2017.6.16 金曜日 研究所
橋本が出てこない。
もう3日連続で病院に行っていない。
あさみさんに会わないの?
久方が呼びかけても、答えはない。
仕方ないので、久方はしぶしぶ『自分の午前』を過ごした。パソコンで作業して、フェイスブックに成長著しいあさがおの写真を投稿し、猫達にエサをやり、畑を見て回る。
平和だなあ。
穏やかな天気の中、草原と畑を見回しながら、久方は心地よい風を感じていた。昨日雨を降らせた雲が、芸術的な形を作りながら遠ざかっている。青空がどんどん広くなる。午後にはきっと、きれいに晴れるだろう。木々や草の息吹が、そこら中から感じられる。
ああ、僕は生きているな。
久方はしばらく全てを忘れて、美しい世界を全身で感じていた。
昼過ぎ、本堂まりえが遊びに来た。新たなチョコレート像を作りたいが、なかなかいいアイディアが浮かばないので、気晴らしに散歩してきたと言う。
町の人から、久方さんの噂を聞きましたよ。
まりえが言った。
噂?
どうせあさみの話か橋本の話だろうと思っていたら、
草原を歩いている、とっても純粋な人だと。
久しぶりに聞く話だった。
久方がこの町に来た最初の頃にあった噂だ。
僕は純粋じゃありませんよ。
毎日ろくなことを考えてない。
純粋なのは僕じゃなくて草原の方でしょう。
自然は余計なことを考えないから。
そういうイメージについて、昔早紀と話し合ったことがあった。あれももうずいぶん前だ。
あの頃はよかった──
どうも町の人には、久方さんが草原を歩く姿が印象的だったみたいです。
まりえは言った。そして、
私、いいことを思いつきました。
笑いながら帰っていった。久方はなんとなく嫌なものを感じていた。チョコレート像のイメージがわかないと言ってから、久方のイメージの話を始めた。それはつまり──
どうしよう、本当に作られたら。
そう思って悩んでいるうちに3時になり、早紀と佐加がやってきた。早紀は発声練習をするため(というより、結城に会うためだろう)、佐加は奈々子と結城が変なことをしないか見張るため。
天井からピアノと、早紀の声が聴こえてくる。奈々子さんはまだ出ていない。同じ体を使っていても声の出し方が違うので、切り替わるとすぐわかる。
早紀が発声練習をしに来るようになってから、久方はモノクロの森に行かなくなった。それどころではないからだ。結城と早紀が同じ部屋にいる。早紀に取りついている奈々子さんは結城のことが好きだ。そして結城も奈々子さんに対する欲望を抑えている(と自分で言っていた)。2人っきりで長い間一緒にいたら、何か起きる可能性は高い。
久方は様子を見に行きたかったが、苦手な佐加が廊下にいて、奈々子さんと一緒に歌ったりするので怖くて近づけなかった。明らかに練習の邪魔だ。せっかくいい歌を歌っていても佐加のせいで台無しになる。
それより早紀は?奈々子さんが出てきている間、何を考えているのだろう?好きな人が別な女(幽霊だけど)と一緒にいて嬉しそうにしていたら、きっと辛いに違いない。久方は早紀が心配だった。ただでさえいろんなことで傷ついているのに、これが追い打ちになってしまうのではないか。
久方は歌が終わって早紀が戻ってくるまで、ずっと落ち着かずに部屋をうろうろして、時々天井を見上げてはため息をついていた。ここ数日ずっとこうだ。これが毎日続くのかと思うと、久方は暗い気持ちになる。でも、奈々子さんのためなのだ。幽霊を成仏させるためにやりたいことをやらせてあげているのだ。
久方は今までの自分の行動を省みた。橋本に人生を譲ってばかりだった自分を。まわりの人はきっとこんなふうに落ち着かなかったのだ。心配していたのだ。幽霊が出ている間、本人はどうなっているのか、本当に戻ってくるのか、傷ついていないか──いろいろなことが不安を呼ぶ。
神戸の両親のことを思い出した。今よりもっとひどい状態だった時、あの2人は自分を見てどう思っていたのだろう?きっと心配したに違いない。
久方は2階の音や声を気にしながら、神戸の母親とやり取りした。深いことは言えず、『最近天気がよくて景色がきれいだよ』というような世間話だったけど。
あんたは昔から、空を見るのが好きだったな。
母は言った。それが自分の元からの性質なのだ。空を見る、自然の美しさに見とれる。わからないまわりの人には笑われる。
神戸の母は、久方が何者か、きちんと知っていた。
所長!所長!聞こえてます!?
気がつくと、目の前に早紀と佐加、結城までいた。
練習、どうだった?
久方が尋ねると、
奈々子はちょっとしか出てきませんでした。
早紀が言った。
どうしたんですかね。練習がめんどくさくなったとか?
