2017.7.2 日曜日 ヨギナミ
昼のレストランは混雑していた。ヨギナミもせわしなく動いていた。夏のメニューが好調で、去年よりも来客が多いそうだ。客が待っているので、空いた席はすぐに拭いて人が来れるようにしなくてはならない。ヨギナミは店内に目を光らせていた。
そこに、招かれざる客が現れた。
保坂典人だ。
典人は店内に入るなり、入口の案内係を無視してヨギナミに近づくと、無理やり腕をつかんで外へ引っ張り出そうとした。
何するんですか!?やめてください!
ヨギナミは叫んだ。
家へ帰るんだ。
典人が血走った目で言った。それから、
俺の娘はこんな所で働かないんだ!
と叫んだ。ヨギナミは抵抗したが、店の外まで引きずられた。
おい!何してやがる!?
凄まじい大声と共に、どこからかおっさんが走ってきた。ヨギナミと典人を引きはがし、転んだ典人を地面に押さえつけた。
大丈夫?何があったの?
小柄な、メガネをかけた女の人が近寄ってきて、ヨギナミを助けた。
いきなり来て、
私を無理やり連れて行こうとしたんです!
ヨギナミが叫んだ。
自分の娘を連れて行って何が悪い!?
典人が叫んだ。
何が娘だ!?ふざけんじゃねえぞ。
生まれた時には認知もしなかったくせによ!
おっさんが言った。
シェフが走ってきて、暴れる典人を押さえつけるのを手伝った。高級車が走ってきて、オーナーが降りてきた。『警察は呼んだよ』と言った。それからヨギナミに、
しばらく休んだほうがいい、有給を使って。
と言った。
どうしよう。クビになるかも。
ヨギナミは真っ青になった。それに、人がたくさんいる所で騒がれたのだ。また町に変な噂が流れてしまう──
気にするな。お前は悪くない。
数時間後、おっさんがカフェのカウンター席でヨギナミをなぐさめていた。一緒にいた女の人──本堂まりえという名前で、チョコレートショップの人らしい──は、隣の席で不思議そうな目でおっさんをじっと見ていた。きっと所長と一緒に食事するつもりでレストランに来たのだろう。もしかしたら、『おっさん』のことは知らないのかもしれない。
説明すべきかどうか、ヨギナミは悩んでいた。しかし、幽霊の話を信じてくれるとは思えないし、警察の取り調べで疲れていたので、詳しい話をする気にはなれなかった。
バイトに行けない。
どうしよう。家の代金を返さなきゃいけないのに。
そのことで頭がいっぱいだった。しかし、このままあそこで働いていたら、またあの男がやってくるだろう。無理やり連れ去られたらと思うと、心は恐怖でいっぱいになる。
レストランに迷惑をかけちゃった。
ヨギナミはつぶやいた。
迷惑なのはお前じゃない。あの男だろ?
おっさんが言った。
さっき警察に怒られてただろ?
少しは懲りるんじゃねえの?
お前はもう仕事しないで勉強に集中しろよ。
金は就職してからゆっくり返せばいいんだよ。
平岸の親父もすぐに返せとは言ってないんだろ?
平岸パパは『返さなくていい』って言ってる。
じゃあいいじゃねえか。
でも私は返したい。
私もまだ、
学生時代の奨学金を返してる途中なんですよ。
まりえが割って入ってきた。
ああいうの、早く返したくてたまらないですよね。
まりえはそう言ってから、松井マスターにケーキを3つ頼んで『おごりますよ』と言った。3人は黙々とケーキを食べた。それから、
私、あの男がいない所に行きたいなあ。
ヨギナミがつぶやいた。
なら試験に受かって、別な町の公務員になればいいさ。
おっさんが言った。
それしかないよねえ。
ヨギナミもつぶやいた。
ところで、
まりえが言った。
今日の久方さん、何かいつもと違いますね。
おっさんが固まった。ヨギナミは、
おっさんは『久方さん』じゃないんです。
と言って、今まで起きたことを説明した。話が長くなったので、途中で平岸パパが迎えに来ていたのだが、平岸パパは話を遮らずに、別な席でクッキーを食べながら待っていてくれた。
えーと、つまり今は、
幽霊さんが久方さんの体を使っていると?
まりえがとまどった様子で言った。
そうなんです。
ヨギナミが言った。おっさんは話の間ずっと気まずく黙っていた。まりえとは話したくないようなのだ。
そうなんですね。
もしかして、あの廃墟に住んでいるのも、
そのせいなんですか?
まりえが尋ねた。ヨギナミがおっさんを見た。
俺はもう実家に帰った方がいいって何度も言ってるんだぞ。
おっさんは正面を向いたままつぶやいた。
いつまでも現実逃避しやがって。
久方さんてさ、やっぱサキのこと好きだよね?
いつの間にか帰ってきた高条が割って入ってきた。
そうなんですか?
まりえがおっさんに尋ねた。
誰が見てもわかる事実だろ。
おっさんはやはり正面を向いたまま言った。まりえとは顔を合わせたくないらしい。
平岸パパがヨギナミに『そろそろ帰ろう』と声をかけ、まりえも帰っていった。おっさんは気まずい顔のままカウンターに座っていた。
いやあ、久方さんも災難だなあ。
本堂さんと仲がいいって噂だったのに。
後でもめなきゃいいけどなあ。
帰りの車内で平岸パパがそんなことを言った。スマホが鳴ったので見てみると、
俺のことはいいから自分の心配だけしてろ。
とおっさんが言ってきていた。
またあの男が来て、無理やり連れ去られて養女にされたらどうしよう。それこそ勝手に手続きをされたりしかねない。ヨギナミはそれが心配だった。先程の出来事を思い出すと、恐怖で体が震えた。
勉強しよう。
そして、この町を離れないと。
夕食の後、ヨギナミはいつも以上に集中して、公務員試験の科目を勉強した。勉強に集中しすぎて、早紀の所に鍵を回収しに行くのを忘れてしまった。なので早紀が自ら鍵を持ってやってきた。
今日、所長さんがまりえさんと一緒にカフェに来たんだけど──
ヨギナミは今日起きたことを早紀に説明した。
すると、
なんでそんな話を私にするの?
とけげんな顔で聞かれてしまった。
え?幽霊の話だし、サキも気になると思って。
所長の話を私にするのやめて。
早紀はそう言って、不機嫌そうな様子で出ていってしまった。
どうしたんだろう?ケンカでもしたのかな?
ヨギナミは気になったが、とりあえず勉強に戻った。2時間ほど経って集中が途切れた頃、おっさんを思い出した。
私がこの町からいなくなったら、
おっさんはどうするんだろう?
それに、母は?
いつまでこのままなの?
いつまで医療費がかかるの?
やっぱりバイトしないと。
でももうレストランには行けない。
休めって言われちゃったし。
ヨギナミは悩み始めた。いつまでも何もかもを平岸家に頼るわけにはいかない。しかし、就職したとしても、自分の生活費と母の医療費を払って、さらに家の借金まで返すなんて可能だろうか?
考えれば考えるほど不安になる。
ヨギナミは部屋の中をうろうろ歩いた。
落ち着かなかった。
どうすればいいかわからない。
でも、あの男の娘にされるのだけは嫌だ。
やっぱり勉強するしかない。
ヨギナミは机に戻り、日付が変わる頃まで勉強を続けた。
他にできることはなかった。




