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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年5月

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2017.5.15 月曜日 研究所


 新橋が彼氏と別れたんでな、

 創ははりきって慰めてるよ。


 病院で、橋本があさみに話しかけていた。


 いいかげん素直に気持ちを伝えればいいのにな。

 でも今はまずいか。別れたばっかだからな。


 あさみは答えず、静かに眠っている。






 昼頃、久方創はアップルパイを作るため、パイ生地をたたんでいた。今日は学校帰りに早紀が来ることになっている。何か特別なものを用意しておきたい。


 まるでお祝いだな、別れたのに。


 自分の浅はかさを思いながらも、何かを作りたいという気持ちが抑えられないのだった。

 りんごを見つめていると、2階からリストの超絶技巧な曲が聴こえてきた。今日は気を遣って出かけてくれるんじゃないかと期待していたが、そうはならなかったようだ。もしかして結城も早紀に会いたいのだろうか?そう考えると、久方は落ち着かない。


 新橋が裸で俺のベッドにいたらどうする?


 前に言われたことを思い出した。


 俺だって抑えてるんだよ自分をよ。


 早紀がむやみに結城に近づいたら、抑えが効かなくなるかもしれない。それはまずい。早紀が傷つく。止めなくては。

 とにかく今日は早紀と2人でじっくり話をして─と思いながらアップルパイをオーブンから取り出した時、


 でもさ〜やっぱ西田厳しすぎね?

 毎日英文日記だよ?


 という大きな声が廊下から響いてきて、久方は天板を持ったまま固まった。

 なぜだ。

 なぜ佐加の声がするんだ!?


 やっぱ毎日使った方が英語力伸びるからじゃない?


 早紀の声も聞こえた。


 にしたってさ〜、

 日記って日本語で書くのも大変じゃん。


 間違いない、これは佐加だ。聞き間違いだったらよかったのに。

 

 なんかめっちゃいい匂いすんだけど!あ!所長!

 何これうまそう!食べていい?


 お前のじゃねえよと言いたかったが、後ろの早紀と目が合ったので久方は笑った。佐加はすかさずパイを一つ取って『あつ!』と言いながら部屋に駆け込んだ。


 お皿取ってきます。


 早紀が横をすり抜けていった。久方は誰にも聞こえないようにため息をついた。



 佐加はアップルパイを口に入れたまま、


 所長さ〜、

 チョコレートショップのお姉さんと付き合ってんの?


 といきなり聞いてきた。


 高条が店に入るのをよく見かけるって。


 あの彼氏、いや、元カレか。

 何を考えているのだ。仕返しか?

 久方は顔をしかめながら、


 付き合ってない。ただのご近所付き合いだよ。


 と答えた。すると、タイミングよくピアノが止まり、足音が降りてきた。


 おっ、女子高生を2人もキープしてんのか。

 モテるね〜久方さん。


 結城はからかうように笑いながら近づいてきた。そして、アップルパイを見て『俺の分は?』と言った。久方がキッチンの方向を手で示すと、自分で取りに行って、ニコニコしながら戻ってきた。


 結城さん、アップルパイ好きなんですか?


 早紀が尋ねた。


 パン屋で売ってるもんの中では一番好き。


 結城は言いながらパイにかじりついた。作るんじゃなかったと久方は思った。

 佐加は結城と早紀を交互に見てから久方の方に顔を近づけ、


 放っといたらヤバいと思うよ。


 と小声で耳打ちした。久方も同じことを考えていた。早紀が結城を見る目つきは明らかに熱を帯びていたからだ。


 奈々子がカラオケで歌の練習してるんですけど、やっぱり生きていた頃と同じようには歌えないみたいです。私の体を使うから、私が喉を鍛えないといけないんですよね。


 早紀が言うと、


 喉だけ使っても痛めるだけだぞ。ちゃんと腹式呼吸して全身を使わないと──


 結城が偉そうに指導を始めた。自分は音痴のくせに何を言ってるんだと久方は内心呆れていた。ピアノはすばらしく弾くくせに、歌うとなぜか音程がめちゃくちゃでうるさいのが結城だ。長年一緒に暮らしているのでよく知っている。


 それで、思ったんですけどぉ、


 早紀が上目遣いで言った。


 結城さん、私が発声練習するの手伝ってくれませんか?

