にしなければいけないのか。あかねは不満に思っていた。学校では佐加や杉浦の目があるから、親切を装ってはいるけれど。
玄関に出てきた久方は、ヨギナミを見て怯えた顔をしたが、すぐに笑った。でも、無理をしているのは伝わった。何か知られたくないことがある、ヨギナミはそう感じた。
こないだいただいた野菜煮ておでんにしたから、どうぞ。
ヨギナミは鍋を差し出した。
久方は戸惑った。何が目的だろう?もう一人と何があったのだろう?
もともと久方さんがくれたものでしょう?遠慮しないで。うち二人だし、母は少食だから食べきれないし。
確かに、野菜を育てたのは自分だ。もう一人ではない。
うちも二人だから、作るとけっこう余ることはあるよ。
ぎこちなく笑いながら鍋を受けとると、ヨギナミは、
鍋は玄関に置いといてくれれば勝手に取りに来ます。
と言いながら走り去っていった。
久方は鍋を持ったまま、しばらく考えていた。
どうしてこの町の人は、うちに料理を持ってくるんだろう……。
おい、
声がしたので見上げると、助手が窓から顔を出してこちらを見下ろしていた。
貧乏すぎてとうとう鍋の押し売りか?
久方は無視してキッチンに向かった。助手がすぐに降りてきた。
おお!!卵と大根入ってる。
煮まくって変色させるぞ!!
鍋の中身を見たとたんはしゃぎだした。しかも勝手に醤油を加え始めた。そんな助手のにやけ顔は、はっきり言って不気味だ。
おでんは助手にまかせて、久方はピアノが聞こえない貴重な時間を満喫しようと、いつもの窓際に戻った。
もしかしたらヨギナミは、もう一人のほうと仲良く話をしたのかもしれない。そう考えると不快だった。あいつは本来存在してはいけないはずなのに……。
こんなことをいくら考えても何も解決しない。そうわかっていても、久方は考えずにいられない。自分と仲がいいと思っている人たちは、実は別人の話をしているのだ、久方の話ではなく。本当に自分、つまり久方創と仲がいいのは、札幌の二人くらいだ。昔はもう一人いたが、それも別人が出てきたことで壊れた……立ち直れないほどに。
せっかくの静寂を満喫できないまま、気がつくとかなりの時間が経過していた。
見てこれ!!真っ黒!!
不気味な助手が誇らしげに持ってきたのは、煮すぎて崩壊した大根と、それにまみれた他の具だった。
卵がひとつ残らず消えていることに気づいた瞬間、久方の頭痛が再発した。
おでんは結局、全て助手の胃におさまることになった。




