2017.5.18 木曜日 高谷修平
研究所。
修平は、かつて父親と一緒に演奏していた男を観察していた。今、目の前でピアノを弾いている。保坂がそれに合わせてギターを弾いている。ボーカルがいれば、18年前の再現になったかもしれない。かつて父と奈々子、結城が3人でやっていた音楽は、今はもう存在しない。
修平は、今自分がここにいる不思議を思った。それから、奈々子がここにいない理不尽も。
18年、いや、もう19年?
その間、残された者は何を思って生きてきたのだろう。
自分もいつか、みんなを残していかなければならないのか。
『また暗い考えに沈んでますね』
新道先生の声がした。
「次、高谷弾け」
保坂の演奏が終わってから結城が言った。修平はギターを弾いた。手に力が入りにくい日だ。調子はよくない。でもなんとか弾ききった。
「音が弱いな」
と結城は言った。それ以上は何も言わなかった。保坂がいい曲を思いついたと言って何フレーズか弾き、それを結城が『こうした方がいい』とピアノで作り変えていた。修平にはどちらも大して変わらないように思えた。
保坂が帰った後、『話があるから』と残った修平は、
「奈々子さんと話してください」
と、用件をすぐ口にした。
「たぶん、それが必要なんです。人生に納得するために」
「そんな必要はない」
結城が楽譜を見つめながら言った。
「あれは、存在してはいけないはずだろ、本来」
「でも存在してるんです。そこにいるんですよ。だから無視しちゃいけないと思うんです。サキも初めは嫌がってましたけど、今はちゃんと奈々子さんと話してますよね?それでわかったことがたくさんあるんです」
修平はピアノに近づいて、楽譜を取り上げた。そして、
「なんでこんな所にこもってるんですか?」
と聞いた。結城は心底嫌そうな顔をして、楽譜を奪い返そうとしたが、修平はうまくかわした。
「演奏活動をやめてしまったのはなぜですか?それが奈々子さんが知りたがってることですよ。毎日ここで迷惑ピアノを鳴らしまくってるそうですね。つまり弾けなくなったわけじゃない。どうして──」
「楽譜を返せ」
結城が近づいてきて、楽譜に手を伸ばした。修平は少しずつ動いてそれを避けた。
「まるで麻薬中毒だ。あなたの弾き方は」
修平が言った。
「そろそろ逃げるのはやめた方がいいですよ。奈々子さんは、いるんです。サキの中で生きてるんです。そして、あなたも。奈々子さんはそれが心配なんですよ。あなたがまるで、あのトッカータのために人生を捨てて、いや──」
「楽譜を返せ」
2人は部屋の中を走り回った。
「あの曲を言い訳にして──人生から逃げてる──」
修平がへたりこんだ。息が荒い。
「おい、大丈夫か?」
結城は楽譜を取り返してから、修平の異変に気づいた。
「大丈夫──ちょっと──走りすぎただけ」
「おい、今くらいで具合悪くなるのか?どんだけ重いんだ?」
結城は呆れた。
「人のことをどうこう言ってる場合か?お前がまず体を治せよ」
「うっせえオヤジだな」
修平が低くうめいた。結城は顔をしかめた。
「そうだ、そうですよ、結城さん。もう19年経った。あなたは若々しいナギじゃない。いい歳のおっさんだ。その歳まで生きられただけ幸せですよ。なのに何やってんですか。せっかく生きてるのに、現実逃避して──」
『修平君、そろそろやめておきなさい』
新道先生が出てきて注意した。
「あなたには現実に対処する義務があるんだ。奈々子さんのために、そしてサキのために。それが、俺や久方さんのためでもある。そもそもなんで久方さんに近づいたんですか?」
「もう帰れよ」
「何か思うところがあって──」
「これ以上話すことはない」
結城は部屋を出ていった。修平は息が落ち着くのを待ってから1階に降りた。そこには結城はおらず、久方が茶色い猫を抱いて、窓の外をじっと見ていた。
