2017.6.24 土曜日 研究所
奈々子さんが歌っている。サキの体を使って。
久方はその様子をじっと見つめていた。今日は高谷修平が来ていて、奈々子さんが歌う姿をスマホで撮っていた。父親、修二に見せるために。
修二もここに来れたらいいのに。
奈々子さんが言った。
そしたらまた3人でセッションできる。
親父ヒマだから来れると思いますよ。
修平は笑いながら答えた。結城は何も言わずにピアノで伴奏を弾き続けていて、何を考えているのかは読み取れなかった。
久方はふと、後ろに人の気配を感じた。橋本が立っていた。歌っている奈々子さんをじっと見ているようだ。修平の後ろには新道先生がいる。今日は幽霊が3人揃っている。何か聞き出せないだろうか。
奈々子さん、歌うまいよね。
久方は小声で橋本に話しかけた。
生きてた頃の方が何倍もうまかったよ。
橋本が言った。
新橋の体じゃ声が出ないんだろ。何年もかけて訓練して作った自分の体とは違うんだよ。
それから、
新橋がお前の方をじっと見てるぞ。
と言った。久方はあたりを見回したが、サキの姿は──歌っている本体以外に──見えなかった。
お前にはサキ君の魂が見えてるの?
お前、見えてないの?
久方と橋本は、お互いの言うことに驚いた。
歌ってる体の1メートルくらい後ろに立ってる。
橋本が言って、その方向を指さした。しかし、久方には何も見えなかった。そういえば、自分が橋本に体を貸した時も、自分のことは誰にも見えていなかった。それはどういうことなんだろう?
まだ体が生きてるからだろ?
橋本は言った。そしてまた、奈々子さんの方をじっと見ていた。
歌のレッスンが終わると、早紀が戻ってきて、奈々子が彼女の後ろに浮かんだ。それから生者3人と幽霊3人は、もうわかっていることを繰り返し話し合ったが、新しいことは何も出てこなかった。あいかわらず、橋本は久方とあさみが心配で、新道先生は修平や奈々子さんを心配していた。奈々子は早紀のことが心配だと言った。
だって、男の子を怖がって、
誰とも付き合おうとしないんだもの。
奈々子が言った。すると早紀は、
今は受験の方が大事だからいいじゃん。
恋愛は大学入ってからする。
ときっぱり言った。久方は悲しくなってきた。
先生、他に何かやり残したことないの?本当に?
修平が新道先生に尋ねた。
ありません。
あえて言えば、初島のことでしょうか。
新道先生が言った。
今頃どこで、何をしているのか。
なあ新道。
橋本が尋ねた。
お前は一体何者なんだ?
本当に初島に創られたのか?
その場の全員が新道先生を見た。
生きている時にも、同じ質問をしてきましたね。
新道先生はそう言って笑った。
ちょうど今くらいの時期でしたか。
あの時は『お前は俺の作り出した幻影じゃないのか?』と言っていましたよね?
今度は全員が橋本を見た。
それさ間違ってたよ。
橋本は少し恥ずかしそうに言った。
でもあの時は本当にそう思ったんだ。
お前は何でも持ってるから。
何でもって、何ですか?
修平が尋ねた。
何って──人に好かれる所とか、純真さとか、
そういうのだよ。
橋本は気まずそうに視線を横にそらした。
うらやましかったんだ〜!
早紀がにやけた。
いいだろ別に。
そうだよ。俺は新道がうらやましかった。
橋本は目をそむけたまま言った。
俺は橋本の頭のよさに憧れていたけど。
新道先生は昔の口調で言った。
うまくいかないものだ。
人は自分にないものに憧れる。
そのうち話すこともなくなり、幽霊達は消え、修平はソファーで横になって休み、早紀はテーブルでコーヒーを飲み、久方はいつもの定位置、カウンターで窓の外を見ていた。もう話すことはないのに、なぜか2人とも帰ろうとしない。
橋本はきっと、人と接したかったんだ。
久方は思った。それで今もここにいるのかもしれないと。他の幽霊達も同じではないだろうか。人と接して、交流して、誰かと心を通わせる──未練を残さずに死ぬには、そういう体験が必要なのではないだろうか。社会的な地位や成功なんかより、そっちの方がよほど大事なのではないか──
早紀が猫じゃらしでかま猫と遊び始めた。シュネーも近寄ってきた。まるで猫が3匹いるようだと久方は思った。今の早紀はそれくらい、とらえどころがない。何を考えてここにいるのだろう?やはり結城のことしか考えていないのか。
2階のからはマ・メール・ロワが聴こえてくる。結城も何を考えているのかよくわからない。
奈々子さんにあまり話を聞けなかったけど、
久方はふと思い出して、早紀に尋ねた。
何か言ってる?
