2017.5.31 水曜日 サキの日記
朝方、昔のことが夢に出てきてうなされた。畠山や、ノノバンや、『最後まで行かなくてよかったじゃない』などと片付けようとした医者、『行為が最後まで行ってないから大したことないじゃないか』と言ってきた自助グループの女。
なんで私が苦しまなきゃいけないんだ。悪いのはあいつらなのに。畠山が捕まったってバカが言ってたけど、未成年だからどうせすぐ出てきてしまう。ノノバンはどこにいるかわからない。また出会ってしまったらどうしたらいい?私はずっとこういうことに、新しい毎日を奪われて生きていくの?
朝、ずっとそんなことばかり考えて部屋の中をうろうろしていた。落ち着かなかった。そのうちあかねが『朝ごはん食べないの!?』と怒鳴りに来たので『いらない!』と怒鳴り返したら『マジ?なんで?どうしたの?』とめっちゃ驚かれた。
そしたらそこで、奈々子に体を乗っ取られた。
奈々子は『やっぱり食べる!』と叫んで平岸家に行き、アジの開き定食をおいしそうにたいらげ、また『おいしい!』を連発して平岸ママを喜ばせた。修平が気づいて小声で、
なんで出てきちゃったんですか?
と尋ねた。
サキが落ち込んでたから。不安と考え事で頭がいっぱいで何も手につかなくなってるから私が代わりに学校へ行こうと思って!
奈々子は妙に嬉しそうだった。私はびっくりして、慌てて体に戻ろうとしたんだけどできなかった。すぐ近くに浮いて、奈々子がごはんを食べ、平岸ママからお弁当を受け取り、制服に着替えて出ていくのをただ見ていた。
奈々子は道の真ん中で足を止め、
いつ見てもきれいな景色。
とつぶやいた。学校までの道はずっと草原で、遠くに山と町が見える。空は青い。
雲が天使みたいな形してる。
どうでもいいことをつぶやいてから、奈々子は歩き始めた。ヨギナミが後を追ってきて奈々子に話しかけた。『教科書ちゃんと持ってきた?』みたいなことを。奈々子は、時間割はわかっているし、私が前の日にバッグの中身をちゃんと用意してるから大丈夫だと言った。
私は並んで歩く2人を少し離れた所から見ていた。傍目で見る自分は、やっぱり豚まんにそっくりだった。父親似だとよく言われる。女優の母に似たらよかったのにと思う。でも、妙子に似ても怖いだけか。
親のことを思い出した。娘が幽霊に乗っ取られてるのに助けに来ないで仕事してるバカと妙子。私は昔から、この2人は芸能人だからいなくても仕方ないと思っていた。でも本当にそうなんだろうか?
なんだか泣きたくなってきた。でも体がないから泣けない。
学校に着くと、奈々子は玄関をじっくりと見回した。まるではじめて来た場所みたいに。それから、すぐ教室には行かず、朝のHRが始まるギリギリまで、校舎の中を歩き回っていた。ヨギナミが心配してずっとついてきたけど、『この部屋は何?』みたいなこと以外には何も話してなかった。
それから、私のフリをして授業を受けていた。ただ、何を思ったのか、スマコンに、
今日、天使の形の雲を見た。
と話しかけていた。スマコンは、
それは天があなたを祝福しているサインよ。
と言った。何が祝福だ、奈々子は幽霊なのに。
私は教室のみんなの様子を見ていた。奈良崎はいつもどおり寝てる。でもたまに伊藤ちゃんの方を見ている。佐加は英語以外真面目に聞いてない。あかねはあからさまにつまらなさそうな様子で頬杖をついていて、勇気は教科書を見るフリして机の下のスマホを見てる。
保坂はパソコンに板書してるけど、たまに関係ないアプリとかサイト開いてて、そのたびにスマコンが感づいてペンで突っついてる。修平は隣の伊藤ちゃんを時々悩ましい顔で見ていて、悪いけどなんかウケる。伊藤ちゃんは先生の方と自分の手元を交互に見ていて、授業に集中しているみたいだ。ヨギナミ、杉浦、藤木も真面目にノート取ってる。
奈々子は──なんか、授業を見ているのか遠くを見ているのかよくわかんない表情をしていた。私の顔で。なんかマヌケだからやめてほしいんですけど。
昼休みが始まるとすぐ、クラス全員が私(奈々子)のまわりに集まってきた。
サキはどこに行った?
