2017.7.5 水曜日 研究所
久方創はいつもどおりの一日を過ごしていた。朝はピアノ狂いの演奏に起こされ、午前中は橋本が病院に行ってあさみと話し、戻ってきたらパソコンで作業をして、Facebookの友人の書き込みに返事をする。
そして、3時がやってくると、
サキ君は来ない。
例の病を発症してソファーで寝込む。
猫達は最近、涼しい場所を探して建物内をうろつくようになった。たまに見に行くと、物陰や、冷えた床にはりつくように寝そべっている。
君達はいいね。いつだって自由気ままで。
久方は床にしゃがみ、猫達に話しかけた。
僕はどうしていいかわからないってのに。
久方はしばらく猫達を眺めていたが、そのうち諦めたように部屋に戻り、映画やCDをあさったが、何も観る気も聴く気もしないし、天井からはうるさいピアノが続いていたので、出かけることにした。
今日は曇りで、気温もそんなに高くない。歩くにはちょうどいい。日光が弱くても、今の季節は緑が輝いている。草木は生命力に溢れている。久方は畑を見て回り、草原の草を踏みしめながら、自然の力を感じていた。
本当に、これだけでいいのに。
久方は思った。
この自然さえあれば、それだけでよかったのに。
しかし、今は何かが足りないと感じる。それが何かはわかっている。ついこの間まで、早紀と一緒に散歩していた。なのに今はいない。最近避けられていてLINEもしてこない。こちらからもなんとなく声をかけづらい。
嫌われてしまっただろうか。
土日に歌のレッスンに来る時も、結城ばかり見ていてこちらは気にしていないようだ。そんな早紀を見ているのは、つらい。
久方はまた、自然から切り離されたような感覚を味わっていた。いつかのように、自然に夢中になれない。
気がつくと、早紀のことばかり考えてしまう。
別な人に会った方がいいと思ったが、まりえは仕事中だろう。久方はカフェに向かって歩いていった。以前なら人がいる所に近づかなかったのだが、今は人に会いたかった。
あら、いらっしゃい。
松井マスターが歓迎してくれた。カウンターにいた孫がちらっとこちらを見たが、すぐスマホに目を戻した。
橋本、最近何か話してました?
久方はマスターに尋ねた。
特に変わったことはないわねえ。奈美ちゃん達と学校祭の話をしてたかしら。
学校祭。
久方は去年無理やり行かされた学校祭のことを思い出した。橋本のせいで行ってしまったのだが、それなりに楽しく過ごせた。早紀がいたからだ。でも今年は──
僕は行けそうにない。
久方は言った。
たぶん今年は、橋本が行くことになるでしょうね。
あら、どうして?
僕は人が多い所が苦手なので。
本当は、早紀と顔を合わせるのが気まずいからだ。学校まで行って避けられるのはつらすぎる。去年はあんなに仲がよかったのに。なぜこうなってしまったのだろう?
好きになってはいけない相手だったのだ、やはり。
天気やニュースについてなんとなく雑談をしてから、久方はカフェを出た。来た時よりも気分が沈んでいた。このまま、早紀が離れていくのを黙って見ているしかないのだろうか?やはり自分は存在するべきではなかったのでは──
考え方が極端なんだよ、お前は。
橋本の声がした。
世の中にはもっと不幸な奴がいるんだよ。
何不自由なく暮らせる幸せを考えろよ。
何その説教?
久方はつぶやいた。言いたいことはわかるのだが聞く気になれなかった。帰ってからも、ポット君が持ってきたコーヒーを見て、また早紀のことを思い出した。何をしていても何を見てもそれしか思い浮かばない。気晴らしに植物図鑑を見ても、アジサイを眺めていた早紀の姿を思い出す。
ああ!ダメだ!
久方は再びソファーで寝込んでしまった。天井からは呪いのようにラヴェルが聴こえ続けていた。
神戸に帰ろうかな。
久方はそのことを真剣に検討し始めた。しかし、今帰っても現実逃避にしかならないのはわかっている。まだわかっていないことがたくさんあるのだから。幽霊についても、あの人についても。
いいかげん何が起きたか教えてよ。
久方は橋本に向かってつぶやいたが、あいかわらず返事はなかった。