何も言ってませんよ。奈々子は歌えればそれでいいんです。それと、私が昔の事件のせいで男の子を怖がってるとかよく言ってきます。
だから態度が悪いんだな〜。
ソファーから声がしたが、早紀はそれを無視した。
確かにそういうところはあるかもしれないですけど、でも、世の中には恋愛より大切なことがいくらでもあるじゃないですか。私今受験生だし、将来のことも考えなきゃいけないし。今は勉強の方が大事です。
早紀は言いながら立ち上がった。
自分が受験生なの今思い出しました。
帰って勉強します。
そして早足で出て行ってしまった。
久方はコーヒーカップを洗ってから、寝ている修平に近づいた。
本格的に眠たいんなら、帰った方がいいよ。
久方が言うと、
え?いや、大丈夫です。ちょっと休んでただけで。
修平が起き上がった。
俺、親父をこっちに呼ぼうと思ってるんです。
修平はそう言って笑った。
18年前の、一回限りのセッションを、もう一度再現するんです。そしたら、奈々子さんも喜ぶと思うんです。
前来た時は姿を見せなかったけど。
それは僕も聴いてみたい。
久方は言った。それから、
新道先生は、本当に、何者なの?
と尋ねた。
初島の言ってることが真実だとすると、新道先生は、
『初島の力によって空中から創られた存在』
らしいです。あと、初島自身も殺された医師の子供ではなくて、どこからかやってきた存在みたいですね。
養女なんですよ。本当の娘じゃない。
修平がさらっと言った。
君はいろいろ知ってたくせに、
大事なことを僕に話さなかったんだね。
久方は冷ややかに言った。
いろいろ事情がありまして。
修平はいたずらっぽく笑った。
まだ他にも何かあるの?
あるんなら今のうちに話してよ。
もうないですよ。橋本がどうして死んだかは本人しか知らないし。
先生は死ぬ少し前まで会いに行ってたんですけど、行くたびに『人生の意味って何だ?』みたいな哲学的なことを聞かれて、返答にすごく困ったそうです。
何か、一人で思い詰めていたらしいですね。
それも母さんのせいなのかな。
久方はつぶやいた。
初島の行いをあなたが悲しむ必要はないですよ。
と修平は言った。
俺も母親の職業のことで、まわりにいろいろ悪口言われるんですよ。『元風俗嬢』で、今は『クラブのママ』でしょ。性格の悪い大人がいろいろ言ってくるんです。
『お前の父親は風俗の客だろ』みたいなことを。
でもそれ、俺自身にはなんの関係もないことですから。
誰が何と言おうと、ママさんは最強の女だし、父はヒマそうだけど根っからのギタリストだし、俺はどこまでも俺です。
久方さんだってそうでしょ?
それから修平は、
俺にはお菓子は出ないんすか?
腹減ったんですけど。
と言ってにやけた。久方は呆れたが、『地下室にあるから自分で取ってきなよ』と言った。修平は軽い足取りで廊下に出ようとして、ふと立ち止まり、
DNA鑑定の結果、俺は高谷修二の子でした。
と言った。
でも、違ったとしても、
親父は変わらなかっただろうし、
俺も変わらなかったと思う。
そう言ってから、修平は地下室に降りていった。
久方は立ち止まったままいろいろな考えを頭の中にめぐらし──神戸の両親に連絡することにした。本当の子供じゃなくてもかわいがってくれた人達を思い出したからだ。




