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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年5月

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817/1131

2017.5.18 1980年5月


 あの地震の日からしばらくの間、橋本は毎日学校へ行った。はじめ不思議がったり不気味がったりしていたクラスメート達も、だんだん慣れて何も言わなくなっていった。新しい担任は生徒と気さくに話をする人で、橋本や新道にも毎日のように話しかけてきた。

 初島はあの日以降、橋本に近寄ってこなくなった。授業が終わるとすぐ逃げるように帰ってしまう。しかも根岸菜穂を連れて。女子2人が一緒に帰ってしまうため、新道は菜穂と話ができずさみしそうにしていた。

 初島の野郎、新道から根岸を引き離そうとしてるな。

 橋本はそう思っていた。菅谷が毎日のように、新道に居残り勉強をさせているのも気になった。こいつも新道を根岸に近づけたくないに違いない。

 橋本は家に帰って、本棚を見つめながら考えた。そして、学校の連絡網を探し、店の黒電話に手をかけた。

『はい。根岸です』

「橋本古書店です」

 橋本は平然と言葉を発したが、心臓は跳ね上がっていた。

「根岸菜穂さんはご在宅ですか?」

『何の用ですか?』

「お探しになっていた本が入荷しましたので、取りに来ていただきたくて」

『何の本ですか?』

「えーっと、ガルブレイスの『不確実性の時代』です」

『何ですって?』

 電話の向こうから鼻で笑う声が聞こえてきた。

『あのバ──あの子にそんな本が読めるとは思えないわ』

「そうですか?店ではよく古典を手に取っていらっしゃるし、世界情勢もよくご存知のようだし、店長と難しい哲学の話もされてますよ?頭のいいお嬢さんですね」

 それは全部本当のことだった。橋本はどうしてもそれを伝えておきたいと思ったのだった。根岸は馬鹿ではない。ちゃんとした頭のある子だと。

『それはないわ。ちょっと待ってて。菜穂、お電話よ!本屋さんから!』

 うまく根岸菜穂につながった。

『もしもし』

「あー根岸。俺だよ、橋本だ。でもお母さんには気づかれないようにしろよ」

『はしもとく──』

「シッ!バレないようにって言ってるだろ?本を取りに行くって言って家を出るんだ。そのまま新道の家に行けよ」

『えっ?シンちゃ──』

「シッ!名前を口に出すんじゃねえよバレるだろ!いいからすぐあいつん家に行け。わかったな」

『はい、わかりました。今すぐ行きます』

 声が礼儀正しくなった。

「お待ちしてます」

 橋本は電話を切った。それから、先日、近所の口やかましい親父が『こいつの考えは気に入らん』と言って売っていったガルブレイスの本をつかんで外に出ようとした。そこに都合よく、新道が入ってきた。

「お前ここで何してんだよ?」

「え?何って、借りた本返しに」

「いらねーよそんなもん。いいから早く帰れよ!」

 橋本は怒鳴りながら、本を新道に押し付けた。

「これから根岸がお前ん家行くから、それ渡しとけ」

「えっ?でも、なんでうちに──」

「いいから早く帰れよ!」

 橋本は新道を店の外に突き飛ばして、店の戸を乱暴に閉めた。そして、ニヤニヤと笑い出した。久々にいい気分になった。しかし、

「おい、お前」

 店の奥から店主が出てきた。橋本は驚いて戸に体をぶつけた。

「買い物行ってたんじゃねえのかよ」

「財布を忘れた」

 店主は冷ややかな目で戸に近づき、

「人助けなんかしてる場合か?自分のことはどうした」

 と言ってから、ゆっくりと戸を開けた。それから、

「初島医院の院長から電話が来たぞ」

 と言った。

「娘とよからぬことをしてるんじゃないかと言われたぞ」

 せっかくよくなった気分が、一気にどん底に落ちた。

 あのクソ親父め。よからぬことをしてるのは自分だろうが!

「俺じゃねえよ」

 橋本は低い声で言いながら店の奥へ行った。

「お前、あそこのお嬢さんのことはどう思ってんだ?」

「なんとも思ってねえよ!」

 橋本は叫んだ。初島のことなど二度と思い出したくなかった。かと言って、あの日見てしまったものを忘れたことは片時もないことも事実だった。

 初島は俺を避けてる。

 きっと、言うとおりにはしていない。

 まだ暴力が続いているのかと思うと、橋本はいてもたってもいられなくなる。かといって、初島にはもう会いたくないし、話したくもない。

 せっかく今日は新道と根岸を助けていい気分になったのに、これで台無しだ。

 橋本は店に戻り、いつも父親が座っている木製の机に座った。古い。ところどころ傷がある。この店のどこもかしこも、年月の経過を感じさせる。

 俺はずっと、ここから出られないかもしれない。

 橋本はそう思っていた。この日本は、札幌は、自分のような人間を絶対に受け入れない。もし自分がもっと普通だったら──例えば、新道のようだったら──自分も幸せになれたかもしれない。

 そういえば、新道は何者なんだ?