まず勇気が尋ねた。
大丈夫、みんなの後ろにいるから。
奈々子が言うと、何人かがあたりを見回した。スマコンが私と目が合ってにっこり微笑んだのでびっくりした。
みんな、まずお弁当を食べましょうよ。
私これすごく楽しみにしてたんだから。
奈々子はのんきに笑いながらお弁当を取り出した。
食うの好きだなこいつ。
すると、みんなとまどった顔で自分の席に戻った。しかし、スマコンは私に近づいてきた。奈々子が乗っ取ってる体ではなく、浮かんでる私の方に。
お弁当だけ譲ってあげたら、戻りなさいな。
スマコンが言った。保坂がスマホでこっちを撮ってるのが見えた。
戻るってどうやって?
私は言った。すると聞こえたらしく、
わたくしがハイヤーセルフから聞いた情報によると、あなたは過去のことで動揺して自分の軸がブレたのよ。
自分を取り戻しなさいな。
スマコンはそれだけ言って自分の席に戻って、お弁当を食べ始めた。意味がわからない。でも、私の話が聞こえることがわかったので、スマコンの隣に行って、今朝見た悪い夢みたいなのの話をした。
そうよ、わかっているじゃない。
過去は悪い夢のようなもの。現在には存在しない。
スマコンはそう言ってからエビフライをかじった。のんきすぎて腹が立ってきた。
さっきから何を一人でブツブツしゃべっているのかね?
杉浦が怪訝な顔で言った。
今霊と交信中だから邪魔すんな。
なぜか保坂が言い、奈良崎が『おぉ〜!』と叫んで笑った。第2グループ、スマコンのオカルトに慣れてるな。でも私も本当だと思ってなかったからびっくり。
私がスマコンと話してる隙に、佐加が奈々子の近くに行って90年代の音楽について話していた。小室哲哉がどうとか、Coccoは歌詞がエグいけど最高とか、そんな話を。
あなたの体験がいかに辛いか、わたくしに『わかる』とは言えないわ。でもこれだけは言えるわね。あなたが過去にとらわれるほど、未来がそれに染まっていく。あなたが言うように『新しい毎日が汚染されていく』。
まずは昔のことを思い出さない時間を増やしなさいな。
でも自分でもどうして思い出すかわからないんだって!
この学校に来るまで忘れてたのに。
『学校』で事件が起きたからでしょうね。それと『同い年の男の子』に接したから。不登校になってる間は学校にも行かずに済んだし、男子に会うこともなかった。記憶のトリガーが少ない状態で逃げていられた。
でも、今は違うわね。
ねえ、聞いておきたいんだけど、このクラスの男子が、同じことをしそうな人達に見える?
スマコンはわざと大きな声で言った。全員がこっちを見ていた。奈々子すらも。
このクラスの女子が、ノノ何とかさんみたいに残酷に見える?
スマコンがまた言った。
見えない。
私は言った。
そうよ、だってあなたは前とは違う場所で、全く違う人と一緒にいるんだもの。
スマコンは優雅に笑った。それから、奈々子の方を向いて、
お弁当はおいしかったようね。
と言った。私の顔が変な笑い方をした。
すると、急に、目の前に佐加が出てきた。
私はいつの間にか、自分の席に座っていた。隣の杉浦を見ると、私に気づいたのか、
僕が紳士なのは知っているだろう?
と言って笑った。ウケる。思わず笑ってしまった。藤木が来て杉浦の頭を軽く叩いていった。『何が紳士だ』と言いたかったのだろう。
今度は女子全員が近づいてきて一斉に何かしゃべろうとしたけど、チャイムが鳴ってしまった。数学の授業も眠くならなかった。それどころか、自分の体で授業受けられるのがこんなに嬉しくなるとは思わなかった。
休み時間に、廊下でちょっと体操して体の感覚を確かめてたら、佐加が近づいてきて、動画で見たダンスを始めた。一緒に踊ってたらヨギナミとあかねが加わってきた。いつの間にか勇気が動画を撮りに来ていた。チャイムが鳴ると同時に先生が来て『何してんだ』と呆れた。帰りに『さっきの動画欲しい』って言ったら勇気はすぐ送ってくれた。
勇気、やっぱり私のこと本気で心配してたな、さっき。
別れるべきじゃなかったかな。
帰り、佐加が平岸家までついてきた。平岸ママはクイニーアマンを焼いていた。私は幽霊体験をなるべくおもしろく──本当は怖かったけど──みんなに話して聞かせた。平岸ママは『全然気づかなかった』と言い、あかねが、
ママの料理をおいしいって言うのは幽霊だけよ。
すぐわかるでしょ?
