表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年5月

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

821/1131

2017.5.21 日曜日 研究所


 帰ってきたらええよ。


 神戸の母は言った。


 うちの会社手伝ったらええ。

 人手はいつも足りてないしな。


 考えておくよと言って、久方は通話を終えた。それから、自分がいる部屋を見回した。慣れ親しんだ空間、窓辺のカウンター、早紀とよく話し合うテーブル、そして猫達。


 この生活も、もう長くは続けられない。


 久方は改めて、今までの恵まれた境遇を思った。ここに来た時は絶望していて自分を捨てるつもりだったが、生活自体は安定していた。自然の中でマイペースに過ごしていた日々。

 でももう、次を考えなくては。

 久方はカウンターに座って外を眺めた。今日は曇りで、予報ではこれから雨が降ると言っていた。5月の雨。恵みの雨。静けさをもたらす雨。連想は広がっていく。

 しかし、現実に降ってくるのはけたたましいピアノの音だ。病院から帰ってきてすぐに始まり、ずっと続いている。昼食も食べる気がないようだ。昨日の奈々子さんに刺激されてしまったのか、ずっと『クープランの墓』を通して繰り返している。


 夏に一度、帰ろうかな。


 と久方は考えていた。もう3年近く、神戸に帰っていない。自分を育ててくれた人達をそんなにも長く放置してしまった。それは久方も悪いと思ってはいた。しかし、本当の親、あの恐ろしい人のことが常に心に引っかかっていて、久方をここにとどまらせていた。


 あの人に、何が起きたの?

 いいかげん教えてよ。僕はもういい歳の大人だよ?


 久方は橋本に向かってつぶやいた。


 神戸に帰れよ。


 橋本が言った。


 あんなに優しい人達をもうほっとくなよ。


 でも、お前とあさみさんは、


 そんなことはどうでもいいんだよ。


 どうでもよくないよ!


 久方は叫んだ。


 今ここで離れたら、お前は『あさみはどうなっただろう』ってずっと気にし続けるよな?それが新たな未練になってしまうよ。目に見えてるじゃないか。

 僕だってここにはまだやらなきゃいけないことが残ってる。


 新橋か?


 橋本が言った。久方は黙った。


 2階からはゆっくりとした物憂げな音が流れていた。結城はおかしな人間だが、ピアノの腕は一流だ。音の一つ一つが空気に溶けて、部屋に充満し、久方の体にも染み込んでくるかのようだ。


 こんな所で何をしてるんだ。


 久方は今度は天井に向かってつぶやいた。


 ここでいくら名演奏したって、僕しか聴いてない。


 奈々子さんの言うとおりだ、と久方は思った。結城は人前で演奏活動をするべきだったし、早紀は自分がいなければこの町に来なかったかもしれない。自分がいなければ──でも、なぜ自分が生まれてしまったか。

 橋本がいたからだ。

 橋本が死んだからだ。


 僕はいつまで同じことを考えなきゃいけないんだ。

 いいかげん何が起きたか教えてよ。


 久方は言ったが、橋本は答えなかった。

 ピアノの音が途切れた少しの間、雨の音が聞こえた。

 何もかも、流し去ってくれればいいのに。

 久方は傘を持たずに外へ出た。空は暗いが、微かに、日光が雲を透かして地上に降りてきていた。久方はその消えそうな光と、雨の感触をさぐりながらゆっくりと林の道を歩いた。

 雨粒を手のひらで受け止める。皮膚の表面で水がきらめいている。手を傾けると流れ落ちて土と一つになる。雨はだんだん強くなってきた。


 ()()()


 久方は心でつぶやいた。


 ねえ、何が起きたの?

 なぜこうなってしまったの?


 自然は、何も答えない。ただそこにあって、雨も、風も、久方の存在も、全てを受け止めているだけだ。

 久方はしばらくそこに立ち尽くし、5月の雨と空気を全身で感じていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