2017.6.5 月曜日 病院→札幌
病院で、橋本はあさみに昔の話をしていた。自分が知らずに背負ってしまった誤解について──つまり、初島についてだ。橋本は、あさみには何でもしゃべっていいと思っているらしく、昔自分が抱えていたものをすべて吐き出していた。
久方も、後ろでそれを聞いていた。
そして、なんとなく察した。
あの人に何が起きていたか。
あさみは目を覚まさない。しかし、顔の表情が変わっているのに久方は気づいた。橋本が話しかけると、無表情に少しだけ笑みがさすのだ。『あんた、生きていれば、そんなことは誰にでもあるものよ』と言っているみたいに。
2人の不幸が、重なるのだろうか?
そう考えていたら、久方はいつの間にか自分の体に戻り、病院の入口に立っていた。
おう、帰るぞ、
昼飯はスープカレーとラーメンどっちが──
結城が車の中から呼びかけてきたが、
僕、これから札幌に行きたいんだけど。
久方はなぜかそう言っていた。
結城は少し考えてから、
いいよ。行きたいラーメン屋があるし。
と言った。しかし久方は、
お前のマンションに連れてけ。
と言った。結城はもちろん嫌そうな顔をしたが、
いいから早く出発しようよ。
と久方が言ったので、しぶしぶ車を発進させた。
2時間半後、久方は結城のマンションにいた。かつて音楽教室だった場所は、今はほとんどの部屋が使われておらず、単なる荷物置き場となっていた。
昔、奈々子さんがここにいた。
久方は昔ブースがあった空間を見ながら言った。
そして、母さんもここに来てた。
あのな、久方、そのことは──
結城は何か言いかけたが、
何も言わなくていいよ。
どうせ何も知らなかったんでしょ?
単なる金儲けか遊びだったんだ。
悪かったとは思ってるんだぞ。
奈々子と会うのを邪魔したのは──
いいって。
もう昔のことで何を言ってもどうにもならないよ。
久方は言いながら廊下を歩き回ったり、使われていない部屋をのぞきながら、昔ここで何が起きたのか想像しようとした。奈々子さんと修二と結城の3人は、一緒に独自の音楽を作ろうとしていた。ピアノと、歌と、ギターで。
トリオのセッションは結局どうなったの?
久方は尋ねた。
一曲だけ完成して、一度、狸小路で演奏したよ。
結城が答えた。
ほんと?
ああ、けっこう人が集まってて評判が良かった。だから次もやろうとしてたんだけど──
奈々子さんが来なくなったんだね?
受験のためとか言ってな。バカバカしい。
僕ちょっと、橋本の家があったあたりに行ってみるよ。
久方は言った。結城は車を出そうかと言ったが、一人で行きたいからと断った。大通公園に沿って西へ行き、資料館を抜け(ここの庭が森のような美しい自然がある場所だったので、木々を見て少し休んでから)南1条の通りを出てさらに西へ歩いた。
古書店があった場所には、別のビルが建っていた。まわりの店もすべて入れ替わってしまって、当時の面影は何もなかった。全く違う通りに出てしまったのかと思うほどだった。
俺が知ってる街は、もう存在していない。
橋本の声がした。
もう37年も経ったんだ。当たり前だな。
どこか行きたい所はある?
久方は尋ねた。
ねえよ。お前はとっとと帰れよ、自分の人生に。
何もかも変わり果てて、手遅れになる前に。
声には何か、感極まった響きがあった。
わかるだろ。
当たり前にあると思っていたことが何もかも、
時が経つと消えてなくなるんだよ。
しかも、少しずつ変わっていくから、気づけないんだ。
知らないうちに手遅れになってる。
なあ、お前、もう何年親に会ってない?
何日あんな田舎に引きこもってる?
頼むから自分の人生を始めてくれよ。
俺はもういいんだ。
またそんなこと言って。
久方はもっと何か言い返そうとしたが、通りすがりの人が不審者を見る目でこちらを見ていたので、話すのをやめた。他の人には橋本の声が聞こえていない。久方が一人でわめいているようにしか見えないのだ。
でも、お前の問題を解決しないと、僕だって落ち着かないじゃないか。
成仏してないのはまだ何かあるってことだろ?
