2015.11.8 研究所
助手は一階の時計を見ながら、苛立ちをむき出しにして部屋の中を歩き回っていた。
久方は昼頃に『卵を買いに行く』と言って出ていった。
今、夜の8時だか、まだ帰ってきていない。
スマホにかけても出ない。
探しに行くわけにもいかないしな……。
近所に『久方を見なかったか』と聞きに行くと、この町では騒ぎになってしまう。しかし、山の中で道に迷われて遭難されても困る。
もっと困るのは、『もう一人』に乗っ取られたまま町を出てしまうことだが、今までそういうことはなかった。ただ、別人のまま町民と話されるとあとが面倒だ。なにせ本人は常に『何も覚えていない』から。
玄関から足音がした。
助手が廊下に飛び出すと、そこには疲れきった顔の久方がいて、こちらに気づいた瞬間に全身をビクッと震わせた。手には卵のパックが入った袋を提げている。
卵買うのにどこまで行ってんだよ!?旭川か!?
助手はふざけたような声で叫んだ。本当は怒鳴り散らしたいくらいだが、今はまずい。
久方は何も答えず、助手の方も見ずに横を通りすぎると、キッチンにかけこんだ。目を合わせようとしない。
ま、いいか。
とりあえず本人が戻ってきたし。
助手は2階に戻ることにした。これから華々しくピアノでも弾こうと思いながら。そうでもしないと気分は晴れない。こういう出来事にはもう慣れているが、だからと言って平気には、いつまでもなれなかった。
久方はというと、一人、キッチンで震え上がっていた。
助手が怖いからではない。
日中自分がどこにいたか、
全く思い出せなかったからだ。
気がついたらあたりは真っ暗で、
駅前のコンビニの近くに立っていた。
歩いて8時間かかる?
あり得ない!
ポケットに入れたスマホが振動していた。手が震えてうまく操作できない。知らない番号からだ。
ヨギナミです。
意外な人の声がした。スマホの番号を教えた記憶はないのに。
久方さん。うちに帽子忘れたでしょ。
久方は慌てて頭に手を当てた。確かに帽子がない。
明日学校行くときに持っていきますね。
何がなんだかさっぱりわからないが、とりあえずごめんと言った。
僕、与儀さんの家で何してたっけ?
言ってから変な質問だと思ったが、実際覚えてないから仕方がない。
僕……?えーと、
ヨギナミは口ごもっていた。なにかまずい事でもしたのだろうか?
枯れ草を刈り取るの、手伝ってくれましたよね?
そう。じゃあ明日。
慌てて通話を切った。うかつに話すとぼろが出そうだ。体が異常に疲れてる理由もわかった。なぜか腕がひきつるように痛いのも。卵しか持った記憶がないのに。
一体何をしてるんだ……。
天井からピアノの音が聞こえる。ラヴェルのトッカータ。クープランの墓。
曲に文句を言う余裕は、今の久方にはなかった。
ただ、震えがおさまるのを、キッチンの床に座り込んでじっと待っていた。どんなに悩んだところで今はそれしかできることはない。それは本人が一番よく知っていた。
何も知らないポット君は、いつも通りの機嫌の良い表情で、床に座り込んでいる持ち主を見守っていた。




