2017.5.9 火曜日 研究所
母さんとお父さんに何があったの?
昔の夢を見た後、久方創は空中に問いかけた。
お前は何の話をしてたの?
しかし、答えはない。いつも午前中に出てくる橋本が、今日は姿を見せない。しかも今日は火曜日だ。ヨギナミと会う約束をしているはずなのに。
あさみさんに会わないの?
10時頃まで、久方は定期的に叫んでいたが、何の返事も返ってこないので、諦めてパソコンの作業を始めた。
午後、久方は畑の横にシートをひいて座り、景色を眺めていた。これから6月までが、北海道が一番輝く季節だ。緑の草や木々が燃え上がるように成長し、力があふれるのが感じられる。
そういえば、母さんの名前も『緑』だっけ。
昭和の頃にはよくいた名前らしい。久方は夢で見た若い頃の母親の様子を思い出した。父親の話をされて、明らかに動揺していた。力まで暴走させて──もしかして、あの人も父親に暴力を振るわれていたのだろうか。虐待は連鎖するって言うし。
自分もいつか、同じことをしてしまうのだろうか。
風が木々を揺らし、ざあっという音を立てた。久方は目を閉じ、風の音に耳をそばだてた。風の感触、音。目を開ければ視界いっぱいの緑と青。モノクロの森とは全く違う。ここは感覚と生気に満ちている。レタスを植えた場所に、一本だけコスモスが伸びているのに気づいた。向こう側から種が飛んできてしまったのだろう。コスモスが多い場所に植え替えてやろうかと思ったがやめた。ここが植物の選んだ場所だ。こうやって増えていくのが自然だ。
ずっとここに住んでいるのも悪くない。しかし、仕事が続かないだろう。久方は来年以降自分はどうするか、まだ決めかねていた。そろそろ神戸に帰った方がいい。でもまだわからないことがある。何かが起きたのだ。橋本からそれを聞き出すまでは帰れない。それに、あさみもまだ目を覚ましていない。
そうだ、ヨギナミ。
久方は急に思い出して、ヨギナミに『橋本は今日出てこないよ』とメールした。時間はもう3時に近づいていた。そろそろ授業が終わる頃だ。
久方はシートをたたんで、研究所に戻った。2階で鉢植えのハーブの様子を見ていたら、階段を駆け上がる音がした。
所長〜。
早紀だった。
結城さんはいないんですか?
セコマに行くって言ってたからすぐ帰ってくるよ。
久方はセージとローズマリーを少し切って、早紀に渡した。早紀は匂いをかいでいた。1階に戻ると、ポット君がコーヒーを入れて笑顔を表示していた。
久方は夢で見た話をした。
地震起こすんですか。すさまじい力ですね。
早紀が言った。
でも、橋本は何が言いたかったんでしょうね。『警察に行け』って言ってたんですよね。やっぱり暴力ですかね。
その可能性が高いと思う。
そんなこと隠さないでしゃべってくれてもよさそうなもんですけどね。それに、橋本が死んだことと関係が──
インターホンが鳴った。『サキ!サキ!』と叫ぶ声も。
勇気だ。
早紀が立ち上がって走っていった。久方が廊下に近づくと、何か言い合いをしているのが聞こえた。どうやら彼氏は『ここには来るな』と言っているらしい。
そのうち何も聞こえなくなり、戸を開け閉めする音が聞こえた。久方はそっと廊下に出た。玄関には誰もいなかった。早紀は帰ってしまったらしい。
しょんぼりとコーヒーカップを洗っていると、廊下を歩く足音が二重三重に聞こえてきた──かと思うと、結城と、ヨギナミと、なんと佐加まで入ってきていた。
カフェの近くで会ったんだよ。
結城がセコマの袋をテーブルに置いて言った。
コッペパン買ってきたさ!
これ生クリーム入っててうまいんだって!
