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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年5月

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2017.5.11 木曜日 研究所

 夜中の2時に、久方創は目を覚ました。

 何かを感じたのだが、それが何なのかはよくわからなかった。窓から外を見たが、特に何か起きている様子はない。いつもどおりの漆黒の闇。何もかも飲み込んでしまいそうな暗さ。そして空には満天の星。

 星でも見に行くか。

 久方は着替えてコートを着て、懐中電灯を持って裏口から外に出た。

 しかし、雨が降っていた。しかも激しく。

 先程空から星が見えたような気がしたのだが、どうやら錯覚だったらしい。戻って寝直そうとも思ったが、何かが、外へ出ろと言っているような感覚があった。

 正面玄関に回り、傘を取ってきて外へ出てみた。

 真っ暗だ。懐中電灯がなければ何も見えないだろう。あったところでほんの手近の木や草が光を反射するだけだ。空気も洗われたように冷たい。先月に比べれば気温は高くなっているはずだが。足元はぬかるんできている。靴に泥がつくだろう。


 僕は何をやってるんだろう。


 自分に呆れ始めた頃、何かが草を踏む音がした。


 クマ?


 慌てて建物に戻ろうとしたが、一緒にすすり泣くような声も聞こえてきた。久方は声の方向を探った。すると、何かが近づいてきた。久方は恐る恐る懐中電灯をそちらに向けた。

 人が立っていた。ずぶ濡れで、髪が顔にくっついていて、目が真っ赤に腫れていて、部屋着のような丈の長いシャツを着ていたが、それも濡れて体にへばりついていた。眩しかったのか、手で目元を隠していたが、それが誰かは久方にはすぐにわかった。


 サキ君!?


 久方は驚いて大声をあげた。そして傘の中に早紀を入れた。


 こんな夜中に何してるの?しかも雨の中を。


 所長ぉ──


 久方を見るなり、早紀の表情が一気に崩れた。そして、


 しょーちょーォー!!


 大声で泣き始めた。子供のようにわんわん声をあげながら。何がなんだかよくわからなかったが、久方は早紀の肩に手を当てて、建物まで連れて行った。タオルで体を拭き、シャツが見ていられない状態で、早紀が震えていたので、暖房をつけて、2階から、不本意ながら結城を叩き起こしてシャツを借りた(自分のものでは早紀は着れないだろう。悲しいことに)。結城に事情を説明すると怒って説教しに行こうとしたが、久方は止めた。様子がおかしいからそっとしておいてと頼んだ。結城は不満そうにしていたが、シャツを一枚投げて、また寝てしまった。

 久方は早紀に着替えてくるように言って、早紀がトイレに行っている間にコーヒーをいれた。今日はどうせ眠れないからいいだろう。しかし何が起きているのだろう?こんな夜中に。しかもこんな天気の中、暗闇の中をうろついて泣いているなんておかしい。きっと何か恐ろしいことが起きているに違いない。何だろう?奈々子さんと何かあったのか?それとも学校で嫌なことでも起きたのか。

 きっと辛い話をされるだろうと思い、久方は心の準備をしてから、コーヒーを運んでいった。

 戻ってきた早紀はまだ嗚咽が止まらないようだった。しばらくコーヒーにも手をつけず、引きつったような音を喉から出していた。それから、


 所長、カフェのyoutubeとか見てます?


 と尋ねた。


 動画は見ない。

 カフェがyoutubeやってるのも初めて知った。


 本当は知っていたのだが、彼氏が作ったものなど見る気もしなかっただけだった。


 でも、それがどうかしたの?


 前の学校で──


 それは、久方の想像をはるかに超えた恐ろしい話だった。仲間にレイプされかけたうえにその時の動画を撮られていて、今になっても中傷されているというのだ。いじめがあったとは聞いていたが、そこまでひどかったとは。

 久方は出会った当時の早紀の不安定さを思い出した。そして、当たり前だと思った。そんなことが起きたら誰だって信じられなくなるだろう。世の中も、人も。


 犯罪じゃないか。


 久方は怒りを感じながら言った。


 警察に行くべきだったんだよ。


 でも私は、あの2人に二度と会いたくなかった。動画も一生見たくなかった。だから逃げることにしたんです。SNSもLINEも全部アカウント消して、世の中から消えて、自分も消えてしまいたいと思ったんですよ。


 消えてしまいたい。

 久方にはよくわかる感情だった。


 だけど、秋倉に来て、田舎で何もないと思いながらそこそこ楽しく暮らしてて、もう大丈夫だろうって思ってたんです。でも、常に不安でした。畠山やノノバンがここまで来るんじゃないか、また同じようなことが起こるんじゃないかって──


 早紀がまた泣き出した。


 やっぱり追いかけてきた。ネットが。私忘れてたんです。どこに逃げてもみんな同じインターネット使ってるからいずれわかってしまうって。とうとう見つかってしまった。私はもう逃げられない。きっと町の人も見てるだろうし──


 町の人はそんなもの信じないよ。

 単なる荒らしだとしか思わない。

 サキ君は美人だから嫉妬されているんだよ。

 親も有名人だし。

 お母さん達はこのことを知ってるの?


