2017.7.8 1980年7月
橋本はまた廃ビルの最上階にいた。窓から外を眺めながら、同じことばかり延々と考えていた。
なぜ自分はこうなのか。
なぜ世の中はこうなのか。
学校にはもう行っていなかった。行く意味を感じなかった。学校は未来のために行く所だ。でも、自分に未来などない。行って何になるだろう?
物思いにふけっていると、階段を上がってくる足音がした。
初島がやってきて、橋本の隣に来た。しばらく何も言わずに、同じように窓の外を眺めていたが、不意に、
「あの男は、本当の父親じゃないの」
と言い出した。
「私を自分の持ち物のように扱うの。でも、私はずっと父親だと思ってた」
声がだんだんくぐもってきた。
「私は、本当の親がほしかった」
初島が言った。
「よそのお母さんみたいに、ちゃんと世話をして、抱きしめてくれる親が」
橋本は何も言わなかったが、その気持ちはわからないでもなかった。そして、自分の母親のことを思い出した。髪の色を気味悪がって自分を捨てていき、今は別な子を産んで暮している母親のことを。
初島は隣ですすり泣いていた。窓の外ではあいかわらず世の中が動いていた。2人のことなど何も気にせずに。
「あんたもそうでしょ」
初島が言った。
「俺は違うよ」
橋本が言った。
「いいえ、そうなのよ」
初島は強く言った。
「私達は同じもの同士よ。どっちも親に捨てられて、世の中からは相手にされない」
橋本は反論しようとしたが、初島が抱きついてきたので何も言えなくなった。初島は泣き続けていた。自分の感情に浸り切っているようだった。橋本がとっくの昔に捨てたある種の感情に。橋本はどうしていいかわからず、しばらく何もできなかった。初島のすすり泣く声だけが廃ビルに響き、それは、2人の存在そのものを嘆いているように聞こえた。
生まれてくるべきじゃなかったのに。
2人にはそういうことを思う共通点があった。
初島は泣き止んでからも橋本から離れようとせず、2人はもたれあったままぼんやりとビルの壁を見つめていた。2人の悲しみが空白を生み出し、全ての感情をけしてしまったかのようだった。何の音もなく、感情もなく、2人はただそこにいた。ただ、自分を認めてくれる何かの存在が欠けていることだけは、2人とも常に忘れられなかった。
『だれかに愛されたかった』
そんな空白だ。
そのうち2人とも『世の中』と『自分』を思い出し、初島は無言で立ち上がり、階段を降りていった。橋本はもとどおり窓の外を見つめ、自分の居場所がそこにないことを再確認していた。少々人の感情に触れたくらいでは動きもしないほど、橋本の心はもう固まってしまっていた。
俺は生きているべきじゃない。
どこにも居場所はない。
この街は、自分のような存在を受け入れてくれない。
あの日、新道が邪魔をしなければ、
とっくの昔に死んでいただろう。
新道。
それは、つかの間の友情という夢だった。この世にはまだ純粋で美しいものがある。新道隆と根岸菜穂を見ていると、そう思うことができた。
しかし、そんな夢からはもう覚めた。
もう終わりだ。何もかも。
今、窓から飛び出してしまえばいい。
なのに、なぜ動けないのだろう?
橋本は、暗くなるまでずっと、廃ビルの窓を見つめていた。向こう側に行くには何が足りないのだろうと考えながら。




