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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年6月

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2017.6.10 1980年6月

「新道くんの身元は、わたくしが保証するザマス!」

 根岸家で、菅谷の母親、市子が宣言していた。

「ザマスはやめてくれ……」

 菅谷は青い顔で目をそむけた。

 新道と根岸菜穂、そして菜穂の母親は、ポカーンとしていた。特に菜穂の母親は『菅谷家の奥様』がいきなり現れたので、息子との交際について何か言われると思っていたのだ。菜穂の母親は菅谷の方を気に入っていたが、菅谷の母親は新道と仲がよかった。彼の人のよさをよく知っていたため、根岸の奥さんがバカにしていると聞いて、一言言ってやりたくなったのだった。

「新道くんにはよく助けられてるんザマスの。オホホ」

 市子は金持ちらしい笑い方をした。

「今どきこんな気立てのいい男の子はめったにいないんザマス」

「はぁ……」

 菜穂の母親は、何が起きているかまだよくわかっていないようだった。最近は変なことばかり起きる。知らない本屋が娘のことを褒めちぎったと思ったら、今度はあの菅谷の奥様が、このヒョロ長いバカを称賛しに来るとは。一体世の中どうなってしまったのだろう。

 菜穂の母親はひねくれていたので、きっと菅谷の奥様は「うちの息子はお宅の娘とは合いません」と言いたいのだろう、だから別な男の子を勧めに来たのだと思った。しかし、市子にそんな気は全くなかった。純粋に、新道の応援をしたくてやってきたのだ。話し方のせいで伝わらないが、市子は昔から純真な心の持ち主で、金持ちの奥様になってもそれは変わっていなかった。

「奥様が心配する気持ちもわかるんザマスのよ。こんな世の中ですもの。子供にはできるだけ良い大学に行ってよい会社に就職してもらわなくては。でもねぇ、それだけではなんだか、殺伐としすぎていると思うんザマス。人間には優しさが必要なのに、最近優しい人が少なくなってきたと思いません?競争に勝つことばかりで、人を思いやれる人が少ないんザマス。でも新道くんにはそれができるんザマス」

「でも奥様、思いやりだけでは人間食べていけませんわ」

「もちろんですとも。でも、思いやりがなければ、そもそも一緒にいることもできません」

 菅谷は複雑な思いでこのやり取りを聞いていた。まさか母親が新道の味方をするとは──いや、これは予想の範囲内だ。母と新道は妙に仲がいい。きっと同じタイプの純粋真っ直ぐバカなのだ。

 それより、母が今言った「思いやりがなければ一緒にいることもできない」が引っかかっていた。それは、めったに帰らない──昼は仕事、夜はススキノで遊んでいる──父のことではないだろうか。

 それから主婦二人はしばらく噛み合わない会話をしていたが、市子が、

「お宅の娘さんには他に合う人はいないんザマス」

 と断言したので、しまいには菜穂の母親もしぶしぶそれを認めた。こうして、新道と菜穂の付き合いは、正式に認められることになった。

 帰り、市子は息子にこう言った。

「あの二人の邪魔をするんじゃありませんよ。誰が見てもお似合いのカップルです。入り込む余地はないザマス」

 菅谷はそれには答えなかった。ただ、今後どうしようか考えていた。まだ何か策はあるはずだと思っていた。つまり、諦めてはいなかった。




 新道は橋本古書店に向かった。橋本はもう長いこと学校に来ておらず、初島も姿を見せなかったため、『2人で駆け落ちした』という噂まで出てきていた。しかし、橋本は自室にこもって出てこないだけで、みんなが期待するような大それた『非行』は何もしていなかった。新道は毎日、心を痛めながら、みんなが口にする噂や悪口を聞いていた。

 みんなデタラメか、決めつけだ。

 なぜ人はそんなことを言うのだろう?みんな初島のことを嘘つきと言うが、自分達だって嘘をばらまいているではないか──『噂』という嘘を。

 店に入ると、店主が、

「これ、渡しとけって言われたよ」

 と、太宰治の『人間失格』を差し出した。新道はその題名を手に取って見ながら、

「これはどういう意味なんでしょう?」

 と尋ねた。

「意味なんてねえよ。古典だから勧めただけだろう」

「そうでしょうか。橋本は自分の思っていることをなかなか言わないから、こういう形で何か伝えようとしてるんじゃないかと思うんですが」

「人間失格が?」

「はい」

「じゃあまず読んでみろ」

「わかりました」

 新道は本をカバンにしまい、橋本の部屋のドアの前まで行った。

「ナホちゃんのお母さんが、俺とナホちゃんの交際を認めてくれたよ。菅谷のお母さんに説得されて、しぶしぶだけど」

 新道は今日起きたことを説明した。ここのところ毎日、新道は同じことをしていた。橋本は出てこないし、部屋にも入れてくれないが、話は聞いていると思った。

「そろそろ学校に来てよ」

 新道は言った。

「いいかげん出席日数も危ないだろ。そういえば初島も今日来なかった。初島先生に聞いたら『あの子に学問は必要ないから行く必要もない』って言われたんだ。どういうことだと思う?学校やめるってこと?」

