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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年5月

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2017.5.29 月曜日 サキの日記

 カッパが朝からはしゃいでてうるさい。久しぶりの学校が嬉しいらしい。私は数学の宿題忘れてたことに気づいて慌てた。朝、ヨギナミにノートを見せてもらった。ヨギナミはバイトしててもちゃんと宿題やってる。私は何をやってるんだろう。

 今日、私は研究所でパニックを起こしかけた。

 しばらく行かないって言ってたのに、気がついたら林の道を歩いていた。所長は普通に歓迎してくれた。

 所長が初島に会った話をした時、私は急に息が苦しくなって、ものすごい動悸がした。狂ったように笑う初島、父親に殴られ続けた女の子、それから私自身の、襲われた時のイメージや、ノノバンに見せられた気味の悪い画像とか、とにかく怖くて汚いイメージが一瞬のうちにあふれ出てきた。その勢いがあまりにも強くて、私自身が押し流されてしまいそうになった。叫びたい、怖くてじっとしていられない。

 私はうろうろ歩いてからソファーに座って、震えが止まるのを待った。所長は水を持ってきてくれた。


 ごめん。こんな話するべきじゃなかった。


 と言った。でも、知りたがったのは私だ。

 初島がおかしくなった理由がわかった。

 でも、それは『なぜ橋本を呼び戻さなきゃいけないか』の答えにはならない。

 とにかく恐ろしい話だ。一度だけでも人生を破壊されるのに、それがよりによって父親の手で何度も繰り返し行われていたら?正気でいるのは難しいだろう。なぜ警察に言わなかったんだろう。当時ってそんなに遅れてた?

 だけど、どこかで聞いたことがある。家の中で虐待が起きても、子供達は話したがらないと。親をかばってしまうと。でも、日本には犯人蔵匿罪というのがあって、犯人をかばうことは許されないはず。たとえ家族でも。

 ついでに今まで本やニュースで見聞きした性犯罪の話まで思い出してしまった。震えは30分で治まったけど、連想ゲームのように出てきた怖い話に、私はしばらく悩まされ続けた。

 男には絶対にわからないだろう。こういう話を見聞きするだけで私達は全身に恐怖が走る。

 私は思い出す限り訳わかんない話をしてしまい、所長に迷惑をかけてしまった。でも所長は逆に、


 サキ君が動揺しているのを見て、

 あの人の悲しみが少しわかった気がするよ。


 と言った。


 だからって、僕にしたことが許される訳じゃないけど。


 所長は窓辺に行って外を見た。今日は晴れていて、気温も7月並に高かった。


 夏だね。


 所長が笑って言った。


 外に出ようと思うんだけど、

 サキ君、調子はもう大丈夫?


 私は大丈夫だと言った。一緒に外に出た。なぜかポット君もついてきた。いつの間に用意したのか、アンテナが出る穴つきの麦わら帽子をかぶってきた。かわいくて笑えるので写真撮った。青空の下、草原で麦わら帽子のロボット。古いのか未来っぽいのかよくわかんない一枚になった。後でバカと妙子に送ったら『農協のCMみたい』と言われた。

 所長も同じような帽子をかぶっていて(麦わら帽子って言うと『違う、これはカンカン帽だ』と必ず訂正される)、やっぱり草原に似合いすぎる姿をしていた。私はこっそり所長の写真も撮った。本人は嫌がるだろうけど、この景色の中にいる所長はやっぱり、この世のあらゆる純粋なものを象徴しているように見えてしまう。あの、狂った女がこんな子を生み出したなんて信じられない。

 イメージ、イメージ。

 本当の所長は普通の男の人だ。きっと性欲だって普通にあるだろう。でもそれを全く感じさせないのだ。なぜだろう?

 純粋じゃない私がそんなことを考えていると、所長が草むらにしゃがんで『アリの巣があるな』と言った。濃い茶色の、思ってたよりずっと大きなアリ達が集まって、巣穴に向かって大きな何かの実を運んでいた。アリに迷いはない。とにかく食べ物を探して巣に持ち帰り続ける。

 迷うのは人間だけだ。それはなぜだろう?

 

 たぶん、よりよいものを探そうとするからじゃないかな。

 それか、間違った道を避けるためか。


 所長は言った。


 でも、無駄な迷いっていうのもあるよね。

 僕は自分が存在していいのか、ずっと迷ってた。

 でも最近、その迷いはなくなってきた。

 だって、どうしたって僕は、ここに存在しているもの。


 歩いているうちに、森に近づいてきた。モノクロじゃない本物の森。あの大木を目指してるなって、すぐわかった。ほとんど道になってないような場所を、丈の高い草をかき分けて進み──本当はクマが出るから来るなって言われてるんだけど──私達は大木の根本に着いた。前に来た時より大きく感じた。土から出ている根のごつごつした節に触ると、特別な能力とかなくても生命力を感じる。

 所長は大きな木の幹に手のひらをつけて、上を見上げていた。私も少し離れた所で真似した。大木の大きさが、そのまま空をつかみ、私達を天空までいざなってくれるような気がした。そこにはレイプ話も汚いポルノも、性別すらきっとない世界がある。空は少し雲があるだけ。森の中からはあまり見えないんだけど、それでも私は大木を通して空を感じた。

 しばらくそこにいたと思うけど、

 

 ガサッ。


 近くで音がした。私も所長も、木から離れてあたりを見回した。

 もしかしてクマ?

 だったらヤバい。

 今日人生終わるかも!


 ガサガサッ。


 音が近づいてきた。


 なんだおめえら、危ないじゃねえかこんなとこほっつき歩きやがってよォ。


 それは、猟銃を持った奈良のとっつぁんと、猟友会のおじいさん達だった。向こうは私達をクマだと思って銃を構えていたらしい。ヤバかった。間違って撃たれる所だった。

 それから私達は猟友会の人に町の事務所まで強制連行され、『あんなとこ行っちゃダメだべや。クマ出たらどうすんの?』と怒られた。かわいそうだったのは所長が、


 学生をあんなとこ連れてったらダメだぁ。

 何かあったら親御さんにどう説明すんのよ?

 責任取れねえべや。


 とさんざん怒られていたことだ。違うんです。私が落ち込んでいたから所長は元気づけようとしただけなんです!と私は言ったが、さすがに性犯罪や暴力の話を、この純真そうなクマ狩りのおじいさん達にはできないと思った。

 話は平岸家にも伝わり、平岸パパが車で迎えに来た。所長が誤解されては困るので懸命に言い訳をしたが、平岸パパは『アッハッハ!』と笑うだけだった。それから、山菜やキノコを取りに行ったおばあさんが、未だにあの猟友会とケンカしているという話をしてくれた。


 山に行くのが当たり前の人にとっては『クマが出るから行くな』なんて言葉は『そりゃ出るでしょ、山だもん』くらいにしか聞こえてないんだよ。昔の人は特にそうだ。今ほど安全じゃないのが当たり前だったんだ。


 安全じゃないのが当たり前。

 初島の時代もそうだったのか。今から30年、いや、40年近く前、女性の権利も今ほどなくセクハラが当たり前だった時代。


 夕食はとんかつだった。3枚食べた。

 私は恵まれている。

 

 部屋に戻って勉強しながら、大木と青空のことを考えた。所長から聞いた話が衝撃的だったので、嫌な感じはまだ私の中でくすぶっていた。でも、あの青空は、そんなものを全て遮断、いや、吸収してくれるような気がした。

 すうっと溶けていくように、空へ。





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