2017.5.30 火曜日 ヨギナミ
授業中、ヨギナミは迷っていた。今日は杉浦が塾を開催する。行こうと思っているが、それだとおっさんに会えない。たぶんカフェに来るだろう。早めに連絡しておいた方がいいだろうか。
でも、杉浦は私のこと好きじゃないし。
とも思うが、
何考えてるの?勉強しに行くんでしょう?
公務員試験のために。
と、ヨギナミは悩んでいた。
昼休みにメールをしてみたら、『「俺はいいからちゃんと勉強しろ」と橋本が言ってる』と、所長から返事が来た。
うちが代わりにカフェ行ってあげる!
佐加がはりきって言った。早紀も誘っていたが『まだ気まずいから行かない』と言っていた。youtubeのコメントのことをまだ気にしているらしい。かわいそうだなとヨギナミは思った。
一度アパートに帰り、思いつきで保坂にもらった古いノートパソコンを持って、杉浦の家に向かった。杉浦は期待どおり、勉強に使えるサイトやアプリを教えてくれた。高条も来ていて、有名な塾講師の動画をいくつか紹介してくれた。
ヨギナミさ〜。
高谷が小声で話しかけてきた。
橋本ならなんか昔の話聞いてる?
ヨギナミはそれで思い出した。『父親に暴力を振るわれていた』という話を。しかし、高谷にそんな話をしていいのだろうか?
サキには絶対言わないって約束してくれる?
ヨギナミが言うと、高谷はうなずいた。
ちょっと来て。
ヨギナミは高谷を廊下に連れ出した。廊下もあいかわらず両方の壁が全て本棚で覆われ、薄暗い中に古い電灯だけがぽつんと光っている。
おっさんね、初島って人が、あの、父親に、
ヨギナミが口ごもると、
虐待の現場を見た?
高谷は言った。ヨギナミは驚いた。
やっぱり!先生が言ったとおりだった!
高谷が興奮した様子で足を鳴らしながら飛び上がった。
知ってたの?
え?ああ、先生に聞いてた。
でも話しにくい内容だから。
知ってるんならなんで教えてくれないの!?
ヨギナミが怒り出した。高谷は慌てた。
いや、ほら、女の子に聞かせるには辛すぎる話だし、
普通に話題にできる内容じゃないでしょ?
そうだけど──
君たち、廊下で騒ぐのはやめたまえ。
杉浦が出てきた。
いいかね、この家は古く、壁は薄い。
君たちの話は筒抜けなのだよ。
潔く中に戻りたまえ。
ヨギナミと高谷はしぶしぶ中に戻った。しばらく、4人とも勉強するふりをしていたが、みんな沈黙を気まずく感じていた。
20分ほど経ってから、
腹減った。なんか食うもんないの?
うちからクッキー取ってくればよかった。
と高条が言った。
店の商品を盗むのはやめたまえ。
母さんが衝動買いしたバームクーヘンがあるはずだ。
取ってくる。
杉浦が出ていった。
やっぱり初島と何かあんのかな。
高谷がひとり言のように言い出した。
好きだったとか?本当に体の関係があったとか?
やめてよそんな話。
ヨギナミは、おっさんとその女の人がそういう関係だとは思いたくなかった。ただ、重大なことが起きているのを知ってショックを受けただけだろうと思った。それから、『父親』と勝手に名乗っている保坂典人を思い出して気分が悪くなった。あの男も時々、自分のことを、母を見るのと同じ目で見る──汚い欲望の目で──思い出すだけでぞっとする。もう出てこないといいのだが。
お前の先生は最近どうなってんの?
また見張りに行ってんの?
高条が高谷に尋ねた。
いや、俺が体調崩したからずっとつきっきりですよ?
今も後ろにいるけど?
高谷が投げやりな調子で言った。ヨギナミは高谷の後ろを見たが、本棚しか見えなかった。
あのさ、そのおっさんとか新橋のことは置いといて、お前の幽霊をなんとかしたいいんじゃない?人のことばっか考えてないで、自分の問題に集中した方がよくない?
高条が言った。ヨギナミもうなずいた。
でも先生が何に未練があるって、あの2人だからさ〜。
高谷は言いながら頭を引っかいた。
おっさんの未練ってそもそも何なのかな?
