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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年6月

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2017.6.30 金曜日 病院→研究所

 病院。佐加の母親がいて、おっさんがあさみに昔の話をするのを聞いていた。どうやら、学校に来なくなった女の子がいて、その原因は父親の暴力のようだ──と、佐加の母親はその話を理解した。それから、自分の学生時代を思い出し、あの頃はなんと無責任に、気軽に生きていたものかと思い、微笑んだ。しかし、この変わった男の学生時代は、もっと辛そうだ。


 こんにちわ〜。

 あら〜!佐加さんもいたのね〜!


 昼前、スギママがやってきた。それから、


 あら〜またあさみをひとり占め?妬けるぅ〜。


 橋本をからかい始めた。橋本はそれを無視して病室を出て行った。



 一時間後。

『サキ君が来ない』という名の病にかかった久方は、ソファーでふて寝していた。猫が上に乗ってきても動かない。ピアノを終えた結城が降りてきて、テレビを見たいからどけろと言っても動かなかった。


 どうせ明日来るだろ?

 いじけてないで自分から話しかけろよ。

 どうせもうバレてんだからよ。


 結城はそう言ったが、久方は無視した。しかたないので、結城は、久方が寝ているソファーごと移動させ、椅子をテレビの前に持ってきて、お気に入りのアイドル動画を見始めた。

 テレビの音がうるさいので、久方は2階の自分の部屋に行ってベッドに倒れた。『お友達でいましょう』と言われて以来、メールもLINEも来ない。完全に避けられている。こんなはずではなかったのに。なぜ?今まで全く気づかなかったくせに、急に『気持ちに気づいた』とはどういうことだろう?自分の何がいけなかったのだろう?

 答えの出ない問いをもんもんと繰り返していると、ドアの所に人影があった。


 幼い頃の自分が、部屋をのぞきこんでいた。


 久方が起き上がると、その子は逃げていった。久方は慌てて追いかけていき──階段から転げ落ちた。




 気がつくと、目の前が灰色だった。

 モノクロの空だ。雲がいくつか見えたのでわかった。

 久方は倒れたまま、それをぼんやりと見ていた。するといきなり、鮮明なカラーの顔がのぞきこんできた。

 それは、若い頃の初島緑だった。


 生きてて、何かいいこと、ある?


 虚ろな顔が言った。


 なんにも、ないじゃない?辛いだけで。


 久方は何も言えなかった。眼の前の顔の空虚さに怯えてしまったからだ。その顔には、表情というものが何もなかった。目は暗闇のように黒く、底なしの穴が開いているようで、目を合わせると暗い世界に引きずり込まれそうで怖い。なのに、目をそむけることもできないのだった。


 絶望だ。


 久方は思った。


 この人には、絶望しかないんだ。


 だから、橋本に譲ってしまいなさい。


 空虚な顔が歪んだ笑みを浮かべた。恐ろしい笑い方だった。人の存在を何とも思っていないような、人の不幸を楽しんでいるかのような──


 母さん。


 久方がやっと声を発した。目から涙が溢れた。急に感情が湧き上がってきて止まらなくなった。


 どうしてそんな人になっちゃったの?


 久方は尋ねた。


 やっぱり父親のせい?

 橋本が言ってたよ。暴力を振るわれていたって。


 空虚な顔から笑みが消えた。

 そして、その姿まで、空中に溶けるように消えてしまった。


 久方は涙を手の甲でぬぐいながら起き上がった。


 あの子を探そう。


 久方はモノクロの世界を歩き出した。





 結城はテレビを見ていたが、画面に全く集中していなかった。考えていたのは、奈々子との約束の曲、ラヴェルの『クープランの墓』のトッカータのことだ。今まで、どうあがいても、あのテープと同じ演奏はできなかった。しかし、最近、奈々子(見た目は新橋早紀だが)に会って話しているうちに、何かがつかめたような気がした。

 もう少しで完成できる。

 そう思ったその時、廊下から大きな音がした。何だ?と思って行ってみると、階段の下に久方が倒れていた。ポット君が走ってきて、驚いた顔を表示した。


 おい、大丈夫か?