それはないだろう。腹減ったからお菓子取ってくる。
結城が部屋を出た。すると早紀が、
結城さんはほんとに奈々子のことが好きなんですよ。
と小声で言った。
戻った直後の体の感覚でわかるんです。所長、前に行ってましたよね?橋本が感じた、ヨギナミのお母さんからの想いが体に残ってるとか、そんなことを。それに似た感じがします。
そして、
でも、それは私に向けられたものじゃない。
早紀は切ない表情をした。久方も悲しくなってきた。佐加は何も言わずに、2人の様子をじっと観察していた。
結城はマフィンを持って戻ってきた。久方が『またそれ?』と呆れると、
何を言ってるんだ。
ここのマフィンは他のとは全然違うんだぞ。
材料にこだわってるし作り方も違う──
どうでもいい話が始まってしまった。おいしいお店の話をしているうちに、話題はあのチョコレートショップ・セレニテに移った。
今日もここに来てただろ、あのショコラティエ。
結城が余計なことをバラした。
え〜マジで!?やっぱ所長のこと好きなんじゃね?
佐加が大声を出した。久方はその声の大きさにのけぞった。
違うよ。チョコレート作品のインスピレーションがわかないから散歩していただけだって言っていたもの。
インスピレーション?あかねっぽい。ウヒヒ。
佐加がいやらしい笑い方をし、久方は『あかね』という単語から連想される全てのものにショックを受けた。
もしかして、まりえは平岸あかねと同じタイプなのか?
人をネタにして恐ろしい作品を作る女の一味か!?
芸術家っぽいですねえ。
早紀がつぶやいた。
夢中になれることがある人、羨ましいです。
私は自分が何をしたいかよくわからなくて、大学の学部選ぶのも困ったんですよ。
サキ君は文章を書きたいんじゃなかった?
久方が言った。
え?そうなんですけど──
サキ、SNSやった方がいいよ。
佐加が言った。
そんなに怖い人だらけじゃないって。書いたもの人に見てもらった方が、いろんなことわかるじゃん。
本当に何もやってないの?
やってない。怖いから。
怖いって、前の学校のバカどものことが?
佐加が容赦なく尋ねた。早紀は口ごもってしまった。
あんなのただの雑音だって。
サキはもっと外に自分を表現しに行った方がいいと思う。たぶんその方が誤解されない。
簡単に言うなと久方は思った。その『雑音』に極端に弱い人だって世の中にはたくさんいるのだが。図太い佐加にはそれがわからないのだろうか。
早紀は返事をせず、考え込んでいるようだった。しばらくコーヒーやマフィンに口をつけたり、肘をついて何か思い巡らせているような表情を見せてから、急に、
奈々子は結城さんに演奏活動してもらいたいんですよ。
と言った。それを聞いた結城は目元を歪めた。
前にも言ってました。『なんでこんな所にこもってラヴェルばっかり弾いてるんだろう?私のせいだろうか』って。
それも未練になってるんじゃないですか。
結城は、
俺は好きでここにいるんだから、
余計な心配はしなくていい。
と言って立ち上がり、部屋を出て言ってしまった。
結城さんもSNSやればいいのに。
佐加が言った。
お菓子を食べてから、早紀と佐加は帰っていった。
ああ、なぜいっつも佐加が一緒なんだ。
早紀と2人で話したいのに。
久方はそう思っていた。でも、結城とのことを考えると『一人で来て』とも言えない。結城と奈々子さんが本気でお互いを求め始めたら──自分一人で止められるだろうか。いや、絶対に止めなければいけないのだけれど。
早紀が傷つくのは、見たくない。
かといって、結城と仲良くしてほしくもない。
2階からは無遠慮なラヴェル『夜のガスパール』が聴こえた。こんな暗い曲を好んで弾くのは、結城も何か悩んでいるのでは──と一瞬思ったが、すぐに『いや、前からこうだった。ただの無神経だ』と思い直した。
しかし、結城はどうする気なのだろう?
純粋に歌のレッスンをしているだけとは、どうしても思えない。
サキ君が、せめてもう少し、
僕のことを気にしてくれたらなあ。
久方はそう思うと悲しい気持ちになった。窓辺で夕日を見て、散歩しようと思った。町の人にまた純粋な人呼ばわりされるかもしれないが、それでもかまわないと思った。
サキ君への想いは、確かに純粋だ。
それは間違いない。自信を持って言える。
少なくとも、自分自身はそう思っていた。同時に、早紀の結城への想いも同じくらい純粋なものだとわかっていた。
世の中は、人間は、うまくできていない。
久方はこの世で起きている無数のすれ違いを思いながら、草原に沈む夕日を見つめていた。