うるさい佐加の声に、久方は一歩後ろに後退した。ヨギナミは『橋本の棚』に月寒あんぱんを置いていた。まるで仏壇のお供えものだ。
佐加はパンを口に入れたまま、けたたましくカラオケの話をし始めた。早紀の喉を使っていても、奈々子さんは歌がうまく、このままボイトレしていけば10月の秋浜祭ではバッチリ歌えるとのことだった。
でもさ、サキが言ってたんだけど〜、
奈々子さん、結城さんと会って話がしたいんじゃないかって。
結城さん、どうなの?話したくない?
久方は慌てた。いくら佐加でも、その質問はストレートすぎると思ったのだ。結城は奈々子さんのために自分を抑えているというのに。
しかし結城は、
俺も話はしたいんだけどさあ。
あっさり認めた。
でもそれは新橋にとってはよくないことなんだろ?
だねー。サキは結城さんと奈々子さんを近づけたくないんだよね。結城さんのこと好きだからさ〜。
何でもハッキリ言ってしまう佐加。久方は助けを求めてヨギナミを見たが、ヨギナミはなぜか、自分が置いた月寒あんぱんをじーっと見たまま黙っている。何を考えているのだろう?
あ、あのさ、僕今日夢で橋本を見たんだけど──
話題を変えたかったのと、ヨギナミの気をひきたいのとで、久方は早紀に話したのと同じ説明を繰り返した。
地震!?
地震起こすのそいつ?怖くね?
佐加がまた大きな声で叫んだ。久方は軽くのけぞった。
それは、たぶん、暴力だね。
ヨギナミが言った。
だから、おっさんは何も言えなかったんじゃない。私達にそんな話したくないから。
その時、久方の視界が急に暗転した。
気がつくと、久方はモノクロの森の中を走っていた。
どうしてもあの人に会いたい。
本当に何があったか聞かなくては。
なぜあの人があんなおかしな人になったのか、ずっと理由が知りたかった。ヨギナミの言うとおり、父親の暴力のせいで気が狂って、その後の言動を生み出したのだとしたら?しかしそれでも疑問は残る。
なぜ、あの人は橋本にこだわる?
なぜ僕を犠牲にしてまで、橋本を生き返らせようとしたんだ?
母さん!
久方は叫びながら、色も感覚もない森を走り回った。すると、ななめ後ろから、何かの気配を感じた。
緑色だ。
緑色の何かが見えた。
久方はそちらに向かっていった。すると、濃い緑色の服を着た女性が、土の上にしゃがんでいるのが見えた。久方はそっと近づいていった。
私は人間じゃないのよ。
緑色の人が言った。
父が拾った森の精。あの人が勝手に作り出したもの。
だから私達は親子じゃない。
どういうこと?
久方が尋ねると、緑の人が振り返った。それは夢で見たのと同じ、若い頃の初島緑で、激しい怒りの形相をしていた。
母さ──
久方が話しかけた瞬間、初島は久方に飛びかかり、胸ぐらをつかんだ。
お前さえいなければ!お前さえいなければ!
すさまじい声を発しながら。
久方は抵抗できなかった。こうなるのが当然のような気がしたからだ。そうだ、いつかこういう日が来ると思っていた。自分は消えて、本来この体を使うべき人に人生を譲り渡す──
しかし、また強風が吹いて、2人を引き離した。久方は森の木々を超えた遠くの丘まで飛ばされた。
新道先生だな!?
久方は起き上がってあたりを見回した。しかし、誰もいなかった。丘を降りて再び森の中をさまよった。あてもなく、心のおもむくまま進み続けた。
どれくらいの時間が経ったろう。
森の中に、湖があった。その浜辺には砂地があり、そこに小さな子供がいた。色のない景色の中でその子の服の青と肌の色だけがカラーだった。どうやら、砂とバケツで何か作っているらしい。
久方はその子にそっと近づいた。すると、突然湖から大きな波が押し寄せてきて、男の子も、砂の山も、久方も、全て飲み込んで水の中にさらっていってしまった。
あ〜所長!起きた〜!
