2017.6.5 1980年6月
橋本は、意外なほどクラスに溶け込んでいた。新道達以外のクラスメートとも二言三言言葉を交わすようになった。学校にも毎日来ていた。たまに嫌味を言ってくる先生はいたが、大きなトラブルは起きていなかった。
その反対に、初島は学校を休みがちになっていた。来ても、菜穂以外の子とは話そうとせず、クラスからも浮き始めていた。
「初島、大丈夫かな」
新道は心配していた。
「初島先生に聞いても何も教えてくれない」
お前に教えるわけがないだろう、と橋本は思った。新道はあいかわらず純真無垢で、今は担任の先生に夢中になっていた。森岡は人好きのする40代くらいの男で、メガネをかけていて、生徒に話しかけるのが好きだった。『テレビドラマに出てくる先生に似てる』とクラスメート達が言っていたが、橋本はテレビを見ないのでよく知らなかった。
「森岡先生はいい人だ」
菅谷も言った。橋本もそれは感じていた。森岡は今までの先生と違い、橋本の髪や休みがちな態度についてうるさく責めるようなことはしなかった。他の生徒と同じように、人懐っこく話しかけてきた。そして、話の内容からして、読書家であるようだった。
「俺、学校の先生になりたい」
新道はまたそう言った。
「だったら英語の勉強しろ。受験はどんどん近づいてきてるぞ」
菅谷が言うと、新道は一瞬すねた顔をしたが、大人しく問題集をやり始めた。三年生の6月だ。みんな大学受験に向けて勉強している。いい大学に行って、いい会社に入るために。
自分は?
社会に居場所など、ない。
勉強に夢中になっているクラスを見渡して、橋本はまた、自分だけが別な世界にいるような感覚にとらわれていた。
自分は何をしにここに来ているのだろう?
高校を卒業するため?でも高校の卒業証書が自分を救ってくれるとはどうしても思えない。赤い髪の人間を雇う会社など、この国にはないだろう。そもそも会社勤めが向いているとも思えない。人に指図されるのは大嫌いだ。でも、それでどうやって金を稼いで生きていく?
それに、初島のことも。
あの恐ろしい場面を見てしまって以来、初島のことが頭から離れない。
この世の不幸が自分達に集中している。
誰も助けず、誰も理解しない。
でも、それはなぜだ?
「橋本、ちょっと来い」
森岡先生が廊下から声をかけてきた。
「何か悩んでることでもあるの?落ち込んでいるようだけど」
「何でもありません」
いくら相手がいい人でも、あんな話はできない。
「ならいい。それより橋本、本当に進学しないの?成績はいいのに」
「しません。する意味がないので」
「意味がない?」
「うちは店やってるんで」
それが一番うまい言い訳だと思った。世の中に持っている不信や不安については、誰にも話したくなかった。
「そうか、そうだった。店を手伝ってるんだったな。偉いな」
森岡先生はそこで話を終え、他の生徒と話をしに行った。
教室に戻ると同時にチャイムが鳴った。みんなが一斉に席に戻った。飼いならされた犬のようだと思いながら、自分はわざとゆっくり歩いて席についた。座るのと同時に、先生が教室のドアを引いた。
帰り、新道が菅谷に捕まって居残りをさせられている頃、橋本はまた、初島医院の前と、初島の家の前をうろうろ歩き回っていた。
ここにまともな医者がいたら。
橋本は思った。
すぐに診てもらって、「頭がおかしい」という診断をもらって、世の中とおさらばできる自信があるんだが。
あの汚いクソオヤジに人の精神の何がわかるっていうんだ?おかげでこっちは毎晩変な夢にうなされて眠れないってのに。
夢と言うのは、あの日の光景がそのまま、見たままよみがえってくる夢だった。いろいろなパターンがあって、現実では逃げたのに、なぜか夢の中では逃げられず、初島の父親に捕まってしまう、あるいは、初島本人が追いかけてくることもあった。『違う!違うの!』と叫びながら。
橋本は頭を振って悪夢を追い払おうとした。
気がついたら、初島の家の前に立っていた。人の気配がしない。またドアの鍵が開けっ放しなんじゃないか。また中で恐ろしいことが起きているのではないか。そう思うと、いっそこの家に火でもつけてやろうかという悪い考えが浮かぶ。自分に菅谷みたいな火を操る能力があったら、あの日にそうしていただろう。それに──
