2017.6.13 火曜日 研究所
久方は、結城の部屋のドアに貼り付いて、中の様子をうかがっていた。ピアノの音と、早紀(いや、奈々子さんだ)の歌う声が聴こえてくる。少し発声して、結城が何かしゃべり、また発声する──を繰り返しているようだ。
早紀と結城を2人きりにするのは気が気でなかった。結城が奈々子さんを愛しているのは知っていたし、奈々子さんも、そして早紀までも、結城が好きなのだ。まずいことが起きるのではないかと久方は心配していた。
中の様子を探るのに夢中になっていたため、久方は、下から人が近づいてきていることに気がつかなかった。
何してんの所長?
はっとして振り返ると、そこには、ニヤニヤしている佐加と、微妙な笑いを浮かべたヨギナミがいた。止まってしまった久方のことは気にせず、佐加は隣に来て、同じように貼り付いて中の物音を聞こうとした。
やっぱり、前みたいな声を出すのは無理だな。
新橋の喉では。
結城が言った。
がっかりした?
奈々子が尋ねた。
少しね。
結城が言った。
練習しよう。
またピアノを弾き始めた。奈々子は少し歌った。
それから、
ねえ。
曲を中断して話し始めた。ピアノが止まった。
もし、私があの日、音楽教室に行ってたら──
告白するつもりだった。
結城がはっきりと言った。
俺だけのものになってくれって言うつもりだった。
キャー!!
佐加がドアの前で叫んだ。ヨギナミと久方は慌てた。結城がドアに近づいてくるのが足音でわかったので、廊下の3人は慌てて階段を駆け下り、1階に逃げた。
練習するぞ。
結城は少々いらついた声で言いながらピアノに戻った。
ヤバくね!?ヤバくね!?めっちゃヤバくね!?
1階では、佐加が興奮のあまり何度も叫んでいた。
静かにしてくれないかな。
久方はソファーで横になって頭を抱えていた。リアルに頭痛がしていた。
私、止めに行った方がいいかな。
ヨギナミが言った。
あのまま放っといたら2人で何するかわかんないよね。
体はサキなのに!
佐加がまた大声を出し、久方が頭痛にうめいた。
ヨギナミと佐加は再び2階へ向かった。
結城さぁ〜ん!
佐加がドアに向かって声を上げた。
お菓子持ってきたんだけど、食べるぅ〜?
するとドアが開き、結城が不機嫌な顔で出てきて、
練習の邪魔だ。
とだけ言って、再びドアを閉めようとした。
ちょっと待って。
ヨギナミがドアを押さえた。そして、
体はサキのものだって忘れてないよね?
結城に向かって厳しい眼差しを向けた。
わかってるって。
結城は薄く笑うと、ヨギナミの手をドアからはずして、閉めた。2人はしばらく様子を見ていたが、ピアノと歌声しか聞こえてこない。
ここにポッキー持ってきて食う?
佐加が言った、ヨギナミがうなずいた。
久方はソファーで悶えていた。
結城め、何が『俺のものになってくれ』だ。一体何をする気だったんだ(いや、そんなことは考えるまでもなく明白だ!)。これからサキをどうする気だ。そうだ、今目の前にいるのは奈々子さんじゃない。サキなのだ。どうにも許しがたい。しかし、何も言えない。
頭痛は本格的にひどくなり、薬を取りに行こうにも、少し動くと痛みが増すので動けない。ヨギナミと佐加はどこかへ行ってしまった。帰ってくれればいいのにと久方は思ったが、佐加のことだ、まだ2階で何か企んでいるだろう。
だめだ、このまま放っとく訳にはいかない。
久方は痛みをこらえながら立ち上がり、階段に向かって数歩歩いた。しかし、ピアノの音と佐加の声(なんと、奈々子と一緒に歌っている!)がうるさすぎて頭が割れそうになり、キッチンに逃げ込んで床に倒れた。
その頃、結城と奈々子は、廊下から聴こえてくる佐加の歌声と、ヨギナミであろう手拍子にすっかり調子を狂わされていた。
何なんだあいつら。
結城はいらつきながらドアを見た。
サキが心配なの。それだけ。
奈々子が薄く笑った。
でもこれじゃ練習にならないだろ。
そう?私はけっこう楽しいけど?