うちのお母さん?
いや、俺は久方さんがヘタレすぎるからだと思う。
高条が言った。『ヘタレって』高谷が苦笑いした。
あの人、他人に依存しすぎなんじゃないの?結城とかいう人に、サキに、その幽霊でしょ?
俺カフェで幽霊によく会うけど、あっちの方がしっかり生きてる大人って感じするもん。
久方さんはいかにも弱っちくてさあ。
お前はサキを取られたのが気に入らないだけだろ。
高谷が言った。
高条くんはまだ新橋さんに未練があるようだねえ。
杉浦がニヤニヤしながら戻ってきて、小さなバウムクーヘンをみんなに二袋づつ配った。高条は嫌そうな顔をしながら袋を開け、バウムクーヘンにかじりついた。
みんな、幽霊に同情するのもいいが、我々には受験という大きな難関がある。まず自分の人生のために勉強したまえ。他人に同情するのはその後だ。
杉浦は偉そうに言ってから、世界史の教科書を読み始めた。
帰り、ヨギナミが駅前通りを歩いていると、高条が追いかけてきた。
これ、パソコンで見れるから。
と、USBメモリを渡された。
これ、何?
日曜に『おっさん』がカフェに来たから、動画を撮った。
高条が言った。
けっこうヤバい話してたよ。じゃね。
高条は走ってカフェに戻っていった。ヨギナミは手元の小さな物体をしばらく眺めてから、ポケットにしまい、歩き出した。
あいつの家に行ったら、玄関の鍵が開いてたんだよ。
おっさんが松井マスターと話していた。
そしたら、あいつが父親に殴られてるのが見えた。
おっさんは頭を抱えた。
俺はその後ずっと、あの光景が頭から離れなかった。何をしてもだめだ。学校へ行っても本を読んでも。
俺はそれまで本の世界にこもって暮らしていた。でも、何も知らなかったんだって思い知らされたよ。いくら本を探しても、どうしたらいいかなんてどこにも書いてない。人にも話せないし──
警察に行くべきだったわね。
松井マスターが静かに言った。
でもよ、俺の言うことなんて誰も信じないんだよ。
それでも言うべきだったのよ。
松井マスターはさらに年を押した。
でも俺は言えなかった。
おっさんが弱々しい声で言った。
その後に続く面倒なことが怖かった。ただでさえ髪が赤くて人に目をつけられてるってのに、『嘘を言いふらしている』と言われるかもしれない。それこそ、初島みたいにな。俺はそうなりたくなかった。
そうだよ。俺は本当は初島を軽蔑していた。
嘘つきだと思ってたんだ。
だから同じように扱われるのが嫌だったんだよ。
俺は卑怯だった。悪いのは初島じゃない。
その後、どうなったの?
俺は初島を止めようとした。どうしたらいいかずっと考えてた。
だけどそのうち、世の中の全てが嫌になってきて──
タイミング悪く、そこで、
よぉ〜久しぶりだなァ!
奈良のとっつあんが出現してしまった。
おう、どうした?顔色が悪いなァ。
こういう時こそパチンコで玉をパーッと大放出させねえとよォ!
とっつあんはコーヒーを飲みながらよく当たるパチンコ台の話をし、勢いでおっさんを連れて店を出てしまった。
動画はそこで終わっていた。
世の中の全てが嫌になってきて──
それで死んだの?でも、なぜ?
高谷に聞いてみても、
死んだ日に何が起きたかは、先生も知らないんだ。
という返事が来た。
でも、橋本が人間不信なのはよくわかった。
『どうせ俺の言うことなんか誰も信じない』
って思いながらずっと生きてたんだろ?
ろくな人生じゃないよね。
とも。
お母さんと同じだ、とヨギナミは思った。
『私の言うことなんて町の人は信じない』
それは与儀あさみの態度そのものだった。
実際、町の人は母を軽蔑していた。
そうやって孤立していったのだ、2人とも。
悲しすぎる。
ヨギナミはしばらく感傷に浸っていたが、あかねの『夕飯食べるの!?食べないの!?』という怒鳴り声で我に返った。