考えていると、いきなり家のドアが開いた。橋本は慌てて背を向けて歩き出した。
「あんた、さっきからそこで何してるの?」
初島の声だった。橋本は立ち止まった。
「こないだ家に侵入してきたの、あんたね?」
初島が言った。橋本は何も答えなかった。
「私、わざと鍵を開けておいたのよ。そしたら、誰かが気づいて助けてくれるんじゃないかと思って」
初島は言った。
「入って」
橋本が振り向くと、初島はドアを押さえながら待っていた。
帰った方がいい。
逃げるべきだ。
頭の中で何かが叫んだが、橋本は家の中に入ってしまった。2階に案内され、この前ことが起きていたのとは別の部屋に案内された。初島の部屋のようだった。本棚には女性向けの本やマンガが並び、ベットの端にはぬいぐるみが置いてある。ごく普通の女の子の部屋だ。
「座って」
初島はベッドに座り、自分の隣を手で叩いた。橋本はぎこちなくそこに座った。ベッドは妙に柔らかい感触がして、体が少し沈んだ。
すると、初島は橋本の顔を手で触り、目を閉じて、キスしようとした。
「やめろ!」
橋本は手で初島を押しのけて身を引いた。
「なんで?」
初島は目を見開いて、小声でつぶやいた。
「なんで嫌がるの?男の子ってこういうことが好きなもんじゃないの?それに、私達は同じ人種でしょ?」
「どういう意味だよ?」
「闇の中で生きてるのよ」
初島は当然のことのように言った。
「あんたも私も『悪い子』なのよ。あんたは髪が赤くて、まともな人間として認められていないし、私は嘘つき。世の中に居場所なんてない。私達は仲間。暗闇に住む人間、そうでしょ?」
初島が意地の悪い顔をしながら、橋本の体をまさぐった。橋本は初島を突き飛ばしてベッドから離れた。
「てめえ!いい加減にしろよ!」
橋本は凄まじい声で叫んだ。
「誰が仲間だ!?お前を俺と一緒にするな!なんで俺と寝たなんて嘘をついたんだ!?本当にやってたのは──」
橋本はそこで言いよどんだ。事実は残酷すぎて口にするのもはばかられる。
「これ以上隠すんじゃねえよ。嘘はやめて本当のことを言え。行くぞ、話せないなら俺が──」
出ていこうとした橋本に、初島がつかみかかった。
「ダメよ!誰にも言ってはダメ!」
初島は凄まじい力で橋本の腕を握った。骨が折れそうだった。橋本が振りほどこうとして初島を見ると、顔には恐怖が張り付いていた。
「絶対、誰にも言わないって、約束するまで、離さないわ」
目つきは明らかに狂っていた。橋本は恐怖に襲われた。
「離せ!」
橋本は必死で逃げようとしたが、
「離さないわ!離さないわ!離さないわ!」
狂気の女はさらにつかむ力を強め、異常な声で叫んだ。2人とも大声を出してもめていたため、1階から近づいてくる人の足音に気がつかなかった。
突然、橋本は何者かにつかまれ、思い切り顔を殴られた。床に倒れ、ぐらぐらする頭を押さえながら起き上がろうとしたら、さらに数発殴られた。
初島の父親だった。
「出ていけ!」
初島医師は橋本の制服をつかみ、階段から突き落とした。それから、娘を罰するために部屋に入り、ドアを閉めた。橋本が踊り場で痛みにうめいていると、上から『違うわ!違うのよ!』と、いつか夢で聞いたのと同じような叫びが聞こえた。
ああ、あいつはまた嘘をつく。
また俺のせいにする気だ。
橋本は痛みを抑えながら立ち上がり、よろけながら家を出た。家に着くまでの間、通りすがりの人がみなぎょっとした顔で橋本を見た。みんな避けていくばかりで、誰も助けようとはしない。
これが、世の中だ。
本を読んでもわからない。
これが、現実に起きたことだ。
「おい、どうした?ケンカか?」
店に着くと、店主が驚いた顔をした。
「髪のせいだよ。いつものことだろ」
橋本はつぶやきながら部屋に戻った。殴られた場所が痛むので洗面所に行って鏡を見たら、顔に大きなあざかできて青黒くなっていた。
この日以降、橋本は学校に姿を現さなくなった。
そして、予想どおり、
「橋本が初島の家でエッチなことをしようとして、父親に見つかった」
という噂が流れ始めた。もちろん言いふらしたのは初島で、クラスの半分はそれを信じ、残り半分(新道、菅谷、菜穂の3人を含む)はそれを信じなかった。森岡先生が心配して橋本古書店を尋ねたり、電話をかけたりしたが、橋本は頑なに誰とも会おうとしなかった。




