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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年5月

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2017.5.25 木曜日 研究所


 サキ君が来ない。


 朝、目を覚ました瞬間、久方はまた呪詛を唱えた。そして、タオルケットの中に逃げ込んで現実逃避しようとした。しかし、6時にはいつもどおりピアノ攻撃が始まった。


 今日は起きてやらないぞ。お前のせいなんだからな!


 と、しばらくがんばっていたが、ピアノの音があまりにもうるさいので、結局、いつもどおり、着替えを持って1階に逃げ出した。



 お前、奈々子をどうする気だ?


 病院の帰り、おっさん、つまり橋本が結城に尋ねた。


 別にどうもしない。


 結城が答えた。


 どうもしないで済むか?このままほっといたら、そのうちまずいことが起きるぞ。たまには話してやれよ。


 橋本はそう言ったが、結城は黙って車を運転し続けた。





 学校で風邪流行ってるんすよ。


 3時頃来た保坂が言った。


 昨日はヨギナミが休みで、高谷は入院しちゃったし、今日は佐加と藤木が仲良く休んでるんすよ。高谷さっきやっと連絡取れて、まだ熱下がってないって言ってました。


 それは心配だね。ごめん。たぶん僕のせいだ。


 なんで所長のせいなんすか?関係ないですって。


 保坂は笑いながら2階へ行き、またガーシュインが鳴り出した。ずっとガーシュインの曲ばかりやっているが、もしかして全曲制覇するつもりなのだろうか。


 だから言っただろ?

 自分を大事にしないと他人も傷つけるんだぞ。


 橋本の声が聞こえた。


 雨の中でボーッとつっ立ってるからこうなるんだぞ。


 お前に言われたくないな!


 久方は声を張り上げた。


 お前が自分を大事にしているとは思えない。


 声は黙った。

 早紀から『今日も保坂来てます?』と言ってきたので『いつもどおりガーシュインだよ』と答えると、それっきり何も言ってこなくなった。久方はしばらく画面を見つめた後、ため息をついて、散歩に出かけることにした。

 空は薄い曇りで、太陽の光が薄いベールを透かして、かすかに地上を照らしていた。いつもより優しげな光だ。久方はそのかすかな光の中を歩いていった。

 平岸家を訪ねようかと思ったが、やめて、畑の道を抜けて草原を歩いた。風で緑が揺れ、音を立てる。立ち止まって風の感触と、草の音に耳をすませる。他には何もない。完璧な音だ。ピアノなんか必要ない。

 久方はしばらく、風と草の中にいた。すると、草原と空は色彩を、久方は感覚を徐々に失い、気がつくとあたりは、モノクロの森になっていた。

 これはどういうことだろう?せっかく草原の風を楽しんでいたのに。それに今日は、ここに来たいとは思っていなかったのに。久方は困惑しながら色のない道を進んだ。

 変化のない景色の中をどれだけ進んだのか、今まで見たことのない湖が見えた。ただし、やはり色がない。水は黒く濁っている。魚もいないだろう。そのまわりは砂漠のようになっていた。もしかしたら前に子供がいたのもここかもしれないと久方は思った。しかし、湖にあんな波が立つだろうか。

 砂漠に沿って湖のまわりを歩いていると、カラーの人影があった。

 それは初島だった。

 見たことがない淡い桜色のワンピースを着て、顔は前会った時よりもずっと若かった。そして、湖の向こうを見つめていた。こちらには気づいていないようだった。

 久方はそっと、彼女に近づいた。


 私はマザーアース。


 初島が言った。


 大地そのもの。生まれながらに大地と同じ力を持っている。人間が何を垂れ流そうが、大地は受け止めて微動だにしない。お前もそうだと父が言った。


 久方があと1メートルくらいの所に近づくと、初島は振り返った。前、首を締めてきた女と同一人物とは思えないくらい、表情は穏やかだった。


 何が起きても、私は汚されない。


 初島が笑った。初めは穏やかだったその笑みが、少しずつ狂気を帯びたものに変わっていった。目は見開かれ、口元は歪んだように半開きになった。

 久方は思わず後ずさった。


 ははは、ははははは!


 初島の口からひずんだ笑い声がした。


 嘘つき、嘘つきなのよ。みんな嘘!あの男の言ったことはみんな自分の行いを正当化するためのデタラメ!だから私も嘘つきなのよ!

 何を信じてるの?人間が?マザーアース?そんなわけないでしょ?馬鹿みたい!

 あははは、あははははは、あはははははは!


