2017.6.10 土曜日 研究所
研究所の1階の部屋。久方と修平が見守る中、新道先生と橋本が話していた。37年前の今くらいの時期の話を。この2人がじかに話すのを見るのは初めてだった。いつも丁寧な口調の新道先生が、橋本にはタメ口を聞いていた。橋本は、あいかわらず自分が死んだときのことは話したがらなかったが、初島のことは知っていたとようやく話してくれた。
一人で悩んでたんだな。
なぜもっと早く言ってくれなかった?
新道先生が言うと、
お前らに話せるような内容じゃなかったんだよ。
橋本が答えた。
確かに、後で話を聞いて衝撃を受けたよ。
でも話すべきだったんだ。
もし話してくれたら──
橋本は死ななかったのでは?と新道先生は思ったらしいが、橋本はそこで黙り込んでしまった。
久方は幽霊2人より隣に座っている高谷修平の顔色の悪さを気にしていた。幽霊達が話したことはあらかじめ夢で見たり本人に聞いたりして知っていたので軽く聞いていたのだが、修平は、隣りにいるのに、生気がまるで感じられない。しゃべっている幽霊よりもよっぽど亡霊に見えた。
ねえ、体調はほんとに大丈夫なの?
久方は思わず質問していた。もう何度も。
大丈夫ですって。何回同じこと聞くんすか。
修平は笑ったが、やはり元気がなさそうだ。
お前、ほんとに先生になったんだなあ。
橋本はスーツ姿の『新道』をまじまじと、上から下まで、不思議そうな目で見つめていた。
橋本のおかげでな。
新道先生は言った。
俺は関係ねえよ。
いいや、あるんだ。大学の費用を出してくれたのはお前のお父さんなんだよ。本当は、お前が大学に行けるようにと貯めていた金だった。でも、お前が死んでしまったから、親父さんは代わりに使ってくれって、俺に通帳をくれた。
橋本は驚いて声が出ないようだった。
それだけじゃない。何もわからなかった俺に本を読むことを教えたのはお前だ。あの時古典を無理やり読まされたのが、大人になってから大いに役立ったよ。いわばお前は、俺の考え方の基礎を作ってくれたようなものだ。
それはねえよ。
いや、そうなんだ。聞いてくれ。お前がどう思おうが、俺達はお前の影響を受けて生きていたんだ。ナホちゃんや菅谷は今でも今でもそうだろうよ。ナホちゃんはお前が死んでから、神に祈るようになった。菅谷も変わった。八つ当たりで放火したり、偉そうに人を見下したりするのをやめた。
俺は生徒から深刻な相談を受けるたびに、お前のことを思い出した。どうしたら死なせずに済んだのか、ずっと考えていたんだ。
雨の音が響いた。結城は公民館へ編み物教室のおばあさん達を冷やかしに行っていて、いない。幽霊達が黙るたびに、自然の音が部屋に忍び込む。久方はそこに不思議を覚えた。まるで、幽霊達も自然の一部になって、声で呼応しあっているかのような。
どうして死んだのかずっと知りたかった。
新道先生が言った。
全部俺のせいだ。初島は関係ない。
橋本が言った。
俺は初めから人生に絶望していた。
何度も死のうとした。
お前も知ってるだろ?一回止められたからな。
俺は間違って生まれてきた。
本気でそう思ってたよ。
今なら違うってわかるけどな。
自殺なのか?
新道先生が尋ねた。橋本はまた黙ってしまった。
久方のスマホが鳴った。早紀が『今からそっちに行きますね』と言ってきていた。修平にそれを知らせると、『やべえ、絶対モメる』とつぶやいた。
部屋に入ってきた早紀は、幽霊2人を見るなり『げっ』と声に出して嫌がった。それから幽霊2人を無視して久方に、
奈々子が結城さんのことを好きだって公言したんですよ!
みんなの前で!
と叫んだ。新道先生が頭を抱え、橋本は呆れた顔をした。久方と修平は苦笑いした。
笑い事じゃないんですってば!きっと私の体を使って結城さんと恋愛する気ですよ!
そんなこと絶対させませんからね!
歌の練習もなしです!もう嫌です!
新橋さん、気持ちはよくわかりますが──
新道先生が何か言いかけたが、
新道は黙ってろ!
早紀が怒鳴ったので、新道先生は身を引いた。
サキ君、コーヒーを持ってくるから少し落ち着こうよ。
久方がキッチンへ向かうと、早紀もついてきた。奈々子の悪口を言いながら。どうも早紀は、奈々子が学校のみんなと『自分より仲良くなってる』のが気に入らないらしい。
久方は自分の学生時代を思い出した。
そうだ、あの時も、僕自身より『別人』の方が面白いと思っているクラスメートがいたっけ。僕より橋本の方が人付き合いが上手くて、それがものすごく嫌だった──
だから、今の早紀の気持ちはよくわかる。
奈々子さんは何て言ってるの?
