2023.5.23 火曜日 ヨギナミ
学校では、新橋早紀と高谷修平が風邪で休んでいた。
所長からうつったらしいよ。
佐加が言った。
てことはさ〜、
おっさんも風邪ひいてるってことじゃね?
午後の授業が終わる頃、おっさんから、
『風邪ひいてるからカフェには行けない。
創を寝かさないと』
というメールが来た。
ヨギナミはお見舞いに行くことにした。駅近くのセコマに行ってお菓子と果物を買い、横溝店長と『久しぶりね〜』という話をしてから、研究所に向かった。
もらった鍵を使ってそ〜っと戸を開け『ごめんください』と言ってみた。返事はない。おそらく2階にいるのだろう。ヨギナミが廊下を歩くと、1階の部屋から猫達のかすかな足音がした。今日はロボットがいない。所長がいないからだろうか。つまり──
また創がどっか行っちまったんだよ。
2階の部屋では、おっさんが、頭の上で手を組んでベッドに横になっていた。
まだ熱も下がってねえのによ。おかげで俺が代わりに寝てなきゃなんねーの。暇だ。こいつ、つまんねえ本しか持ってねえんだよ。だから小説を勝手にダウンロードしてやった。
ダメじゃん。そんなことしちゃ、後で怒られるよ。
知るか。人生投げ出してる奴に何言われても聞く気しねえ。それに、創はもっと今の本を読むべきなんだよ。古典や植物図鑑だけじゃなく。映画も昔のばっか見てるだろ。
それは好みの問題だから。
ヨギナミは苦笑いした。
でも、俺も昔はそうだったよ。
おっさんが寝返りをうってから、ゆっくりした声で言った。
若かったせいかな。なぜか同世代とか、世の中で流行ってるものがいいとは思えなくて、古い本ばかり読んでたよ。岩波の古いのを。
岩波。
古典が揃ってる文庫だよ。学校の図書室にもあるはずだぞ。次何読むか迷ったらそこから選べ。
おっさん、風邪なのに元気そうだね。
やべえ、忘れてた。お前帰ったほうがいいぞ。
うつるぞ。
大丈夫、私は風邪をひかないから。
何言ってる、そんな奴いるか?
いいえ、本当です。私は風邪をひいたことがない。
ヨギナミは強い声で言った。どこか拒絶の響きがあった。
嘘だろ。
なぜなら、そんな余裕はなかったから。
ヨギナミは固い声で話し続けた。
私が小学校に入る頃には、母はもう体が弱って寝込んでいたの。私がやらないと、洗濯物はたまっていくし食べるものもない。家はほこりだらけになる。だから、学校から帰ってきたらすぐ洗濯して、掃除して、機嫌の悪い母の相手をしながら料理をして──中学になったらバイトも始めて。風邪で寝込んでる場合じゃなかった。本当は具合悪い日もあったけど──
ヨギナミの表情がみるみる崩れていき、目が涙でいっぱいになった。
私が頭痛で寝てると、お母さんが不安がって機嫌悪くなるの。『洗濯はどうした』『ご飯は誰が作るんだ』『バイト休んだら生活費が足りなくなる』って私に向かって言うの。自分でやるって発想がないの。ただ私を責めるだけ。
ヨギナミは泣いていた。おっさんは起き上がって箱ティッシュを渡した。
お母さんが私を心配したことなんか一度もない!おっさんは前、あれでも心配はしてるって言ったよね?でも私、わからない!今までそんなこと一度もなかった!だから今も、お母さんが死にかけてるのに、私、何も感じないの。こんなひどい人間になっちゃったの!
お前はひどくなんかないって。泣くな。
おっさんはティッシュでヨギナミの涙を拭いてから、ヨギナミを抱きしめた。ヨギナミはしばらく、子供のように声を上げて泣いた。今までたまっていた苦しみを全て吐き出すかのように、いろいろなことを言いながら。
お前は、たぶん、何でもやりすぎたんだ。
ヨギナミが落ち着いてから、おっさんが言った。
何でも完璧にやりすぎたんだ。だからあさみもそれに慣れちまって、自分で何もしなくなったんだろうな。
お前はもっとサボればよかったんだよ。
それから、ヨギナミの顔をのぞきこんで、
風邪、絶対うつるぞ。
と言って苦笑いした。
まあ、お前はたまに風邪ひいた方がいいんだよ。そうでもしないと休めねえんだろ?どうせ平岸家でも手伝いと勉強ばっかしてんだろ?
たまには熱出して休めよ。若いからすぐ治るだろ。
それから、天井を見て、
創の奴、帰ってこねえな。
まさか初島に会ってねえだろうな。
と言った。
初島って人、お父さんに虐待されてたでしょう?
ヨギナミはすかさず尋ねた。おっさんが不安の目でヨギナミを見た。
大丈夫、私はもう大人だし、ニュースでそういう話もよく聞いてる。おっさんが『話せない』って頑なに言うのは、そういうことでしょ?
おっさんは少し間をおいてから、
俺は、見たんだ。
と言った。
見た?
初島の家に行ったとき、
あいつが父親に殴られるのを見た。
おっさんの表情は凍りついていた。
ほんとに?
ああ。
それは、ショックだね。
ショックなんてもんじゃねえよ。俺の世界はあの時半分崩壊した。
それから、
創には言うなよ。
と言った。
話してあげるべきだと思うけど。
ヨギナミは言ったが、
駄目だ。こんな話を息子にできねえよ。
とおっさんは言った。強い目と口調で、
わかった、黙ってる。
ヨギナミは言った。
新橋にも言うなよ。
あいつ何でも創にしゃべりまくるからな。
おっさんが言った。ヨギナミは『もう知ってると思うけどなあ』と思いながら一応『言わない』と約束した。
ほんと新橋の野郎は何でもベラベラしゃべりすぎなんだよ。知ってるか?前の彼氏とキスした時、わさわざ創にそれを知らせに来たんだぞ?とにかく何か起きるたびにいちいち報告しに来やがってよ、うるせーんだよ。そのたびに創が傷ついてんのがわかんねえのかって!
あいつ絶対鈍いだろ。お前にも何か失礼なことしてんじゃねえか?どうにかなんねえのかよあの天然はよ。
おっさんが早紀の悪口を勢いよく言い立てるのを、ヨギナミは半笑いで聞いていた。確かに早紀は変な子だ。でも、それもいろいろ事情があるのだ──たぶん。




