2017.5.13 土曜日 サキの日記
朝、何の夢を見ていたか忘れたけど、何も起きてない世界にいて心地よかった。でも、目が覚めた瞬間に、人生で起きたこと全てを思い出して、夢の世界に戻りたくなった。この世のいやらしい、残酷なことが一気に襲いかかってくるような感覚。私はしばらく動けなかった。眠りたかった。何もかも放棄してしまいたい。でも世の中は消えてなくなったりしない。それに、あかねの『いつになったら朝ごはん食べに来んのよ!?』という怒鳴り声も止められない。
かなり遅れて朝ごはんに行った。平岸ママが『ビーズ教室をやるから来ないか』と言った。そういえばそんな話があったっけ。今、町の人の前に出るのは怖かったけど、部屋に閉じこもっていても何もいいことは思い浮かばないと思って、ついていくことにした。
幸い、老人ホームのおばあちゃん達は、事件を知らなかった(あるいは、知らないふりをしてくれたのかもしれない)。10人くらいいるおばあちゃんの中に一人おじいちゃんが混じっていて、けっこう器用な手付きでネックレスを作っていた。『プレゼントしたい人がいる』と言っていた。おばあちゃん達と平岸ママがキャーキャー言って盛り上がっていた。私は目の悪いおばあちゃんを手伝い、自分用のネックレスも作った。『若い人がいる』というだけで喜ばれる場所。おばあちゃん達の年齢を感じさせる手。
ネットがない時代を過ごしてきた彼女達は、今、平和に晩年を迎えているように見える。本当は人生でいろいろ辛いことがあったはずだろうけど。私は、自分が歳を取ったらどうなるだろうと初めて考えた。80とか90まで生きられる気はしない。たぶんもっと早く死ぬと思う。だけど、それまでずっと、自分を傷つけた人を忘れられずに何十年も過ごさなきゃいけないのかと思うとゾッとする。
ホームの建物の半端な新しさが、前の学校の校舎を思い出させるのも怖かった。用具入れの中で誰かが襲われてないかと思って、開けてみたくなったりした。でも、鍵をがかかっていて開かない。『何か探してるの?』と、杖を持った腰の曲がったおじいちゃんに聞かれて慌てた。
私は探してるんじゃなくて、逃げたいのだ。
奴らの記憶から。そして自分から。
なのに、行く先々で記憶を刺激するようなものを見つけてしまう。昔いた場所に似た光景とか、動画を撮ってる人とか、似た雰囲気の人とか。ノノバンに背格好が似てる人がいて逃げたくなったが、それは、最近ホームに就職したばかりの若い介護職員だった。うっかりパニックを起こして、知らない人まで傷つけるところだった。何かを察知した小さなおばあちゃんが、
ここには怖い人はいないから大丈夫よ。
と言って、私の背中にそっと触れた。その人の目はどこか遠くを見ていて、どうも昔、似たような怖い目にあったことがある人なんじゃないかと思った。何も話さなかったけど。
でも、その人のおかげで落ち着いた。ネックレスに金具つけるのを手伝って、平岸ママが持ってきたシフォンケーキをみんなで食べた(店で買うよりうまいとおばあちゃん達は言っていた)。最近のテレビの話をしているおばあちゃん達が『ヤバい』とか、あまり年配の人らしくない言葉づかいで話しているのも聞いた。テレビで若い人が話すのを見て真似しているんだろう。子供は大人の真似をして言葉を覚え、お年寄りは若い人を見て今の価値観を学ぶらしい。孫にトランスジェンダーの話をされてとまどったという人もいた。昔はそんなことが話題になることはなくて、『男は男だったし、女は女だった』なんて言われて私の方がびっくりした。そんなはずない。いつの時代も一定の数はそういう人がいたはずだ。ただ、世の中が認めていなかっただけだ。
私達の頃は女は結婚するしかなかったものね。
でもあなたは違うでしょ。
とも言われた。昔は女性の地位も低かった。前に聞いた話だと、求人票に『男子のみ』って書いてあったりした時代があるらしい。つまり、女子の就職先自体がほとんどなかった。
ネットのない時代にはものすごい差別や抑圧があったらしい。でも、今だってなくなったわけじゃない。むしろ別な圧力が生まれてる。『ネットに何を書かれるかわからない』という圧力が。しかも書かれることは嘘だらけだったりする。ここの人は、『誰かに何か書かれる』なんてことは考えずに暮らしているように見える。
おじいちゃんがネックレスを渡したい人は、世話になっている中年の職員だった。そのおばさんは大げさに驚いて笑ってみせ『これから毎日つけるわ〜』と言っていた。私はそれを見てすごいと思った。普通、おじいちゃんにいきなりネックレスをプレゼントされたら引くと思う。でもその人は本当に嬉しそうにしていた。あれが演技だったら、妙子に勝てる。