 橋本は、初島が言っていたことを思い出した。


『新道は、私が創ったのよ』


 あの地震を起こした力で?ありえない。でも、そう考えたほうが辻褄が合うことはたくさんある。去年より前の記憶がないこと、一年経っても両親が出てこないこと、生きた人間にしては純粋すぎること、妙な力を持っていること。

 何より、橋本の願望に沿った人物であること。


 あの新道という男は、

 自分が持てなかった光の部分なのではないか。


 橋本はそう感じ始めていた。自分は影で、あいつは光だ。自分がやりたくてもできなかったことを、あいつは叶えていく。地域の人と仲良くして認められること、クラスメートに、そして、根岸に好かれること。今のままいけば、きっと大学にも行くだろう。いや、行けなくても、幸せに暮らしていくだろう。

 それは、自分が本当は望んでいたことだ。

 でも、絶対に叶わないことだ。

 新道が光なら、自分は?

 俺は影だ。人々が見ようとしない暗い世界の人間だ。

 橋本は、むき出しの電球が照らし出す店内を眺めた。所狭しと並ぶ本。全て読めば、世界中のありとあらゆること、人の心のあらゆることがわかる。しかし、自分が外に出ることはない。遠い世界を知ることはできても、その世界に()()()()()ことができない。


 ああ、終わってるんだ。

 とっくの昔に終わっていたんだ、俺の人生は。


 外からなにやらワイワイ騒ぐ声が聞こえた。店主が買い物袋を持って帰ってきて、後ろからニコニコ顔の新道と、同じく笑顔の根岸菜穂が入ってきた。

「なんでおまえらここに来んだよ!?」

 橋本は立ち上がって叫んだ。

「ナホちゃんが、一緒に読む本を選ぼうって」

 新道が言った。

「そしたら、途中でおじさんに会ったの」

「パン買ってきたから食うべ」

 どうやら、いつもは行かないパン屋に行ったらしい。この2人のために。橋本は呆れた。最近店の売り上げが減っているのに、そんなことに金を使うとは。

「これね〜、前食べたんだけどおいしかったの!」

 菜穂がパンを一つ取り出し、橋本に差し出した。

「はい!これ!」

 かわいらしい笑顔。

「どうも」

 橋本はためらいつつもパンを受け取った。それから父親に「何してんだよ!?」と小声で文句を言った。すると店主は、

「お前、さっきの本の代金は自分で払えよ」

 と言って、冷ややかな顔で店の奥に行った。橋本は舌打ちしてからヤケクソ気味にパンに食らいついた。死ぬほど甘いジャムが入っていた。

「おいしいでしょ」

 菜穂が笑いかけてきた。

「クッソ甘え、何だよこれ」

「お店で作ってるジャムなんだって」

 新道が言った。それから、菜穂と2人で笑い合い、本棚に向かっていろいろ物色しはじめた。橋本はまた父親の席に座り、仲睦まじい2人を遠くから眺めていた。


 俺はずっと、こんなふうに、

 世界を、幸せを、遠くから見て一生を過ごすんだな。


 そう思っていた。そして、父親がまさにそういう人生を送ってきたのだということに気づき、不快感が込み上げてきた。

 本棚の向こうからは、時々、笑い声が聞こえてきた。人を笑う意地悪なものではなく、心底幸せそうな笑いだ。

 頼むから、このまま一緒に進んでってくれよ。

 橋本は心で思った。世の中は恐ろしい所だ。でも、この2人には変わってほしくなかった。いつまでも今のままでいてほしかった。暗闇に住む橋本にとって、この2人は唯一、この世に見える光だった。

 しかし、初島はどうなったろう?

 橋本は黒電話に手をかけ、しばし迷って、かけるのをやめた。あの親父を刺激しない方がいい。しかし、放っておくこともできそうにない。なにせ自分も巻き込まれている。

 なぜ、自分はあんな嘘つきのことを考えているのだろう?なぜ初島は、自分を巻き込んだ嘘をつくのだろう?

 いや、初島は嘘つきじゃない。暴力でおかしくなっているだけだ。しかしなぜ誰にも相談しないのだろう?

 不快だが、橋本は認めなくてはいけなかった。

 初島のことが心配でたまらないということを。






 


 




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