久方は心の中で文句を言った。しかし橋本はそれには答えなかった。久方は何も考えずに歩いていたため、気がついたら地下鉄の駅からは遠く離れた所に来てしまっていた。道路標識を見たら、はるか北側の住所が表示されていて驚いた。橋本の家があった場所からはだいぶ離れてしまっていた。いつのまにこんなに歩いたのだろう。
疲れたので入れる店を探したらマクドナルドを見つけた。『ここまで来てファーストフードか……』とげんなりしたが、かといって隣のラーメン店にも入る気はしなかったので、マクドナルドでコーヒーだけ頼んだ。家族連れや、パソコンを持ち込んで仕事しているサラリーマンがいた。みんなそれぞれの人生を生きている。しかし、久方は思う。自分のように、他人の過去の流れで道に迷っている人はどのくらいいるのだろうかと。
早紀に札幌にいると話して、今の状況を説明すると、
そこ、奈々子が昔お父さんと一緒に行ってたマックかもしれないです。車屋さんの隣で、昔はガラス張りのスペースにからくり花時計が置いてあったそうです。奈々子が今思い出して出てきちゃってうるさいんですよ。
確かに入口にはガラス張りの、妙に広い空間があった。あれはからくり花時計の跡だったのか。
思いがけず別な幽霊の思い出の地に足を踏み入れてしまったようだ。久方はコーヒーを飲み干し、ガラス張りの空間をしばし眺めて写真におさめてから外に出て、遠くなってしまった地下鉄の駅に向かって歩き出した。
おう、気が済んだか?もう帰るぞ。
マンションに戻ると、結城が嬉しそうに言った。しかし、
創成川に連れてけ。
と久方が言ったので、笑顔はすぐ消えた。
車停めるとこないからすぐ戻ってこいよ。
結城はそう言いながら、創成川沿いの公園に久方を降ろした。
奈々子さんが生きていた頃は、まだこの公園はなかった。久方は今はなくなってしまった昔の道を思い出そうとして川を眺めた。とても小さな川だ。自分がここで生まれたなんて不思議だ──待て。
自分がここで生まれた?
なぜそんな発想になったのだろう?何を想像してしまったんだろう?久方は頭を振って、その奇妙な空想を追い払おうとした。しかし、一度出てきたそのイメージは、なかなか頭からも、心からも、消え去ることはなかった。
そういえば、自分の本当の父親が誰なのか、考えたことがなかった。きっと存在していないのだろう。自分の能力で勝手に子供を作り出したか、あるいは──一番可能性が高いが考えたくないのは──てきとうに寝た相手の子供か。
きっと疲れてるんだ。
久方はそう思うことにして、すぐに車に戻った。
気が済んだ?
車を発進させながら、結城は尋ねた。
何も。また同じ問題を堂々巡りだ。
久方は答えた。
橋本は僕に自分の人生を生きろって言う。ぼくは、橋本にも未練を解消するために何かやってほしいと思う。
噛み合わないんだよ。
だったらお前は自分のことに集中すべきだな。
『サキ君』をいいかげん何とかしろよ。
結城が言った。
なんでそこでサキ君が出てくるのさ?
お前の幸福に関係ありそうなことだからだよ。
たぶんそれが幽霊が気にかけてることでもあるんじゃないの?
お前が自分の人生をつかもうとしてないことが。
久方が黙ると、結城はこうも言った。
一回、神戸に帰った方がいいよマジで。
ここを離れてみればわかるんじゃないの?
本当に自分がいるべき場所。
以後、車内は無言のまま2時間が過ぎ、研究所に戻ってからも、久方は一言もしゃべらなかった。早紀が来ていたのか、CDケースが何枚かと、ゴーフレットの缶が出しっぱなしになっていた。『佐加と一緒に来ました。ごちそうさまです』というメモが置いてあり、それを見た久方は目元を歪めた。
本来、自分は存在していないはずだった。
少なくとも、最近まではそう思っていた。
でも、今は。
久方は少し考えてから、神戸の母親に、
『夏頃に一度戻ろうと思うんだけど』
と言ってみた。
夏なんて言わず、今すぐ帰ってきてええよ。
いつでもいい。待ってる。
と言ってくれた。
久方は神戸の両親の優しさと、それを振り払って離れてしまったここ3、4年のことを考えた。もしかしたらそれは、やってはいけないことだったのかもしれない。でもあの時は本当に、自分を失いかけていたのだ。これは必要な時間だった──。
久方はそう思おうとしたが、罪悪感が消えたわけではなかった。やはり一度帰って、じかに会って謝った方がいい、そう思った。