 返事はない。

「ねえ、何か起きたの?」

 新道が一番聞きたいのはそこだった。何かが起きたのだ。それはわかるのに、何が起きたか誰も説明してくれない。

 しばらく問いかけ続けていたが、橋本は何も答えなかった。新道は帰ることにした。



 一時間後、橋本はあの廃ビルの最上階にいた。

 いつか、ここから飛び降りようとしたことがあった。人生に絶望して。新道が止めなければ死んでいたはずだ。あれからいろいろなことが変わった。自分に思いがけず友達ができた。しかし──

 あの時、死んでおけばよかった。

 橋本は思っていた。そうすれば、こんな恐ろしい世の中のことを知らずに済んだのに。

 新道め、余計なことしやがって。

 しかし、自分に世の中捨てたものじゃないと教えたのも新道だ。あいつは本当に善良だ。根岸もそうだ。菅谷は嫌いだが悪い奴ではない。どちらかというとマシな方だ。

 初島は──どうしたのだろう?父親に家に閉じ込められたのかもしれない。だから学校に来ないのかもしれない。あの家で、また恐ろしいことが起きているのかと思うと、橋本は気持ちが暗くなるのを感じた。


 いや、そんなことはどうでもいい。

 俺は元々狂っていた。

 だから死のうとしたのに。


 今、橋本は迷っていた。今すぐ飛び降りて人生を終わらせるか、それともまだやらなくてはいけないことがあるのか。

 橋本は、市に通じる窓と、外に通じている階段の間で何時間も迷っていた。外が暗くなり、空気も冷えて、部屋のものがほとんど見えなくなった頃、橋本は窓に近づいて街の夜景を眺めた。

 ここから見える家の明かり──あの中にはそれぞれに家族団らんがあるのだろう──は、いつだって自分を拒絶していた。あの中に自分は入っていけない。しかし、見ずにはいられなかった。あそこにはきっと優しい母親がいて、父親はまだ仕事から帰っていなくて、子供達は何も考えずに、当たり前のように食事をしているだろう。自分がどうして生まれてきてしまったかなんて、彼らは疑問にも思わないだろう。


 なぜ、自分はここにいるのか。


 橋本は窓から離れた。自分があそこに行こうとしても、落ちて死ぬだけなのだ。暗闇を探りながら階段を降り、夜の街を歩いて店に帰った。店主はカウンターで森有正を読んでいた。息子の方をちらっと見たが、本の内容の方が大事なのか、声はかけなかった。橋本はまた自室に戻った。


 新道は気づいただろうか。

『人間失格』の意味に。

 きっと、読めばわかってくれるだろう。


 橋本は机に向かい、これからどうしたらいいか考えた。いいことなど何も思いつかなかった。とりあえず、初島に会って話をした方がいい──いや、この前の狂ったような様子を思うと、それもやめた方がいいような気がした。

 初島はなぜか自分のことを『同じ仲間』だと思っているらしい。闇の仲間。なぜか執着されている。思い返せば昔からそうだった。しょっちゅう古書店に現れて自分にちょっかいを出してきた。昔から『不幸な仲間』だと思われていたのだ。

 根岸なら普通に話ができるか?

 と思ったが、あの恐ろしい話をあんな純粋な根岸にはしたくない。しかし、以前新道に『何か知ってるけど言えない』とほのめかしていたではないか。

 もしかして、もう気づいているのか?

 考えたくなかったが、その可能性はあると思った。女の方が勘が鋭い。はっきり言われなくても何かおかしいと気づいたのかもしれない。

 誰に聞くにしても、問題は、また学校に行かなければならないということだ。デタラメな噂が飛び交っている場所に。みんなは橋本と初島が不適切な関係にあると思っているのだ。

 ──新道に頼んで、根岸を連れてきてもらうか。

 それが一番いい方法のように思えた。しかし、あの純真無垢な二人にどうやって初島の話をするか。

 はっきりと伝える気には、どうしてもなれなかった。





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