2017.6.1 木曜日 研究所
6月。北海道が最も美しいと言われる季節だ。緑は燃え上がり、青い空はどこまでも高く(そういう歌詞の歌が実際札幌にある)、気温も暖かく過ごしやすい。自然だけを見れば、地上の楽園のようだ。
人とのいざこざがなければ──
ここ、学生のたまり場になってるって噂だけど、
どうなの?
久方の前にいるのは、奈良のとっつぁんだ。何やらいかめしい顔でやってきたかと思うと、『よくない噂を聞いたべ』と言ってこんな話を始めた。
なんか、女子高生がここに通って来てるって話だけど。
誰に聞いたんですか?そんな話。
カフェの勇気くん。
カフェの孫か!
久方はうめいた。嫌がらせだ!
違いますよ。確かに学生も来てますが、あくまで友達として来てるんです。保坂はピアノ習いに来てるだけだし。
ああ、秀はいいんだよ。いろいろ事情があっから。
でも女の子はどうよ?
あんたは人がいいから若い子にモテるんだろうが、与儀さんも入院中だし──
やはりこの男、自分を橋本と勘違いしているな。
久方はそれがわかっていたので、話の大半を聞き流そうとした。
ああ、外に出たいなあ、でも今日は雨の予報だ。
などと考えながら。
新橋って子は大変だったなあ。
とっつぁんが早紀の話を始めたので、久方は意識を話に戻した。
いや、あの子が悪いんじゃないのはわかってるよ。
それは町の人も知ってるさな。
でも今でもあのコメント気にして、カフェに来なくなったんだと。しかしネットっつうもんは怖いね。
いや、俺も実はyoutubeやってるんだけど。
えっ?
時計の修理の仕方を若者に教えてんのよ。
そうなんですか?
けっこう人気あんのよ。でもさぁ、内容と全く関係ないコメントが多いんだよなぁ。『このオヤジ話し方がおもしろい』とか『昭和のおじさんの見本みたいな人』とかさ。それ、どういう意味なの?
いや、どういう意味と言われましても。
俺は普通にしゃべってるつもりなんだけどよ、なんか言われるんだよ、『昭和』って。
もう少しナウい話し方した方がいいんだべか。
いや!あなたはそのままでいいと思いますよ!
理由は自分でも分からなかったが、久方は慌ててそう答えた。
でも『ナウい』は今は使いませんよ。
そうなの?
とっつあんはなんだか悲しげな顔をした。それから、パチンコの話を1時間くらい一方的にして、壁の割れ目を見て『そこのひび割れは直したほうがいいよ』と言って帰っていった。
時計を見ると、昼を大幅に過ぎていた。
久方がキッチンに行くと、結城が勝手に作り置きのグラタンを焼いて食べていた。
あのおっさん、何しに来たの?
学生がここに通ってるって噂を聞いて、確かめに。
今さら?もう1年かそれ以上は経ってんのに?
カフェの孫の嫌がらせだよ。わざと変な噂を流してる。
それより、サキ君がカフェに行けなくなってるのが気になるよ。カフェもコーヒーも好きなはずなのに。
そりゃ別れた元カレがいて、変な噂が流れてりゃ行きづらいに決まってるだろ?いいんだよ行かない方が。
お前はこっちに来てもらいたいんだろ?
久方は返事をせずに、自分のグラタンをオーブンに入れた。
にしてもあのとっつあんがyoutuberってすごいね。
結城がにやけた。
技術を持ってる人だからね。何でも修理できる。
いや、絶対技術よりキャラの方が立ってるもん。パチンコの解説でもさせた方が面白いんじゃないの?
さすがにそれは若者に教えられないでしょ。
久方が思っていたのは、せっかく知り合いが来たのに橋本が出てこないということだった。おかげで自分があのとっつあんの相手をすることになってしまった。今日は病院にも行かないらしい。
どうして?
久方は尋ねたが、返事は返ってこない。
3時過ぎ、珍しく、早紀と保坂が一緒にやってきた。仲良く一緒に入ってくるのを見て久方は少し不安になったが、保坂はすぐ2階へ行き、ガーシュインの新しい曲を鳴らし始めた。早紀はかま猫に寄っていって頭を撫でたりお尻を叩いたりして遊んでいた。かま猫も早紀に慣れていて、されるがままになっているようだ。
うらやましい──。
久方がかま猫をじっと見ていると、早紀が『どうかしましたか?』と言ってきたので、慌てて顔をそらせた。それから、『さっき奈良のとっつあんが来たよ』という話をした。でも、悪い噂の部分は省いた。
あのとっつあんは人気出そうですね。いかにも『田舎のいいおじさん』って感じですからね。奈良崎の話だと、町内で起きてることは何でも自分に関係があると思って、すぐ首を突っ込んじゃうらしいですよ。
ここに来るのは、橋本と友達だからだよ。きっとまた何か聞いたら教えに来るんだろうなあ。
久方は苦笑いした。
所長はyoutuberとかやらないんですか?