そこで母のことを思い出したので、作ったネックレスの写真撮って送った。『サキちゃんは器用ね。私そんな細かいこと絶対できない』と返事が来た。『そうだね。りんごむく以外にできることないもんね』と返事してやろうかと思ったけどやめて、おじいちゃんのネックレスの話を送っといた。『いいわねえ』という返事が来た。なんとなく上の空っぽい。
佐加から『明日カラオケ行く?』と言ってきてて、幽霊問題を思い出した。はっきり言ってどうでもいい。世界中にいやらしい女だと思われることを心配してる時に幽霊のことなんか考えられない。でも、カラオケには行くことにした。奈々子を呼んだらあっさり出てきて、
無理しなくてもいいよ。
と言われた。一応心配してくれているらしい。私は、私が襲われた時に何をしてたのか、何を考えていたのかと聞いた。
できることならあの2人を呪い殺したかったんだけど、
方法がわからなくて。
奈々子は言った。
乗っ取りをかけて何とかしようと思ったけど、うまくいくか自信がなかった。本当に犯されたら、体を一時奪ってでも産婦人科に連れてったから。すぐ行った方がいいって本で読んだことあるから。
何の本を読んでたんだと思ったが、そういえば奈々子は古本屋に通っていて、性犯罪の話を読んでショックを受けたとか前に言ってたような気がする。
昔から女の身にはよくそういうことが起きてた。いろんな人が証言してたの。風俗で働いている人の中には、単なる貧困からではなくて、子供の頃レイプされたり虐待されたりして、心と体のバランスを崩した人がけっこういるって書いてあった。その体験があまりに衝撃的だから、残りの人生まで負の方向に傾けてしまう。そして、傷ついた女達を、汚い性産業がさらに追い込んでいくってわけ。
でも、それは止められることなの。
どうやって?
『自分は汚れている』とか『自分に価値はない』って思うのはやめること。これは事故。世の中では起こりがちな。天災や交通事故に見舞われたり、通り魔に刺されたり、それと同じ。運悪く被害にあった人には、なんの罪もない。性犯罪だけが『お前もうかつだった』なんて被害者が責められるのは、おかしい。何もしていないのに自分を責めるのは、もっとおかしい。
それから奈々子はなぜか、
リオちゃんに連絡して話してみたら。
と言って消えた。なんでここでリオの話が出てくるんだろう。ニューヨークで楽しく暮らしてるはずなのに。でも一応『元気?』って言ってみた。『英語が大変!でも元気』とすぐ返ってきた。今ニューヨーク何時なんだろうと思った。テレビ電話しようと言って、話をした。カフェのyoutubeに中傷コメントを書かれたこととか、昔起きた本当のことを。
私、父親の話したことあったっけ?
リオが言った。
とにかく威張って、『稼ぐ俺様が偉い』みたいな感じで、周りのすべてを見下して暴言を吐くような男だった。母は体が弱くて、パートに出てもすぐ体調崩してやめちゃって、そうすると父が『稼げない役立たず』とか言うの。もっと汚い言葉も使ってたことある。あと、子供が目の前にいるのに平気で卑猥な悪口を言ったりして。
学校で自分と同い年の子を見ても、自分と同じだとは思えなかった。みんなはもっと幸せな家庭で育ってる。でもうちはそうじゃない。だからみんなには私のことなんてわからない。そう思ってた。人を信じてなかった。特に男はね。表向き感じが良くても、裏に回れば暴力を振るったり暴言を吐いたり、卑猥なことしか考えていない汚い男。それがうちの父親で、私が男性に持ってるイメージの全てだった。
中学になると、私って成長が早かったから大人に見えたのね。おじさん達が近づいてくるようになった。いや、私が近づいたのかな、よく覚えてない。気がついたら、パパ達と付き合う見返りにお金をもらうようになってた。
今思うと、仕返し。
威張りくさって人を見下したあの男への、そして、女を見下す日本のすべての男に対する復習。おまえら特権を持っていい思いしてるんだから、その分あたし達に回してくれたっていいでしょ?そんな感じ。罪悪感なんてまるでない。
そのうち母が離婚して、私がしばらく生活費を出してた。やっとあの男から自由になった。
リオの声はいつもより透明で、真摯に聞こえた。
それで、ここ一年くらい、一人になって考えた。
もうやめようって。
あの男に復讐しても、全世界の男に復讐しても、
私は救われないし何も変わらない。