 なんとなく察してると思うけどはっきり話したことはないです。


 話した方がいいよ。


 ダメですよ。妙子はロケ中に私に何かあるとすぐに仕事を放り出すんです。それにあんな中傷コメント見せたくない──


 また早紀は激しく泣き出した。久方は落ち着くまで待ってやらねばならなかった。


 もう学校に行けない。


 話せる状態になると、サキはそう言い出した。


 きっとみんな私のこと、いやらしいことを平気でする子だと思ってる。


 そんなことはないよ。高校生がみんなバカなわけじゃない。普通はそんな話信じないよ。

 僕は秋倉高校の生徒を何人か知ってるけど、ヨギナミや佐加や杉浦君や、あと、藤木君だっけ?あと保坂君か。誰一人として人を中傷しそうな人を思い浮かべられない。


 女子からは励ましの言葉が来てるんですよ。全員から。でも男子からは何もないです。


 ショックで何も言えないんだよ。

 ねえ、サキ君はさ、全員から自分が認められないと不安なの?たぶん秋倉高校の人は認めてくれるだろうけど、前の学校のいじめっ子達まで気にするのは時間の無駄だよ。変わるわけがない。今になってこんなことをしてきた理由だってよくよくわからないでしょう。受験生になってストレスがたまった時に、たまたま1年生の頃を思い出したとか?わからないけど考えたってしょうがない。

 他人がどう考えるかなんて気にしなくていいよ。

 言うやつは何もしなくても言ってくるんだ。


 久方は励ますつもりで言ったのだが、早紀はまた激しく嗚咽し始めた。それから、


 勇気から連絡がないんですよぉ。


 と言った。

 久方はそんなのどうでもいいと思ったが、


 たぶんショックでどうしていいかわからないんだよ。


 と、できるだけ穏やかに言った。しかし、こういう時に彼女を支えられない彼氏なんて必要だろうかとも思った。自分だって今、母親の虐待疑惑で混乱しているのに──


 自分の悩みをすっかり忘れていたことに久方は気づいた。

 今はそれどころではない。早紀が泣いているのだから。


 フィナンシェを取ってくるよ。


 久方は穏やかに笑い、いったんその場を離れた。地下室へ行き──棚を思いっきり拳で叩いた。

 許せない。

 いじめのことは聞いていたが、そこまでひどい目にあっていたとは。今すぐその畠山だのノノバンだのとかいう奴を捕まえてなぶり殺しにしたい。久方はしばらく、自分の怒りをおさめるために深呼吸してから、フィナンシェの箱を持って部屋に戻った。

 早紀はDVDの棚を眺めていた。


 あれ、何でしたっけ?古い映画の中で一番いいって言ってた、戦争が終わった頃の。


『我等の生涯の最高の年』?


 それ、見ましょう。今は別世界に行きたいです。


 でも、もっと明るいものもあるよ。

 サキ君の好きなマリリン・モンローとか。


 いえ、今それはちょっと明るすぎるので。


 なぜか一緒に映画を見ることになってしまった。戦争から戻ってきて居場所がなくなりかけている3人の男達の人生を、早紀は目をそらさずにじっと見つめていた。

 久方は、廊下に結城がいることに気づいて、そっと出ていった。


 何してんだよ。


 小声で尋ねると、


 話を聞いて考え込んでた。


 結城も小声で言った。


 何?はじめから全部聞いてたの?


 気になるだろ。

 こんな夜中に女がずぶ濡れで訪ねてきたら。


 いやらしい言い方をするなよ。


 俺は事実を言っただけだぞ。無防備なんだよあいつは。昔からやることが軽率なんだよ。誰がが教えてやるべきだったんだ。世界は危ないんだぞって。


 今そんなこと言ったってどうにもならないよ。

 寝てろよもう。


 久方は結城をおいて部屋に戻った。早紀はソファーに膝を立てて座っていた。長いシャツの裾からきれいな足が出ている。確かにこれは無防備だ。しかし、シャツを着せたのは自分なので文句は言えない。久方は少し離れたテーブルの席に座って、早紀の様子を見ていた。元の服が早く乾かないかなと思いながら。

 外からの雨の音が強くなってきた。早紀がテレビのボリュームを上げた。画面では、男はかつて自分が操っていた飛行機を解体する仕事についた。戦争が終わって必要なくなった多くの機体が、そのまま、戦争後居場所がなくなった男達を象徴していた。それから、手を失った男の結婚式。