 奈々子のために。


 それはダメ。


 結城は即答した。


 なんでですかあ〜!?


 発声は一人でできるだろ。


 でも注意してもらわないとどこが悪いかわかんないじゃないですか。


 それこそ奈々子に聞けよ。

 なんで俺が教えなきゃいけないんだ?

 

 保坂にはピアノ教えてるじゃないですか!


 保坂はいいんだよ男だからよ。


 あれ?私が女の子だからダメなんですか?もしかして、私と一緒にいると何かまずいことが起きると思ってます?私がそんなに気になるんですか?


 なぜだろう、今日の早紀は妙に積極的だ。もしかして、彼氏と別れたから結城と仲良くなってもいいと思ったのだろうか。


 とにかくダメだ。この話は終わり。


 結城は部屋を出ていったが、早紀は諦めずにやいのやいの言いながら後を追いかけていった。


 ねえ、所長さぁ〜、


 佐加が珍しく困った様子で言った。


 サキ、あのまま放っといたら危ないと思うよ。


 そう思うんなら君が近くで見張ってなよ。


 久方は言った。佐加とは話したくなかった。


 所長さ、サキのこと好きだよね?


 佐加が言った。


 サキが結城さんのこと見てるのと同じ感じで、所長もサキのことずっと見てるもんね。みんな気づくよ。結城さんだって知ってんでしょ?

 どうしてサキが気づかないかって、やっぱ友達だと思ってるからだよ。気の合う兄弟みたいな感じ?でもそれじゃダメじゃん。やっぱ所長がさ──


 僕とサキ君はそんなんじゃない。


 久方は佐加を避けるため席を立って外に出ようとした。そこへ早紀が戻ってきた。


 結城さん、全然話聞いてくれないです!


 怒った顔もかわいい。2階からはまたリストの曲が流れ始めていた。


 あんなピアノ狂いはほっときなよ。


 久方は言った。


 散歩に行きましょう。


 サキが言った。


 え?でも雨降ってるし、今日は寒いよ?寒気が──


 所長、どうしたんですか?


 早紀が驚いた様子で聞いた。


 前は雨の日に喜んで外に出て、歩き回ってたじゃないですか。


 久方が止まっていると、後ろの佐加が、


 うち、バスの時間あるから、帰るね。


 と言って、通りすがりに久方に向ってニヤッと笑いかけた。嫌な笑い方だった。



 


 久方と早紀は傘をさして、あたりを歩き回った。

 早紀は成長途中のアジサイの葉を一枚一枚丁寧に見て、


 さすがにまだ、カタツムリ、いませんねぇ。

 ナメクジも。


 と言った。それから、


 私、しばらく、本当の自分を忘れてた気がします。


 と言った。


 勇気のことをむりやり好きになろうとしてたんです。でもムリでした。だって、私が好きなのは結城さんだから。それに、私はいわゆる『彼女っぽいこと』が向いてないんです。彼氏のことばっかり考えるとか。他に大事なことがたくさんあるし。

 でもなぜか、結城さんのことはどうしても諦められないんですよ。なんででしょうね。同じユウキなのに何もかも違う。あーあ!


 早紀は傘を天高くかかげて伸びをした。


 ネットで何を言われようが、過去に何が起きようが、そういう私は変えられないし、変わらなかったんですよ。

 だから、私は結城さんを好きでいることにしました。

 全然相手にされないけど、いいんです。


 それから早紀は、


 所長、好きな人いないんですか?


 と聞いてきた。


 そういうことは考えられないよ。


 君以外とは、と心の中で付け足した。


 ショコラティエのまりえさんは?


 だから何度も言ってるでしょう。

 ただの近所付き合いだって。


 好きな人ができたら、すぐ私に教えてくださいよ!


 早紀が近づいてきて、傘を持っていない方の手で久方の肩に触れた。


 私達の間に隠し事はなしです!

 気になる人が出てきたらすぐ教えてください。


 わかった。


 久方は無理をして笑った。本当は、今にも水たまりにとびこんで、そのまま泥の中に消えてしまいたかった。

 早紀は一人満足したように、建物への道を引き返していった。足取りが軽い。何かが吹っ切れたようだ。


 ──僕はどうしたらいいんだ。


 重いものを背負った気分で、久方は早紀の後を追った。





 


 

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