2017.6.14 水曜日 図書室 高谷修平
修平は今日調子がよかった。なので、やたらに『大丈夫?』と尋ねてくる伊藤が少々うっとおしかった。図書室で倒れてからというもの、みんながなんとなく自分に気を遣っているのが伝わってきた。また倒れたらどうしようと思われているのかもしれない。修平はそれが嫌だった。
「大丈夫?」
まただ。ちょっと手を止めてぼんやりしているとすぐ心配される。
「大丈夫だって!何回も聞きすぎ!」
修平は言った。
「ほんとにもう何ともないって!今日は調子がいいから!」
言いながらちらっと、後ろにいる『先生』を見た。確かに今日は調子がいい。でもそれは、自分の力ではなく新道先生の力かもしれない──修平はそれも嫌だったが、つべこべ言える状況ではない。修平にはまだやることがある。
先生を成仏させてあげたい。
1980年に何が起きたか知りたい。
そして何より、伊藤を知りたい。
図書室には杉浦が来ていて、奥の書庫を占拠していた。学校祭で使う展示の資料を探して。秋倉高校はもうすぐ廃校になるので、最後の学校祭で歴史を振り返りたいと杉浦は言っている。伊藤もそれには賛成だ。
「うちのグループは去年と同じたこ焼きだし、第3もまた飲食でしょ?第1だけでも何かおもしろいイベントやった方がいいと思う。だからちょうどいいしょや。休憩スペースは佐加が作るし」
「あいつが作った空間で心が休まると思う?全面キラキラにする気だろ?」
「キラキラじゃなくてフルーツとかスイーツでデコる気だと思う」
「俺もなんかおもしろいことしたいな〜」
「何かいい考えがあるの?」
「なんにもない。だから大人しくカフェの手伝いする」
修平は言いながら本棚の奥に向かい、伊藤から見えない所に行ってため息をついた。
もっと深い話がしたい。
何が深いのかと言われても自分でもわからないが、何かもっと根本に迫るような話がしたい。『俺のことどう思ってるの?』いや、違う。『神について話をしよう』いや、それも違う。『今日出た宿題難しくない?』いや、そんなことはどうでもいい。
自分が何を言いたいのかわからず、本棚の奥をうろついていると、
「修平」
いつのまにか後ろに伊藤がいて、心配そうな表情で修平を見ていた。
「わあっ」
いきなり目の前に人が現れたので、修平は驚いて後ろに飛びのいた。
「やっぱり調子悪いんじゃない?」
「何回同じこと聞くんだよ!?今日は元気なんだって!」
「あ、そう」
伊藤はカウンターに戻ろうとした。
「ちょっと待って」
修平は伊藤を呼び止めた。
「今、俺のこと『修平』って呼んだ?」
修平がニヤニヤしながら尋ねると、伊藤はゆっくりと、すねたような顔で振り返った。
「いけませんか?クラスのみんなもそう呼んでるし」
口調が恥ずかしそうだった。修平は嬉しくなってきた。
「いや〜別に。ってことは、俺も『百合ちゃん』って呼んでいいってこと?」
「それはダメ」
伊藤が子供のような声で言った。
「えー!何で?」
「名前好きじゃないし、みんな伊藤って読んでるしょや」
「え〜……」
「えーじゃありません」
伊藤はふてくされた顔でカウンターに戻り、後ろの棚からキスリングの画集を取り出して眺め始めた。この状態になるとしばらく話をしてくれない。修平は奥の書庫に向かいながら、嬉しさで歌い出したい衝動を抑えた。
あいかわらずほこりっぽい(掃除したはずなのに空気が改善されていない!)書庫では、杉浦が古い資料を山積みにして熱心に読んでいた。
「この学校は昔、ここらへん一帯の希望だったのだよ」
杉浦が言った。
「まだ学問というものが尊ばれていた時代、学生は未来そのものだった。それが今はどうかね、仕方なく学校に行ってる若者がほとんどだ。世界には学校に行きたくても行けない子供がたくさんいるというのに」
「日本にもいるよ。学校に行きたくても行けない子は」
修平が言った。
「俺もそうだったし──ゲホッ!ねえ、こんな空気悪い所にいて平気なの?」
「悪いかね?僕はなんとも思わないが」
「お前は古本の山に慣れすぎ!」
修平は咳をしながら図書室に戻った。カウンターの伊藤はキスリングの画集で顔を隠したまま微動だにしない。修平は先程のやりとりを思い出してまたにやけた。名前を呼ぶだけで恥ずかしがるということは、自分のことをそれなりに思ってくれている証拠だ──そう思いたかった。
「先生」
本棚の奥で、修平は新道先生に話しかけた。
「最近は、あの森には行ってないの?」
『何度か行こうとしましたが、入れませんでした』
新道先生が答えた。
「てことは初島も出てきてないんだな」
『そのようです』
「先生と初島にはつながりがある」
修平が言った。
「あのさ、久方さんは、自分が初島と直接会って話をしなきゃいけないと思ってるみたいだけど、本当に奴に会う必要があるのは先生じゃない?」
新道先生は答えない。
「初島が創り出した存在は久方さんだけじゃない」
修平は続けた。
「先生はよく『自分が何者かわからない』って言う。でも、初島がそこに関わっているのはわかってる」
『ええ』
「先生が初島と話して、話を聞き出すことはできない?森から追い払うんじゃなくて。もしあの森が、本当に久方さんが創り出したものなら、そこに初島が現れるってことは、向こうは何か伝えようとしているんじゃ──」
『初島は久方さんを消そうとしているんですよ。君や、新橋さんのことも何とも思っていない』
新道先生が厳しい表情で言った。
『実を言うと、私も、初島と冷静に話せる自信がない』
「橋本を殺したのが初島じゃないかと疑っているからだろ?」
『そうです』
「でも、橋本が教えてくれないんだから、初島に聞いた方がいいんじゃない?サキの話だと、由希さんは橋本が落ちてくるのを目撃していて、建物に女がいるのが見えたと言ってるんだよね。それはたぶん初島の可能性が高い。橋本が死ぬ前に最後に会ったのは初島だ」
『修平君』
新道先生が言った。
『私があちらの世界に長くいると、君が倒れてしまうんですよ?』
「わかってる」
残念だが、修平はわかり始めていた。元気に動き回れているのは自分の力ではなく、先生の力だ。いなくなると弱って、いずれ動けなくなってしまう。
「でも、いつまでも逃げるわけにはいかないんだよ、先生」
修平は言った。
「現実に向き合わなきゃいけないんだ、俺も先生も」
現実。
それはもしかしたら『生き延びるのは不可能』ということかもしれない。あるいは、かろうじて命が残っても、前みたいに病院から出られなくなることかもしれない。
だけど──
「いつまでも一緒にいるわけにはいかないんだ」
修平はつぶやいた。新道先生の姿は消えていたが、まだ近くにいるのは気配でわかった。
修平はカウンターに戻った。伊藤はまだ画集を見ていた。
「それ、何がおもしろいの?」
修平が尋ねた。
「ミモザの絵が好きなの」
伊藤が、黄色い花の絵を修平に見せた。
「ねえ」
「何?」
「やっぱり『百合』って呼んでいい?」
修平が言うと、伊藤は画集を置いて、修平を軽くにらんだ。顔が赤い。
「いいよね?」
修平はにっこりとほほえんだ。
「ここでだけね」
伊藤は言いながら画集に目を戻した。
「教室ではやめてください。わかりましたか?」
「わかった」
修平は本棚の裏に戻り──嬉しさのあまり飛び跳ねた。