「今日はきれいに晴れてる。気温も高くて、夏みたいだ」
修平に気づいた久方が言った。
「昨日、先生の夢を見たんです」
修平が言った。
「橋本が根岸さんの家に電話したんでしょう」
久方が話の中身を言い当てた。
「なんで知ってるんですか?」
「僕も同じ夢を見た」
久方が笑い、猫を床に降ろして、ソファーに座った。
「橋本は、先生と根岸さんを特別視していたらしい。自分にはできないことを、新道先生が難なくやってのけてしまうから。人と接することとか」
「誰かに愛されること」
修平が言った。新道先生の人生で、奥さんがいかに重要な存在だったか、修平はさんざん聞かされて知っていた。
「それと、世の中に受け入れられることだね」
「それが橋本の未練なら、厄介ですね」
「いや、もう叶ってるんだよ、その願いは」
久方が言った。
「え?どういうことですか?」
「ヨギナミのお母さんだよ」
久方はそう言って穏やかに笑った。
「本当に?」
「本当。あの2人は心が通じ合ってた。僕にはわかる。カフェで話して、町の人には受け入れられたって実感もあるらしい」
「でも確かヨギナミの母親は──」
「意識がない。治る見込みもない」
久方は目を伏せた。
「だから今は、どうしていいかわからない」
沈黙が生まれたが、
「ちょっと!修平!いるんでしょ!!」
という怒鳴り声とともに、インターホンを連打するすさまじい音がした。
「やべえ、もう帰ります」
修平は軽く礼をして玄関まで歩いた。走りたかったがもう体力が残っていなかった。
あかねは修平を見るとニヤニヤし始め、
「で、男同士で何してたの?」
と尋ねた。『妄想やめて』と言う気力も、修平にはなかった。あかねは帰りの道でずっと『演奏家達の愛の共演』という妄想を語りまくり、ただでさえ具合の悪い修平はますますげっそりした。
夜、ベッドでぐったりしていると、伊藤から、
『明日は図書室に来てください』
という、事務連絡のようなLINEが入っていた。
『杉浦塾はないの?』
『2日も閉めてしまったので、明日は図書室を開けます』
『わかった、また明日』
それでやり取りは終わった。修平はしばらく画面を見つめていた。
伊藤に愛されるには、どうしたらいいのだろう?
今のところ、伊藤の関心は全面的に神に向いている。勝てる気がしない。そもそも他の女子とは違って、恋に重きを置いてなさそうだ。
久方創は、橋本とヨギナミの母親が愛し合っていると言っていた。どうしてそんなことが可能になったのだろう?既に自分の体がないのに。久方が相当の犠牲を払って体を使わせたからか?サキも同じことをしなければいけないだろうか。結城と奈々子さんを結びつけるために。
自分はどうだろう?
『君は何もする必要はない』
新道先生がまた現れた。何かを懸念する顔をしながら。
「いや、何かしなきゃいけないんだよ」
『しかし──』
「前も言っただろ、これは自分のためなんだって」
修平は起き上がった。軽くめまいがしたので手で頭を押さえた。自分はあとどれくらい生きていられるだろう?死ぬ前に答えを見つけなくてはならない。
人生とは、結局、何なのか。
幽霊達の人生にその答えがありそうだ。
「先生、何かやりたいことないの?」
『ひたすらに君が心配なだけです』
「怖いってそれ」
修平は苦笑いした。
「橋本のことも心配だろ?」
『ええ』
「初島のことも」
『はい』
「やっぱ、そこなんだよなあ」
修平はまたベッドに倒れた。
「やっぱり久方さんと初島が一度ぶつかるしかないのかなあ」
『それは危険です』
「でもさあ──」
同じことを堂々巡りで考えたあげく、修平は疲れて眠ってしまった。
新道先生はしばらく部屋にいて、腕を組んだまま考えていた。修平が自分のことに関わりすぎて、これ以上体調が悪くなるようなことをしなければいいが、と。




