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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年6月

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2017.6.22 木曜日 研究所

 サキ君は来ない。


 朝、目が覚めた瞬間、久方は絶望に襲われた。雨の音から逃げるように、布団の奥深くに逃げ込んだ。

 サキはもう、自分の気持ちに気づいている。

 ヨギナミがそう言っていた。なのに『お友達でいましょう』とわざわざ言ってきた。これはもう、振られたようなものだ。しかも、受験が忙しいから平日は来ないとか言い出した。

 明らかに嫌がられている。

 なぜ?本の数日前までは仲良くしていたのに。

 起き上がる気力がわかない。今日は一日中寝ていようと思った。ピアノ狂いが何をしようが絶対にここから出ない!そう思っていた。

 しかし、奴は事態を予想していた。

 6時になると、ピアノは弾かずに、直接久方の部屋へやってきた。


 起きろゴルァ。


 ドスの効いた声が響いた。久方は驚いて一瞬顔を出したが、またすぐに布団の中に隠れた。


 起きるんじゃゴルァ!!


 結城は容赦なく、シーツごと久方を床に引きずり下ろした。


 やめてよ!今日は寝かせてよ!


 久方は叫んだ。布団にしがみつきながら。


 僕にだってふて寝をする権利はある!


 うるせーてめーの権利なんざ知るかゴルァ!!


 結城は左手で久方をつかみ、右手で着替えをつかむと、そのまま1階まで無理やり引きずっていき、ソファーに投げ込んだ。そして、久方がまた眠りに落ちるのを防ぐために、テレビをつけて音量を上げた。


 そういやお前誕生日6月だったよね?14だっけ?

 悪いねすっかり忘れてた。

 こんどデラックスなマフィン買ってやるから。


 結城はさらに追い打ちをかけるようなことを言った。

 

 早紀に誕生日を忘れられている。

 いや、自分でも忘れていたが。

 いや、神戸の母からはプレゼントに服が届いていたので、完全に忘れていたわけではないのだが、届いた日にちがズレていたので気にしていなかった。

 ああ、忘れられている。

 久方がさらに落ち込んでいると、


 あのな、いずれこういう日は来ると思ってたよ。

 新橋は一見人懐っこく見えるけど、どこか人を怖がるところがあるだろ?

 たぶん、自分に近づいてくる男は信用できないんだよ。

 近づいてこない俺にはすりよってくるくせにな。


 結城が言った。


 僕はどうしたらいいの?


 久方はソファーに倒れたまま尋ねた。


 成り行きを見守るしかないな。

 受験で忙しいのは本当だろうし。


 それから、


 人生いろいろあるもんだぞ。こういう時もあるって。

 気持ち切り替えてチョコのお姉さんと仲良くしたら?


 と言って結城は2階へ行き、ピアノを弾き始めた。

 ラヴェルのソナチネだ。

 久方はソファーから動かず、その音を聴いていた。森に逃げてしまいたいが、いくら目をつぶっていても、なぜかあちらの世界に入ることはできなかった。そしてふと、昔読んだサン・テグジュペリの言葉を思い出した。


『僕がこれほど

 あなたに執着しているのは

 たぶんあなたを

 自分で勝手につくりあげているからだ』


 ああ、僕はサキ君を()()()()()()()()()()()のだろうか?

 それに、あの人のことも。


 久方はサキと、初島のことを思い出していた。ずっと行方不明だった母。実は恐ろしく残酷な人間だった母。それでも、まだ自分に愛情があると信じていたかった。でも、それは自分の願望にすぎない。サキも同じだったのか。自分の都合のいい女の子のイメージを勝手に作り上げていた。

 今、それは破れた。

 向こうは自分に興味を持っていない。

 離れようとしている。


 やっぱり僕に恋愛は無理だ。


 久方はしばらく暗い考えに取りつかれていたが、ポット君が起動してコーヒーを持ってきてしまったのと、寝ているのに飽きてたので、起き上がった。コーヒーカップを見ているとまたサキを思いだして悲しくなった。しばらく紅茶に変更しようかなと思ってポット君にそう伝えたら、なぜか嫌そうな顔を表示された。



 気晴らしに散歩に出た。朝降っていた雨はやんでいた。しかしまだ雲は厚く、薄暗い。久方は植物や畑の様子を見に行ったが、やはりそこでも早紀のことを思い出してしまった。

 いつか、早紀が畑の横に座って、人生を語っていたことがあった。たまに、人間の深い所を見てしまう子だから。将来、どうなるだろう?本人は文章を書きたいと言っていたが、シナリオライターにでもなるのか、それとも、哲学者だろうか。いつか言っていた『不思議な感じ』が何か確かめるために。

 何にしても、その未来に自分が入る余地はなさそうだ。

 久方はすぐに建物に戻り、パソコンに向かって作業し、Facebookに畑の様子を載せ、かつての同僚達のコメントに軽く返信し、キッチンを片付け、本の整理をした。何かしていないと、余計なことを思い出してしまう。


 3時過ぎ、保坂がやってきてガーシュインを弾き始めた。今日は木曜日だ。うるさくなってきたので久方は1階に降りた。するとそこには奈良崎がいた。


 何してるの?