 顔も、笑い声も、あまりにも狂気じみていたので、久方は怖くなって逃げ出した。しかし、


 あははは、あはははは!


 狂った笑い声は、どこまで行ってもついてきた。


 あははは、あはははは!


 久方は森の中を飛び回った。


 男は汚れている!

 男は全て罪人!

 全ての男は許されない!

 あはははは!


 久方は地面にうずくまって耳をふさいだ。これ以上聞いているとこちらの頭までおかしくなりそうだ。


 あははは、あはははは!


 声は止むことなく続いた。







 創が帰ってこねえ。


 色のある普通の世界では、橋本がぼやいていた。2階の久方の部屋で。そこには結城と、保坂もいた。


 またあのモノクロの森とかいう所に行ったんだろうな。


 不思議なんだけどさあ。


 結城が言った。


 あっちが死者の世界なんでしょ?なんで生きてる久方が行って、死んだお前は行けないの?


 それはたぶん、初島にとっては、生きているのが俺で、いなくなるべきなのが創だからだろ。


 橋本が言って、顔をしかめた。


 だからまずいんだよ。まさかあっちで初島に会って、存在を消されたりしねえだろうな?








 あははは、あはははは!


 笑い声はまだ聞こえる。しかし、少しずつ遠ざかっていた。久方は顔を上げてあたりを見回した。灰色の木や草以外、何も見えなかった。


 私はマザーアース。父がそう言った。

 自分の行いを正当化するために。


 ああ、やっぱりそうだったんだ。


 昔何が起きていたのか、わかってしまった。久方はあまりのことに立ち尽くしていた。

 あの人が見せる狂気、自分への暴行。

 全てはあの人の父親から始まっているのだ。


 あの人は僕を殺したいんじゃないんだ。


 久方は思った。


 父親が許せないんだ。

 だから、あらゆる男が許せないんだ。

 自分の息子でさえも。

 それに、父親に愛されなくて、

 暴力で傷ついて、

 今でも悲鳴を上げているんだ。

 全ては、深い傷口から発していることなんだ。


 それは大変辛いことではあったけど、久方はようやく、自分を痛めつけて捨てた母親を理解した。もちろん、全てを許せる訳ではないし、まだ理解できないこともたくさんあるけれど。

 久方は歩き始めた。

 すると、少しずつ、色彩が戻ってきた。

 風を感じ、草を踏む柔らかい感触が足裏に伝わる。

 いつのまにか久方は、元の草原に戻っていた。

 あいかわらず空は雲に覆われていたが、風はおだやかに吹き、草は優しく揺れていた。


 なんて穏やかなんだろう。


 久方ら目を閉じて、全身で風を受け止めた。


 あの人の狂気とは、なんという違いだろう。


 おう、戻ってきたな。


 橋本の声がした。


 保坂が言ったんだぞ、『意識を失った場所にもう一回戻ったら帰ってくるんじゃないか』ってな。感謝しろ。


 振り返ると、結城と保坂が後ろに立っていて、保坂はふざけたような顔で手を振っていた。


 どうしてわかったの?


 久方が尋ねた。


 直感っす。話してたら草原が頭に浮かんだんで。

 スマコンみたい。


 もう戻るぞ。今日寒い。


 結城が機嫌の悪そうな顔で言った。3人は建物に戻った。ポット君がうれしそうな顔を表示して、コーヒーを持って走ってきた。

 久方はモノクロの森で起きたことを説明した。


 そりゃ恨むだろうな、父親は。そんなことされちゃあな。

 だけどその怒りを何もしてない俺らに向けられても困るんだよ。


 結城が言った。


 でもなんで橋本さんは大丈夫なんすか?

 あの人も男ですよね?


 保坂が尋ねた。


 やっぱり、特別なんだと思う。

 理由はわからないけど。


 久方が言った。


 やっぱ付き合ってたとか好きだったとか、

 あるんじゃねえの?


 結城が言った。久方は『そうなの?』と橋本に聞いてみたが、橋本は何も答えなかった。


 あの人の狂気が、だんだんわかってきた。

 でも、僕にはどうにもできない。


 久方はあの不気味な笑いを思い出し、沈んでいた。あれは並半端な狂気ではない。見て、聞いているだけで気が変になりそうだった。

 自分は、あの狂気の子供なのだ。

 

 気にするなよ。とりあえず戻ってこれてよかっただろ?


 結城がそう言って笑ったので、久方もつられて少し笑った。

 そう、よかったのだろう。

 たぶん。






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