佐加のけたたましい声で耳が痛くなった。
大丈夫?
ヨギナミがのぞきこんできた。気がつくと、久方はソファーで横になっていた。
後ろには腕を組んで険しい顔をしている結城がいた。
──家だ。
久方はつぶやいた。
あの子が作りたかったのは自分の家だ。
え?何?
佐加が尋ねた。
でも、砂の家なんて一瞬で崩れる。
どうしたの?大丈夫?
ヨギナミが心配そうに尋ねた。
大丈夫、ちょっと変な夢を見ただけ。
久方は起き上がった。すると、スマホに着信があった。
今、先生が初島に会ったそうです。
高谷修平だった。
なぜか若い頃の姿をしていて、先生を見て襲いかかってきたそうです。なんとか追い払ったみたいですけど。
久方さん大丈夫ですか?襲われたんでしょ?
やっぱりあれは新道先生の風だったのか!
入れないようにしたはずなのになぜ?
初島がいる所には、新道先生も入れるんですよ。
修平が、久方の考えを読んだかのように言った。
どうして?
それは俺もよくわからないです。
初島と先生には何かつながりがあるんでしょう。
俺眠いからもう切りますね。今日調子悪くて。
通話は切れた。
今の高谷?何の話してたの?
佐加が尋ねた。
夢であの人に会った。
久方が言った。
でもまた、新道先生に邪魔されたよ。
会わない方がいいからでしょ?
ヨギナミが言った。
でも僕は、何が起きたか聞きたかったんだ。
あの人は、自分を殺そうとした。
久方にはその事実が重かった。
やはり自分は望まれていない。誰にも。
何か聞けた?
佐加が尋ねた。久方は首を横に振った。結城は何も言わずに出ていき、階段を上がる足音がしたかと思うと、リストの『ため息』を弾き始めた。
こんな時にピアノ?何考えてんのあいつ?
佐加が天井を見上げながら目元を歪めた。
久方は先程言われたことを思い出していた。
『私は森の精。あの人が作り出したもの』
どういうことだ。あの人って誰だ?父親のことか?
所長、大丈夫?やっぱ顔色悪いよ?
佐加が言った。
大丈夫だから、もう帰って。頼むから。
久方は懇願した。佐加は何やらブツブツ言いながら帰った。ヨギナミは、少し久方の方を見てから、友達の後を追った。
早紀と話したい、と久方は思った。しかし、話してはいけないような気もした。
ピアノがうるさいので、久方はまた外に出た。何が起きても、景色は、山は、森は、何も変わらずにそこにあった。ちょうど夕日が草を輝かせ、風がその光をあちこちに散らしていた。空は不思議なピンク色と紫色をしていた。
さっき、死んでしまえばよかった。
久方はさっきのことを思い出した。あの人は未だに自分の死を望んでいる。感覚のない森で、つかみかかってきたあの人の手の感触だけは、強烈に残っていた。
いっそ、この大自然の中に消えてしまいたい。
そう思った時、スマホが鳴った。
修平に聞きました。大丈夫ですか?
早紀だった。
久方はその文面を何度も何度も読み返した後、『大丈夫』と返事をし、夕日の写真を撮って早紀に送った。それから、何もなかったかのように研究所に戻り、夕食を作り始めた。今日はハンバーグのパイ包みを作ろうと思っていたのだ。
手作業をしているうちに、先程までのゆううつな気分は薄れていった。食事を終える頃にはなんとか落ち着いたが、やはりあの人に起きた不幸を思うと心が痛み、ベッドに入っても忌まわしい想像に悩まされて、なかなか眠ることができなかった。
何か知っているのではないかと、何度も橋本に呼びかけてみたが、彼も話したくないのか、頑なに姿を現さなかった。