と意地悪く言ったので、平岸ママがすねてしまい、私と佐加は慌ててフォローしなきゃいけなくなった。
スマコンって、ほんとにそっち系の能力あるんだね。
と言ったら、佐加がすごく嫌そうな顔をして『認めたくねえ』と言った。あかねは逆におもしろいと思ったらしい。いや、いつもの妄想のトリガーが引かれた。
霊能力を持った美少年が『恋がしたい』という未練を持つ美青年の幽霊と出会い、心も体も奪われて熱い関係に──
全く笑えない。佐加が食べかけのクイニーアマンであかねの口をふさいだため、この話は中断された。
みんなが帰ってから奈々子が出てきて、
ごめんね、あんなに長く乗っ取る気なかった。
と、いかにもすまなさそうな顔をしながら出てきやがった。『そんなにお弁当食べたかったの?』と冗談のつもりで聞いたら、
だって毎日すごく凝ってておいしそうなんだもん!
と、あっさり認めた。私がずっこけていると、
でも、あなたは本当に、
昔のことはもう考えない方がいいよ。
と言って消えた。
スマコンがさっき言ってたっけ、『あなたは違う場所で、全く違う人といる』って。でも私の体が覚えてるんだ、何もかも。
どうしたら思い出さないで済むんだろう?なんて考えたら、逆に思い出してしまう。だけど、今朝のような不安や怒りは、今は感じない。
クラスのみんなが一斉に集まってくれたのを思い出した。みんな私を心配してくれてるんだ。それは何か、恥ずかしいけど、嬉しい。
所長に今日起きたことをものすごい長文メールで伝えた。すると、LINEに返事が来た。
大人になると記憶が増えるから、昔を思い出してどうしようもなくなることはあるんだ、誰にでも。
それも人生の一部なんだよ。対処しながらやっていくしかない。
でもまだ、サキ君はこれからが長いから、楽しいこともたくさんあるよ。
自分はお年寄りみたいな言い方するな、所長。まだ20代。いや、30代だっけ?まだ若い方のはずなのに。
考え事半分で集中せずに宿題やってたら、歴史のノートに『私が知ってる歴史と違う』と落書きしてあるのを発見した。そりゃ変わるだろ、18年も経ったら。
消そうかどうか迷ったけどそのままにしておいて、他に何か書かれてないか探してたらヨギナミが来た。なぜかお店の栗を持ってきた。『今日、大変だったでしょ?』って。2人で食べてたら『食いもんの気配がする』とカッパまで来たので、ちょっとだけ分けてやったけどもちろん部屋には入れなかった。
ヨギナミは『お母さんが怒鳴る夢を見たり、きついことを言われたのを思い出して気分が悪くなることがある』という話をした。そういう時は、なるべく家事とか家の片付けをして忙しくして、仕事に集中して、何も考えないようにするのがいいんだそうだ。
ヨギナミが帰ってから私は部屋を見回した。本や、衝動買いしたコスメや、なんで買ったかわからない美容グッズが床に散らばってる。本棚からはとりあえず突っ込んでたらたまっちゃったプリントが雑にはみ出してる。あまり使ってないキッチンにも水垢がついてる。
掃除した方がいいな。
私は夜の0時まで、部屋を片付けた。美容グッズの写真を撮り、ネットで売るものを分けてたら、佐加にあげた方がいいかなと思って聞いてみたら、まだ起きててすぐ『右のやつ欲しい』と言ってきたので、それだけバッグに入れて、あとはヤフオクと、最近話題のフリマアプリに試しに出してみることにした。チークはすぐに売れた。瞬殺だったので急すぎてびっくりした。明日郵便局に行かないと。
包むものを探していたとき、ふと思った。
奈々子、わざとやったんじゃないだろうか。
みんなに心配させるために。私に『まだ生きていて、みんなが心配してる』ってことを教えるために。私の気持ちを辛い過去からそらすために。
そうなの?
私は空中に向かって尋ねた。でも返事はなかった。なので、チークを梱包してバッグに入れてから、私は本の片付けを始めた。