 結城は慌てて駆け寄った。そして、久方を1階のソファーまで運んだ。久方は『あの子が見つからない』とつぶやいて、また眠ってしまった。

 結城はため息をついて、いつもは久方が使っているカウンターの席に座った。

 毎日毎日、ここで、何を思って暮らしているのか。いや、そんなことはわかっている。どうせ『サキ君』のことしか考えていないのだろう。それと、自分を捨てた母親のこと。いつまで過去にこだわり続ける気だろう?世の中には、親がいなくてもいじけずにきちんと暮らしている人はいくらでもいるのに。

 しかし、久方は、何かに納得していない。

 自分なりに答えを見つけるまで、こういう行動は止まらないだろう。

 結城は久方のことを考え、それから自分の人生を考えた。若い頃は欲望しかなかった。金がほしい。セックスがしたい。有名になりたい。自分の能力には自信があった。将来は輝かしいと思いこんでいた。

 でも、奈々子はいなくなった。思いどおりにならないことが世の中にはあるということを思い知らされた。

 ピアノもうまく行かなかった。世の中に出れば、上には上がいる。一回、名高いコンクールで賞を取って、一時的にもてはやされたが、それも長くは続かなかった。世渡りがうまい、テレビに出演する芸能人のようなピアニストにはなれなかった。性に合わない。かといって、ただピアノをうまく弾くだけの人間なら、アマチュアにも腐るほどいる。結局、自分の能力はつぶしがきかない。世の中を渡る術にはならない。

 これからどうするか考えなければいけないのは、

 久方ではなく、自分だ。

 今から会社勤めなんてできない。バイトでもするか。しかし、奈々子をどうする?新橋早紀に取りついている以上、放っておくわけにはいかない。しかし、いつまでも新橋につきまとうわけにもいかない。いつか、どこかの時点で、別れなければならないだろう。

 それまでに、トッカータを完成させなければ。

 結城は椅子から降り、久方が息をしているのを確かめてから、2階に上がり、またトッカータを弾き始めた。





 久方創は、ピアノの音で目を覚ました。

 ゆっくりと起き上がると、窓の外の景色が見えた。開いた窓からきれいな青空が見える。強い日光が入り込んで、部屋に光の四角形を作っている。今日は気温が高い。30度を超えるかもしれないと言っていたのを思い出した。じっとりと背中が汗ばんでいる。


 母さん。


 久方はつぶやいた。


 僕は生きていたいんだ。この美しい世界に。


 草原の緑は、夏の太陽に輝いて、美しさの絶頂を迎えていた。


 いや、もう生きているんだ。

 この輝きを体で感じているんだ。


 久方はしばし外の景色を見てから、キッチンに行って水を飲み、水筒に麦茶を入れてから、外に出かけた。

 日差しは強烈で、地面からも熱を感じる。

 内にこもっている間に、世界は夏になっていた。


 母さん、あなたは絶望していた。

 でも、この自然を見て。


 久方は心で思った。


 世界はこんなに美しいのに。


 草原をひたすら歩いていき、気がつけば山に近づいていた。そこには『クマ注意』の看板があり、見覚えのある車が停まっていた。町の猟友会のものだ。久方は慌てて引き返した。また見つかって『こんなとこ一人で歩いてクマに会ったらどうすんの』などと説教されたくない。

 草原の真ん中で空を見上げていたら、何もかもどうでもよくなった。

 自分はここにいる。世界もここにある。

 それ以外に何が必要だろう?


 久方さ〜ん。


 声が聞こえた。見ると、日傘をさした本堂まりえが、こちらに近づいてくるのが見えた。


 こんな暑い日にずっと日向に立ってたら、

 熱中症になりますよ!


 まりえが久方を日傘の中に入れ、にっこりと笑った。それから2人で並んで歩きながらカフェに行った。途中すれ違った町民が、好奇心いっぱいの目で2人を見た。ああ、また噂になるなと思った。

 カフェでは会った人全員と『暑いですねえ』『夏になりましたねえ』という話をした。松井マスターの話では、早紀もカフェの孫も今日は杉浦家で勉強会をしているので、いないという。

 少しは嫉妬してくれないかな。

 まりえさんと僕が一緒にいるのを知ったら。

 と久方は思っていたが、そんな考えを抱くのはよくないと自分をいさめた。まりえからチョコミントのボンボンをもらい、研究所に帰った。

 トッカータはまだ続いていた。今日はこれしか弾かないつもりらしい。

 久方は、いつものカウンター席に座り、草原で感じた自然との一体感を思った。それから、再び戻ってきた人生の悩み──母親のこと、早紀のこと──を思った。

 

 あの人はあいかわらず僕を消そうとしている。


 それは変わらない事実だった。


 でも、僕は生きていたい。


 久方は初めて強く思っていた。


 そして、あの人の絶望を見た。

 世の中も人も信じられなくなっているんだ。

 さて、どうしたらいいだろう?

 それに、あの子はどこだろう?


 考え事をしているうちに、午後は過ぎていった。




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