表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年6月

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

849/1131

2017.6.16 金曜日 研究所

 橋本が出てこない。

 もう3日連続で病院に行っていない。


 あさみさんに会わないの?


 久方が呼びかけても、答えはない。

 仕方ないので、久方はしぶしぶ『自分の午前』を過ごした。パソコンで作業して、フェイスブックに成長著しいあさがおの写真を投稿し、猫達にエサをやり、畑を見て回る。


 平和だなあ。


 穏やかな天気の中、草原と畑を見回しながら、久方は心地よい風を感じていた。昨日雨を降らせた雲が、芸術的な形を作りながら遠ざかっている。青空がどんどん広くなる。午後にはきっと、きれいに晴れるだろう。木々や草の息吹が、そこら中から感じられる。


 ああ、僕は生きているな。


 久方はしばらく全てを忘れて、美しい世界を全身で感じていた。




 昼過ぎ、本堂まりえが遊びに来た。新たなチョコレート像を作りたいが、なかなかいいアイディアが浮かばないので、気晴らしに散歩してきたと言う。


 町の人から、久方さんの噂を聞きましたよ。


 まりえが言った。


 噂?


 どうせあさみの話か橋本の話だろうと思っていたら、


 草原を歩いている、とっても純粋な人だと。


 久しぶりに聞く話だった。

 久方がこの町に来た最初の頃にあった噂だ。


 僕は純粋じゃありませんよ。

 毎日ろくなことを考えてない。

 純粋なのは僕じゃなくて草原の方でしょう。

 自然は余計なことを考えないから。


 そういうイメージについて、昔早紀と話し合ったことがあった。あれももうずいぶん前だ。

 あの頃はよかった──


 どうも町の人には、久方さんが草原を歩く姿が印象的だったみたいです。


 まりえは言った。そして、


 私、いいことを思いつきました。


 笑いながら帰っていった。久方はなんとなく嫌なものを感じていた。チョコレート像のイメージがわかないと言ってから、久方のイメージの話を始めた。それはつまり──

 どうしよう、本当に作られたら。

 そう思って悩んでいるうちに3時になり、早紀と佐加がやってきた。早紀は発声練習をするため(というより、結城に会うためだろう)、佐加は奈々子と結城が変なことをしないか見張るため。

 天井からピアノと、早紀の声が聴こえてくる。奈々子さんはまだ出ていない。同じ体を使っていても声の出し方が違うので、切り替わるとすぐわかる。

 早紀が発声練習をしに来るようになってから、久方はモノクロの森に行かなくなった。それどころではないからだ。結城と早紀が同じ部屋にいる。早紀に取りついている奈々子さんは結城のことが好きだ。そして結城も奈々子さんに対する欲望を抑えている(と自分で言っていた)。2人っきりで長い間一緒にいたら、何か起きる可能性は高い。

 久方は様子を見に行きたかったが、苦手な佐加が廊下にいて、奈々子さんと一緒に歌ったりするので怖くて近づけなかった。明らかに練習の邪魔だ。せっかくいい歌を歌っていても佐加のせいで台無しになる。

 それより早紀は?奈々子さんが出てきている間、何を考えているのだろう?好きな人が別な女(幽霊だけど)と一緒にいて嬉しそうにしていたら、きっと辛いに違いない。久方は早紀が心配だった。ただでさえいろんなことで傷ついているのに、これが追い打ちになってしまうのではないか。

 久方は歌が終わって早紀が戻ってくるまで、ずっと落ち着かずに部屋をうろうろして、時々天井を見上げてはため息をついていた。ここ数日ずっとこうだ。これが毎日続くのかと思うと、久方は暗い気持ちになる。でも、奈々子さんのためなのだ。幽霊を成仏させるためにやりたいことをやらせてあげているのだ。

 久方は今までの自分の行動を省みた。橋本に人生を譲ってばかりだった自分を。まわりの人はきっとこんなふうに落ち着かなかったのだ。心配していたのだ。幽霊が出ている間、本人はどうなっているのか、本当に戻ってくるのか、傷ついていないか──いろいろなことが不安を呼ぶ。

 神戸の両親のことを思い出した。今よりもっとひどい状態だった時、あの2人は自分を見てどう思っていたのだろう?きっと心配したに違いない。

 久方は2階の音や声を気にしながら、神戸の母親とやり取りした。深いことは言えず、『最近天気がよくて景色がきれいだよ』というような世間話だったけど。


 あんたは昔から、空を見るのが好きだったな。


 母は言った。それが自分の元からの性質なのだ。空を見る、自然の美しさに見とれる。わからないまわりの人には笑われる。

 神戸の母は、久方が何者か、きちんと知っていた。


 所長!所長!聞こえてます!?


 気がつくと、目の前に早紀と佐加、結城までいた。


 練習、どうだった?


 久方が尋ねると、


 奈々子はちょっとしか出てきませんでした。


 早紀が言った。


 どうしたんですかね。練習がめんどくさくなったとか?


