2017.7.9 日曜日 研究所
奈々子さんの声はだんだんよくなってきていた。発声練習をしたおかげで早紀の喉が鍛えられたようだ。結城の伴奏に合わせて歌う奈々子さん(姿はもちろん早紀だ)を、久方はベッドに座ってじっと見つめていた。そして、奈々子さんと結城が時々、意味ありげな視線を交わすことに気づいて心配していた。
結城さん、つきあってる人はいないの?
奈々子さんがふざけた口調で言った。
いないよ。
結城が答えた。
なら、サキと付き合えばいいと思うよ。
奈々子さんが言うと、結城が顔をしかめ、久方は慌てた。
だって、サキはあなたのことが好きだし、
たぶんあなたもまんざらじゃないんじゃない?
結城はそれには答えず、
もう一回やるぞ。
と、曲の伴奏を弾き始め、歌のレッスンを再開させた。
どういう意味だと思います?
早紀が戻ってきてすぐ久方に尋ねた。結城はすぐピアノを弾き始め、誰とも話そうとしなかった。
どういう意味だと思います!?
早紀はほとんど叫びながら久方に詰め寄った。
僕にはよくわからないよ。
久方にはそれしか言えなかった。
奈々子が譲ってきたってことですよね!?
早紀は興奮して一方的にしゃべり続けた。
『まんざらでもないんじゃない?』って言ってましたよね?それって、結城さんも私のこと好きってことですよね?奈々子にはそう見えてるってことですよね?つまり私にもチャンスがあるってことですよね?
早紀は嬉しそうだったが、久方は何も言えなかった。なぜ奈々子さんはそんなことを口走ったのだろう?
服買わなきゃ。
早紀はつぶやいた。
私も来月には18になるし、そろそろ大人扱いされてもいい頃ですよね?今までさんざんガキだのバカだの言われてきましたからね!
なんかお腹空いてきました。お菓子探してきます。
早紀は地下室に走っていき、久方はソファーに倒れた。
そんな気ねえって。
早紀が帰ってから、腹が減って降りてきた結城は言った。
奈々子が誤解してるんだ。いや、たぶん俺のことが心配なんだ。『こんなところに一人でこもって何をしてるんだ』ってよく言うんだよ。
余計なお世話なんだよ。
奈々子さんはそれでいいと思ってるのかな。
久方は心の底から不思議に思って尋ねた。
お前がサキ君と付き合っても、奈々子さんは平気なのかな?僕にはそうは思えない。絶対傷つくはずだ。
たぶん、自分はもう死んでるから一歩引いたんだろ。
それが余計だって今度言っておくよ。
結城はプリンを食べてまた2階に戻り、聴いたことのない優しい曲を弾き始めた。自分で作ったにしては優しすぎる曲だ。奴らしくない。保坂が作曲したものをパクったのだろうと久方は思った。
数分後、久方は草原で草の上に横になり、空をじっと見つめていた。気温は30度を超えている。このまま寝ていたら熱中症で死ぬだろう。しばらく考え事をしていたかったが、さすがに暑すぎたのですぐ起き上がった。
奈々子さんは、自分がいない前提で未来を考えている。
久方はもと来た道を引き返しながら思った。
僕も、サキ君がいない未来を考えるべきだろうか。
しかし、それはとてもつらい。
スマホには本堂まりえから『暑いですね!どう過ごしてますか?』と言ってきていた。『散歩に出たけど暑くて引き返しました』と返事した。その後まりえからは、暑い日特有のチョコレートの苦労話が送られてきたりした。
まりえは気さくでいい人だ。
でも、早紀とは違う。
久方は猫達を探した。涼しいバスルームの床に丸まって涼んでいた。久方は2匹の近くに横たわり、床の冷たさを感じた。
何の希望もないけど、僕は今生きてるんだな。
久方は思った。すると、
希望は常にあるんだよ。
橋本らしき声が聞こえた。
ただ、些細なことで忘れてしまうだけなんだ。
久方は起き上がった。次の言葉を待ったが、もう何も聞こえなかった。久方はまた冷たい床に貼り付き、猫達を眺めながら、今のはどういう意味なんだろうと考えていた。