かえって自分の人生をダメにしてしまう。
だからやり直そうと思ったの。知らない場所で。
でもそれでニューヨーク行けるって勇気あるね。
おじさんから巻き上げた金だけどね。
いいじゃん向こうだっていい思いしたんだから。
そうね〜。フフッ。
それから、私は老人ホームのおじいちゃんの話をし、リオからは『こっちの美容の世界はすごい。ものすごく太った人でも堂々とメイクしておしゃれしてモデルやってる』という話を聞いた。日本みたいに痩せた人だらけではないらしい。
リオと話し終わってから、私はまた部屋に一人になった。でも、一人ではないと感じた。奈々子がいるからではない。いろんな経験をして傷ついた人がこの世に無数にいる、と感じたから。
でも、それで起きたことを忘れられるわけじゃない。頭の片隅に残ったまま、消えない。これを抱えてどうやって生きていけばいいのか、まだわからない。
修平の部屋からギターの音がする。ものすごい連続で音を弾こうとしているけど、うまくいかなくて練習しているようだ。うるさいけど今は文句言う気になれない。カッパも何か思うところがあって、病気なのに無理して秋倉に来たんだろう。──と思ってたら隣から保坂の声もした。やっぱうるさい。私は平岸家に行った。いつ誰が行っても暖かく迎えてくれる場所に。
あかねがテーブルでお茶を飲みながらヤバいBLコミックを見ていた。そして私をちらっと見て、またマンガに視線を戻した。私はキッチンに行って冷蔵庫を開け、ハーゲンダッツの抹茶を発見した。あかねが来て『私も食べる』と言ってとなりのいちごを取った。アイスを食べながら『この人の絵が綺麗すぎて神』とか『この人は絵はうまくないけどセックス描写がすごい』みたいな話を聞いた。そういうの見てて変な気分にならない?って聞いたら『え?何が?』と真顔で聞き返された。それ以上ヤバい話になったら困るので、深く突っ込むのはやめておいた。あかねは夏のイベントに向けて今新作を仕上げているらしい。その頃には18歳になっているから、うっとおしい規制もなくなるとか何とか。
性って、何だろう。マジで。
私は自分の体験とリオの話と、あかねのヤバいものの楽しみ方を比べて、あまりの違いに考え込んだ。
本来、性は悪いものではないはず。
かといって、楽しいだけのものでもないはず。
老人ホームでおばさん職員にネックレスをプレゼントしていたおじいちゃんに性欲はあるんだろうか?ないと思いたい。でも、あると思う。でも、ない方がいい。ただのほんわかした思い出みたいなものにしておきたい。
こんなことばかり考えたくないな。
夕食まで真面目に英語の勉強をして、食後はあえて嫌いな数学に取り組んだ──と言いたいけど、わけわかんなさすぎて、またヨギナミに聞きに行った。そしてまた『なんで英語は綴りと発音が全然違うの?』と聞かれた。違うっけ?あんま考えたことなかったけど。それから、所長ではなく『おっさん』がレストランに来たという話を聞いてめっちゃ驚いた。何やってんだ橋本。
一回来てみたかったらしいよ。佐加も一緒だった。
おい佐加。私は抗議のLINEを送ったが、すぐに『今度サキも一緒に来る?』と言ってきた。何やってんのマジで。
所長が心配だったので聞いてみたら『今日はずっと意識があったから大丈夫』『森には行ってない』そうだ。
橋本、パスタの名前がうまく読めないんだよ。
つっかえ方が老人だった。
あれを僕だと思われてたら恥ずかしい。
あれ?そういえばヨギナミ、
レストランのメニューの横文字は読めてんの?
と聞いたら『それは失礼でしょ!!』と怒られてしまった。
私は部屋に戻り、数学は諦めて世界史の資料を眺めた。世界史って男の話ばっかりだ。昔の女性は教育を受けてないから文字も書けず、当時生きていた女性達一人一人が何を思って暮らしていたかは記録に残っていない。たぶん『あの男ウンザリだけど従うしかないのよね』とか思ってたんじゃないかと思う。でもそれを表には出せなかっただろうなとも。そもそも男達だって、公文書に本音なんか書かなかっただろう。今ほど本音が公の場にあふれてる時代はないわけだ。そして、本音には汚いことや人を傷つけることも含まれている。
本音の海で溺れている私達。
100年後に、今の時代はどう呼ばれているだろう?想像もできない。でも、起きたことや感じたことは書き残しておきたい。でも私は、思ってることの20%も書き表せていない。もっといろいろあったはずなのに。
もっと書かなきゃ。もっと残しておかなきゃ。
今しかわからないことがあるはずなのだから。