やらないよ。人前に出るの苦手だし話すことがない。
植物とか自然の話をすればいいじゃないですか。
自分は動画のせいであんなに傷ついただろうに、早紀はなぜこんなことを言うのだろう?
久方はそれが不思議だった。
そういうの向いてないから、いいよ。
雨が降ってる。草についた水滴でも写真に撮って来ようかな。
2人で外に出た。庭に植えたルピナスの葉の中心に、水滴が宝石のように集まっているのを写真に撮った。草原の草にも水滴がついて、わずかに射し込んでいる光に照らされて輝いている。雲は複雑な形を作りながら、早いスピードで移動していく。雨の後にしか見られない美しさ。
早紀はアメンボを見つけ、水たまりの横にしゃがんで、水面に小さな生き物が作る波をじっと見ていた。まるで子供のようだ。自分も子供の頃はあんなふうだっただろうか──
久方は思い出した。小さい頃、実際にそんなふうに雨の中で遊んだ記憶があると。しかし、自分が小さい頃は、あの人に閉じ込められていたはずではないか?神戸に行ってからか?いや、でも。
何もかもきれいですね。
早紀が言葉を発したので久方は現実に戻った。
でも私、今、全然違うことを考えてました。もし、あの2人に会わずに済んだら、普通に都会で暮らしててこんな田舎まで来なかっただろうなって。この町は好きだけど、私がここにいるのはいいことなんだろうかって。
せっかく目の前で自然が輝いてるのに、私は今ここに意識がなかったんです。ダメですよね、そういうの。
いいんだよ。そういうことがあっても。
久方は心の底から言った。
そうやって、考えながら進んでいくんだよ。
いろんなことの意味を考えながら。
生きてるってそういうことだよ。
それからアジサイを見に行き、今年はじめてのカタツムリを観測してから、2人は建物に戻った。結城と保坂が勝手にチョコレートを食べていた。
これ、賞味期限切れかかってっから、全部食うぞ。
結城が言った。テーブルにお菓子の箱が積み上がっていた。ここ数ヶ月、久方は食欲がなかったので、送られてきたお菓子に手を付けていなかったのだ。
こんなに送ってきてたんですか?
所長愛されてますねえ。
と早紀が言った。愛されているというより、愛し方がわからないからモノを送ってくるのでは?と久方は思ったが、すぐ考え直した。いや、神戸の母は本当に自分を心配してくれているのだ。あの人とは違う。
youtubeで話題になっている作曲家の話で、保坂達は盛り上がっていた。早紀も知っているようだった。久方は知らなかったので話の大半がよくわからなかったのだが、とりあえず早紀が楽しそうだったのでよかったと思った。
サキ君には、人と話す場所が必要なんだ。
久方は自分に言い聞かせた。
僕はそれを提供しているだけだ。
噂みたいな下心はない。
夕方になり、また平岸あかねが怒鳴り込んできた。保坂が『お前の声怖すぎる!』と言いながら出ていき、早紀もその後に続いた。コーヒーカップを片付けてから、久方はまた橋本に呼びかけた。
どうして今日は出てこないの?
お前の人生だからだよ。
すぐ返事が返ってきた。しかし姿は見えない。
でもあのとっつあんはお前の友達でしょ?
いいんだよ。
これ以上誤解されたらお前だって困るだろ。
誤解って何?
お前はパチンコなんかやらないし、あのおっさんのことも知らないだろ。
どういう意味?
本来俺は出てくるべきじゃなかったんだよ。
そろそろ──
まだそんなこと言ってるの?
久方は感情的な声で言った。
ねえ。今日あさみさんの所に行かなかったのもそのせいなの?ダメだよ。自分の都合で、せっかく知り合った人を遠ざけちゃ。
もうわかってるんだろ?
僕らはもう一心同体みたいなものだから、
お前が救われないと、僕も救われないんだ。
ねえ?聞こえてる?聞いてんだろ?
久方は声を張り上げたが、橋本はいなくなってしまった。
ざあっと、雨の音が強まったかと思うと、それに合わせるかのように、なぜか、ブラームスのピアノ協奏曲のピアノのパートだけが天井から響き始めた。架空の楽団との共演でも夢見ているのか。
橋本をなんとかしなければならない。
久方は思った。仲のよさそうな人に片っ端から会ってみようかと思った。一番に思いついたのは、ヨギナミだ。




