2017.5.21 日曜日 研究所
帰ってきたらええよ。
神戸の母は言った。
うちの会社手伝ったらええ。
人手はいつも足りてないしな。
考えておくよと言って、久方は通話を終えた。それから、自分がいる部屋を見回した。慣れ親しんだ空間、窓辺のカウンター、早紀とよく話し合うテーブル、そして猫達。
この生活も、もう長くは続けられない。
久方は改めて、今までの恵まれた境遇を思った。ここに来た時は絶望していて自分を捨てるつもりだったが、生活自体は安定していた。自然の中でマイペースに過ごしていた日々。
でももう、次を考えなくては。
久方はカウンターに座って外を眺めた。今日は曇りで、予報ではこれから雨が降ると言っていた。5月の雨。恵みの雨。静けさをもたらす雨。連想は広がっていく。
しかし、現実に降ってくるのはけたたましいピアノの音だ。病院から帰ってきてすぐに始まり、ずっと続いている。昼食も食べる気がないようだ。昨日の奈々子さんに刺激されてしまったのか、ずっと『クープランの墓』を通して繰り返している。
夏に一度、帰ろうかな。
と久方は考えていた。もう3年近く、神戸に帰っていない。自分を育ててくれた人達をそんなにも長く放置してしまった。それは久方も悪いと思ってはいた。しかし、本当の親、あの恐ろしい人のことが常に心に引っかかっていて、久方をここにとどまらせていた。
あの人に、何が起きたの?
いいかげん教えてよ。僕はもういい歳の大人だよ?
久方は橋本に向かってつぶやいた。
神戸に帰れよ。
橋本が言った。
あんなに優しい人達をもうほっとくなよ。
でも、お前とあさみさんは、
そんなことはどうでもいいんだよ。
どうでもよくないよ!
久方は叫んだ。
今ここで離れたら、お前は『あさみはどうなっただろう』ってずっと気にし続けるよな?それが新たな未練になってしまうよ。目に見えてるじゃないか。
僕だってここにはまだやらなきゃいけないことが残ってる。
新橋か?
橋本が言った。久方は黙った。
2階からはゆっくりとした物憂げな音が流れていた。結城はおかしな人間だが、ピアノの腕は一流だ。音の一つ一つが空気に溶けて、部屋に充満し、久方の体にも染み込んでくるかのようだ。
こんな所で何をしてるんだ。
久方は今度は天井に向かってつぶやいた。
ここでいくら名演奏したって、僕しか聴いてない。
奈々子さんの言うとおりだ、と久方は思った。結城は人前で演奏活動をするべきだったし、早紀は自分がいなければこの町に来なかったかもしれない。自分がいなければ──でも、なぜ自分が生まれてしまったか。
橋本がいたからだ。
橋本が死んだからだ。
僕はいつまで同じことを考えなきゃいけないんだ。
いいかげん何が起きたか教えてよ。
久方は言ったが、橋本は答えなかった。
ピアノの音が途切れた少しの間、雨の音が聞こえた。
何もかも、流し去ってくれればいいのに。
久方は傘を持たずに外へ出た。空は暗いが、微かに、日光が雲を透かして地上に降りてきていた。久方はその消えそうな光と、雨の感触をさぐりながらゆっくりと林の道を歩いた。
雨粒を手のひらで受け止める。皮膚の表面で水がきらめいている。手を傾けると流れ落ちて土と一つになる。雨はだんだん強くなってきた。
母さん。
久方は心でつぶやいた。
ねえ、何が起きたの?
なぜこうなってしまったの?
自然は、何も答えない。ただそこにあって、雨も、風も、久方の存在も、全てを受け止めているだけだ。
久方はしばらくそこに立ち尽くし、5月の雨と空気を全身で感じていた。