 ハッピーエンドでよかったです。


 映画が終わってから、早紀はちょっと笑い、また泣きそうな顔をした。現実に戻ってきてしまったのだろう。


 すみません。もう朝になっちゃいましたね。


 時計を見ると、5時を過ぎていた。


 もう戻らなきゃ。平岸ママ達が心配するし。


 送ってくよ。


 いえ、大丈夫です。


 でも、心配だから。


 早紀は笑いながら、乾いた服を取ってトイレに行った。久方はDVDを元の場所に戻して、それから早紀と2人で平岸家の近くまで行った。


 ありがとう。


 早紀が久方を振り返って薄く笑った。少し疲れているように見えた。


 今日は休むといいよ。


 久方は言った。


 そして、明日からまた普通に暮せばいいさ。


 普通に暮らしてる()()をするんですね。


 早紀が悲しみを含んだ笑い方をした。


 所長。やっと所長のことがわかった気がします。一度何か決定的なことが起きてしまうと──それで深く傷ついてしまうと──その出来事が人生につきまとうんですね。朝目を覚ますたびに思い出して、一日一日を汚していく。でも私達にはどうにもできない。ただ、毎日、耐えていくだけ。それが生きるってことなんですね。


 久方は驚いた。


 僕、そんなふうに見えてる?


 だって、しょっちゅう別世界に逃げてるじゃないですか。今日の私みたいに。

 

 久方が呆然としている間に、早紀はアパートに戻っていってしまった。






 起きたことは変えられないから、

 受け入れるしかないってことだろ?


 帰ってからその話をすると、結城が言った。


 それがわかったんならもう少し行動を大人モードにしてほしいけどな、お前も新橋も。

 ところで新橋ってお前を何だと思ってんの?夜中に艶めかしい格好で訪ねてきてさあ、性別のない保護者か?


 どうでもいいよそんなこと。

 それより、町の噂話になったら──


 噂なんかほっとけよ。これはもう不倫の噂とはレベルの違う内容だろ?こんな話人前で平気でする奴がいたらそれこそイカれてんだよ。ほっとけよそんなバカ。

 お前本当にいいの?都合のいい保護者的お知り合いのままで?少しは男として意識してもらいたいとか思わないの?


 今のサキ君はたぶん、男を受け付けないんじゃないかな。


 久方は暗い目をして言った。


 たぶん、僕だと安心して話せるのは、僕が小さくて、子供っぽくて、男っぽさが全然ないからじゃないかな。


 なんだ、自覚してたのか。


 それくらいわかるよ。今はそれでいいんだ。前自分で言ってたじゃないか。ここはサキ君にとっては秘密基地で、


 ──いつかは離れていくんだぞ?


 結城が強調するように言った。久方は返事をせずにキッチンへ向かった。朝食を作るために。食欲はまるでわかないが、何かしていないと気が変になりそうだ。

 サキにも、自分にも、あの人にも、

 ひどいことが起きすぎる。

 そこで、久方は手を止めた。


 前に、似たような話をどこかで聞いたような気がする。


 しかし、それがいつだったのか、久方は思い出せなかった。もしかして、早紀に出会った頃に夜中に電話で聞いたのだろうか。

 久方は気にしないことにして、朝食作りを再開した。そして、無性に、神戸の父や母と話したくなってきた。子供にとって親は、さっき結城が言っていたように『性別のない守り手』なのかもしれない。何かあったら頼れるのはそういう人達だ。男や女に偏っている性的にギラギラした人達は、子供を傷つけることはあっても守ることはできない。

 あの人はどうだったろう?

 考えるまでもない。

 とても嫌なことだったが、あの人が異常者であることと、暴力で深く傷つけられたことがある人かもしれないということが、つながっているように思えてきた。自分への暴力もそこから生まれたのでは──


 珍しいね〜、お前が卵焦がすの。


 いつの間にか横に結城が来ていた。久方は慌てて焦げたオムレツを皿に乗せた。


 あんま人のことばっか考えんなよ。

 今日は病院もやめとけ。

 橋本が出ても俺は車出さねえぞ。寝てろ。


 結城は言いながら廊下に出ていった。


 そういう自分はどうなんだよ。


 久方はつぶやきながらトースターを開けた。

 パンまで焦げていた。

 結局、久方はほとんど何も食べずに部屋に戻り、ベッドに倒れた。ピアノ狂いは出かけたようだ。静かで、雨の音しか聞こえない。そういえば昨日外に出るときはこの音が聞こえなかった。窓からは星すら見えた。あれは何だったのだろう?まるで、久方を外に出すために空が嘘をついたかのようだ。

 そして、外には早紀がいた。


 やっぱり、何かつながりがあるとしか思えない。


 久方はそう思いながらうとうとした。足元では猫達が行ったり来たりしていた。


 でも、僕がそんなに傷ついた人に見えていたなんて。


 今まで辛いことを何でもかんでも早紀に話しすぎた。

 久方は反省していた。


 もっとしっかりしないと。

 僕が安定していないとサキ君まで──


 そう考えながら、いつの間にか眠ってしまった。






 

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