 それはないだろう。腹減ったからお菓子取ってくる。


 結城が部屋を出た。すると早紀が、


 結城さんはほんとに奈々子のことが好きなんですよ。

 

 と小声で言った。


 戻った直後の体の感覚でわかるんです。所長、前に行ってましたよね?橋本が感じた、ヨギナミのお母さんからの想いが体に残ってるとか、そんなことを。それに似た感じがします。


 そして、


 でも、それは私に向けられたものじゃない。


 早紀は切ない表情をした。久方も悲しくなってきた。佐加は何も言わずに、2人の様子をじっと観察していた。

 結城はマフィンを持って戻ってきた。久方が『またそれ?』と呆れると、


 何を言ってるんだ。

 ここのマフィンは他のとは全然違うんだぞ。

 材料にこだわってるし作り方も違う──


 どうでもいい話が始まってしまった。おいしいお店の話をしているうちに、話題はあのチョコレートショップ・セレニテに移った。


 今日もここに来てただろ、あのショコラティエ。


 結城が余計なことをバラした。


 え〜マジで!?やっぱ所長のこと好きなんじゃね?


 佐加が大声を出した。久方はその声の大きさにのけぞった。

 

 違うよ。チョコレート作品のインスピレーションがわかないから散歩していただけだって言っていたもの。


 インスピレーション?あかねっぽい。ウヒヒ。


 佐加がいやらしい笑い方をし、久方は『あかね』という単語から連想される全てのものにショックを受けた。

 もしかして、まりえは平岸あかねと同じタイプなのか?

 人をネタにして恐ろしい作品を作る女の一味か!?


 芸術家っぽいですねえ。


 早紀がつぶやいた。


 夢中になれることがある人、羨ましいです。

 私は自分が何をしたいかよくわからなくて、大学の学部選ぶのも困ったんですよ。


 サキ君は文章を書きたいんじゃなかった?


 久方が言った。


 え?そうなんですけど──


 サキ、SNSやった方がいいよ。


 佐加が言った。


 そんなに怖い人だらけじゃないって。書いたもの人に見てもらった方が、いろんなことわかるじゃん。

 本当に何もやってないの?


 やってない。怖いから。


 怖いって、前の学校のバカどものことが?


 佐加が容赦なく尋ねた。早紀は口ごもってしまった。


 あんなのただの雑音だって。

 サキはもっと外に自分を表現しに行った方がいいと思う。たぶんその方が誤解されない。


 簡単に言うなと久方は思った。その『雑音』に極端に弱い人だって世の中にはたくさんいるのだが。図太い佐加にはそれがわからないのだろうか。

 早紀は返事をせず、考え込んでいるようだった。しばらくコーヒーやマフィンに口をつけたり、肘をついて何か思い巡らせているような表情を見せてから、急に、


 奈々子は結城さんに演奏活動してもらいたいんですよ。


 と言った。それを聞いた結城は目元を歪めた。


 前にも言ってました。『なんでこんな所にこもってラヴェルばっかり弾いてるんだろう?私のせいだろうか』って。

 それも未練になってるんじゃないですか。


 結城は、


 俺は好きでここにいるんだから、

 余計な心配はしなくていい。


 と言って立ち上がり、部屋を出て言ってしまった。


 結城さんもSNSやればいいのに。


 佐加が言った。






 お菓子を食べてから、早紀と佐加は帰っていった。

 ああ、なぜいっつも佐加が一緒なんだ。

 早紀と2人で話したいのに。

 久方はそう思っていた。でも、結城とのことを考えると『一人で来て』とも言えない。結城と奈々子さんが本気でお互いを求め始めたら──自分一人で止められるだろうか。いや、絶対に止めなければいけないのだけれど。

 早紀が傷つくのは、見たくない。

 かといって、結城と仲良くしてほしくもない。

 2階からは無遠慮なラヴェル『夜のガスパール』が聴こえた。こんな暗い曲を好んで弾くのは、結城も何か悩んでいるのでは──と一瞬思ったが、すぐに『いや、前からこうだった。ただの無神経だ』と思い直した。

 しかし、結城はどうする気なのだろう?

 純粋に歌のレッスンをしているだけとは、どうしても思えない。


 サキ君が、せめてもう少し、

 僕のことを気にしてくれたらなあ。


 久方はそう思うと悲しい気持ちになった。窓辺で夕日を見て、散歩しようと思った。町の人にまた純粋な人呼ばわりされるかもしれないが、それでもかまわないと思った。


 サキ君への想いは、確かに純粋だ。

 それは間違いない。自信を持って言える。


 少なくとも、自分自身はそう思っていた。同時に、早紀の結城への想いも同じくらい純粋なものだとわかっていた。

 世の中は、人間は、うまくできていない。

 久方はこの世で起きている無数のすれ違いを思いながら、草原に沈む夕日を見つめていた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