久方は尋ねた。
『嫌なら別にいい』嫌に決まってるだろって話ですよ。
あのさあ、
それじゃあいつまで経っても何も変わらないよ。
修平がやってきた。
『イヤ!』って存在を拒絶してても何も解決しないんだよ。どう対処するか考えてあげないとさあ。
ところで新道と橋本はいつ消えんの?
早紀が言った。
私が奈々子の願いを叶えようとがんばってる間、あんたは何してたの?
新道と仲良くおしゃべりしてただけ?
それで何か変わんの?人のこと言える立場?
修平は傷ついた顔をして引っ込んだ。
サキ君、言い過ぎだよ。
修平君は体調が悪いんだ。
そんなの顔見ればわかりますよ。自分で言ってることをやってないからムカつくんです。前に修平は『人の心配ばかりしてないで自分のことを考えようよ』と言ってきました。でも今何してます?体調悪いのに、新道と橋本のためにわざわざここまで来てるでしょ?
まず自分が自分のこと考えろってんですよ。フン。
サキはふてくされた顔をして、キッチンでコーヒーを飲み始めた。橋本達がいる部屋には行きたくないらしい。
部屋の様子を見に行くと、幽霊2人は姿を消していて、修平がソファーにぐったりと横になっていた。シュネーがテーブルの上からその様子を見ていた。
修平君。
久方が話しかけると。
聞こえてましたよ。
修平がささやくような声で答えた。
先生まで『新橋さんの言うとおりですよ』と言って消えましたよ。せっかく、久しぶりに橋本と話してたのに。もっと懐かしい話とかしたかっただろうに。サキはそういうことを考えてないんですよ。今まであの2人がどれだけの時間、どれだけのものを抱えて耐えてきたか。奈々子さんだってそうだ今まで──
あんたは幽霊に同情しすぎ!
早紀がマグカップを持ったまま近づいてきた。
所長とおんなじ。幽霊と自分の境界線がなくなってる。
ちゃんと区別しなよ。
あんたは新道は絶対体を乗っ取ったりしないって言ってたけど、それは違う。
新道は見事に、あんたの心|を《・乗っ取ってる。
ダメじゃん。私は私だし、奈々子は奈々子だし。
でも──ああ!どうしよう!
同じ人を好きなんて嫌すぎる!
早紀が叫んだ。雨の音が止まっていた。久方は外を見た。雲は厚く、暗い。散歩に向いた天気ではない。
あのさあ、サキ。
修平がつぶやいた。
人と仲良くする時って、一回、
境界を超えなきゃいけないものじゃない?
それから、
『ここは俺のテリトリーだ!』っていつまでも言ってたら、誰とも仲良くできなくない?
サキ、今まで友達いたことある?
秋倉に来る前に。
いたって。友達くらい私にもいる。ちゃんとお互いの境界は守ってる。むやみに深い所に立ち入ったりしない。
何でも知ればいいってもんじゃないでしょ?
私に言わせれば、初島のことも橋本のことも、今となってはどうでもいい。
だって、今の暮らしに関係ないじゃん。
関係はあるよ。僕らはまだ過去の影響を受けてる。
久方は言った。
所長はもう、そんなこと気にする必要はないんですよ。
でも、気になるものはなるんだよ。
修平が起き上がった。
俺もコーヒーもらっていいすか。
久方はキッチンに戻ってため息をついた。
早紀の言うとおりかもしれない。昔何が起きたかわかっても、今の暮らしが変わるわけではない──でも、本当にそうだろうか?過去の空白が作った心のわだかまりは、今に影響を与えている。それがわかれば、何か変わるのでは、そう思うのはいけないことだろうか。
久方がコーヒー持って戻ると、早紀は『いかに奈々子を出し抜いて結城と仲良くなるか』を修平に相談していた。修平は『悪いけど結城がサキを好きになることはないと思う』と正直に言って、早紀を怒らせていた。なだめるために久方は地下へお菓子を取りに行ったが、戻ったら早紀の姿は消えていた。
結城を探しに公民館へ行くって言ってましたよ。
修平はそう言って、お菓子を受け取りながら笑った。
結城も悪いんですよ。
ちゃんと奈々子さんの存在に向き合おうとしないから。
それよりサキ君自身が心配だよ。
あの様子だと奈々子さんともケンカしそうだ。
案外ケンカした方が、
お互いの境界を超えられていいかもしれませんよ。
それより、久方さんはいつサキに告白するんですか?
修平はにやけ、久方は困惑した。
早めがいいですよ。
そしたらサキもショックで、結城のことは忘れるかも。
何を言ってるの。
俺は本気で言ってるんです。
早く伝えた方がいいですよ。
久方は呆れた顔を作ってその言葉をかわそうとしたが、うまくいかなかった。