誰かが一緒に歌ってくれるの。
奈々子が言うと、結城はため息をついた。
私はもうひととおり歌ったから、
あとはサキと発声練習してあげて。
おい、待ってくれ。
結城が慌てた。しかし、奈々子は引っ込み、早紀が戻ってきた。早紀はドアに向かって走り、
戻ってきたから、解散!
と叫んだ。佐加とヨギナミが階段を駆け下りていく音が聞こえた。
早紀は振り向いてにっこり笑うと、
発声練習しましょう!
と叫んだ。結城はあからさまに困った顔でため息をついた。
所長さん、大丈夫?
ヨギナミが久方の顔をのぞきこんだ。佐加と2人で1階に戻ったら、頭痛薬の箱をつかんだまま倒れている久方を発見し、慌ててソファーまで引きずっていったのだった。
放っといてくれぇ。
久方が今にも死にそうな声を発した。
もうサキ戻ってきたから大丈夫だって。
佐加が言った。2階からは、サキの、張り切りすぎている発声が聴こえてくる。久方の頭痛はさらにひどくなった。
どいつもこいつも、なぜピアノ狂いに夢中なんだ!?
久方は目を閉じ、世界の全てを締め出そうとした。今はモノクロの森に行こうとしても無理だろう。頭が痛すぎて集中できない。
ヨギナミと佐加は、早紀が戻ってくるのを待っているようだ。早く帰ってほしいのに、ポット君が笑顔を表示しながら、コーヒーを運んできてしまった(女の子に弱い仕様をなんとかしてくれと、そのうち岩保に伝えなくては)。
久方は頭痛をこらえながら、佐加とヨギナミのとりとめのない話を聞かされるハメになった。最近河合先生が試験だ試験だとうるさいとか、南先生はいつ結婚するんだろうとか、奈良崎と伊藤ちゃんをくっつけるにはカッパが邪魔だとか、海外のセレブの服はどうとか、とにかくどうでもいい話ばかりを。
夕食の時間が近づいた頃、ピアノと声は止み、早紀がにこにこしながら降りてきた。後ろから結城もついてきた。
発声練習、楽しい!
早紀はヨギナミ達の所に来るなり、言った。
私、本格的に歌やろうかな。
腹減った。おい、今日はメシ食いに行くぞ。
結城が久方に言った。
頭痛がするから一人で行ってよ。
久方は弱々しくつぶやいた。
さっき、キッチンに倒れてたよ。
ヨギナミが言った。
ほんと?大丈夫?病院行く?
結城が言った。
大丈夫ですか?
早紀が久方に近づいて顔をのぞきこんだが、久方は目を開けることができなかった。
お前らもう帰れ。
メシ食いに行くついでに車で送るわ。
結城が言った。女の子達がきゃあきゃあ言いながら後について部屋を出ていった。一人残された久方は、痛みをこらえて起き上がり、壁にすがるようにしてなんとか2階の自分の部屋にたどりつくと、ゆっくりとベッドに倒れた。
結城、佐加達を味方につけようとしてるな。
本当はサキ君のことも狙ってるんじゃないか?
そういう疑念が心から消えてくれない。でも、どうしたらいいかわからない。
ベッドでうめいていると、人の気配がした。
橋本が隣に立って、静かな目で久方を見下ろしていた。
お前はいいかげん、自分の気持ちを伝えろ。
橋本は言った。
無理だよ。
久方はつぶやいて、全てを拒絶するように顔を枕にうずめた。橋本はそれ以上何も言わずに消えた。久方は痛みが消えるのをひたすら待っていた。しかし、結城が弁当を持って帰ってきても、夜中、みんなが寝静まる頃になっても、痛みはおさまらなかった。いや、痛みは少しずつ引いていったのだが、別な痛みが大きくなっていた。
早紀は結城に夢中で、
自分のことなんかまるで考えてくれない。
そういう痛みが。