 秀人のレッスンが終わるのを待ってるんです。


 奈良崎はそれだけ言うとスマホを見始めた。どうしたのだろう?学校で何か聞きつけて確かめに来たのだろうか?それとも何の意味もないのか?ただ友達についてきただけか?

 久方はいろいろなことを疑いながら、自分もスマホを見た。何も来ていない。『僕の誕生日忘れてたでしょう』と送ってみたくなったが、恩着せがましいし、自分も忘れていたのに他人を責めるのはおかしいと思って、やめた。

 そのうち保坂と結城が降りてきたので、みんなでお菓子を食べた。ポット君はなぜか切ない顔を表示しながら、4人分の紅茶を運んできた。

 初めは人気ドラマやゲームの話をしていて、久方は入っていけなかったのだが、そのうち話題はクラスの恋愛事情になった。佐加と藤木は付き合っている。最近、伊藤ちゃんと高谷も仲よさそう、などなど。


 お前らは好きな人いないのか?


 結城が尋ねると、


 いるけど相手にされてませんよ。


 奈良崎が答えた。


 俺も望みないっす。レズビアンなんで。


 保坂も言った。それから、


 所長が好きなのは新橋っすよね?


 と言われた。つまり、クラス中にバレているのだ。久方は頭が痛くなってきた。


 何だよお前ら、諦めないでがんばってみろって!


 結城が呆れた大声をあげた。


 いや〜でもレズは生まれつきなんで変わんないっすよ。


 保坂が言った。


 まだ若いんだからわからないだろそんなの。

 まだ定まってないだけかもしれないだろ?


 いや、スマコンはめっちゃ定まってますよ。

 伊藤ちゃんが好きなんすよあいつ。


 奈良崎が言った。


 変な三角関係だな。うまくいかねえな。


 結城が言いながら腕を組んだ。


 そういう結城さんはどうなんですか?


 奈良崎が聞くと、結城は若い頃の『華麗なる女性遍歴』を披露し始めた。若者2人はおもしろがって聞いていたが、久方は聞きたくなかったのでそーっとその場を離れ、コートを取って外に出ていった。



 数十分後、久方は松井カフェの窓から中をのぞいていた。サキがいないか確かめるためだ。すると松井マスターがこちらに気づいた。彼女は近寄ってきて、


 まあ〜今日は久方さんなの?久しぶりねえ!


 と言った。それで思い出した。橋本がここに来ていたんだった。ヨギナミと話すために。幽霊の問題をすっかり忘れていた。早紀のせいで。

 中に入ると、カウンターの隅に高条がいた。久方はそれを知ってビクッと震えたが、高条はちらっとこちらを見ただけで、何も言ってこなかった。

 久方はマスターに『もう一人の自分』のことを尋ね、マスターは自分なりの観察結果を述べた。おそらく、子供達の勉強の邪魔をしないように、最近は出てくるのを控えているのではないか、と。


 そういえば、今日も出てこなかったな。


 久方は思った。コーヒーを飲んで店を出てから、


 あさみさんに会わなくていいの?


 と空中に向かって尋ねてみた。


 今はそれどころじゃねえだろ。


 という返事が返ってきた。


 自分がどう思ってるか、よ〜く考えてみろ。


 とも。


 どういう意味?


 尋ね返したが、もう返事は返ってこなかった。


 

 研究所に戻ると、保坂達はもういなくなっていた。結城が『肉食いたい』と言い出して勝手に冷蔵庫の肉を取り出して焼き始めた。久方はサラダを作り、冷凍しておいたパン種を焼いた。せっかちな結城は、パンが焼ける前に肉を食べてしまった。


 あんまクヨクヨすんなって。


 結城が言った。


 ここに閉じこもってたらわかんないだろうけどな、

 女なんか他にもたくさんいるって。


 女はたくさんいるだろうけど、

 サキ君は一人しかいない。


 久方は即答した。


 お前だって奈々子さんの代わりはいないってわかってるだろ?


 わかってるよ。俺は代わりなんか探してない。


 結城は余裕を持った態度で言った。


 そう思うんなら、ちょっと避けられたくらいで諦めるなって。

 新橋はとまどってるだけだって。

 親戚のおじさんが急に男になったから。

 相手は十代の若者だぞ?

 人間関係自体に慣れてないんだよ。わかってやれよ。


 結城に説教されるのは不快だが、そうかもしれないと思った。でも、このままずっと避けられ続けたらどうしたらいいのだろう?耐えられるだろうか。


 この日、久方は夜遅くまで起きていた。眠りも、モノクロの森も、彼を訪れることはなかった。自分はこれからどうしたらいいのだろうと、そのことばかり考えていた。





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