2017.5.9 1980年5月
橋本は重い足取りで学校へ向かった。門の所で髪の色を見た後輩達が何か叫んだり、笑ったりした。絡んでくる先輩がいないだけまだマシだと思いながら中に入っていくと、校内の空気はいつもより重く、よどんでいるようだった。
教室には初島がいて女子達と話をしていたが、橋本が来たのを見て初島だけが橋本に近寄ってきた。後ろの女子達は、好奇心に目を輝かせながらこっちを見ていた。
「おはよう」
初島が言った。
「おはよう」
橋本は言いながら初島を見た。いつもと何も変わらない制服。細い手足。
「ずいぶん来てなかったじゃない。卒業する気あるの?」
「どうでもいいんだよそんなことはよ」
橋本は投げやりに言った。本当にどうでもいいと思っていた。
「どうでもいい?今時高校も出ないでどうやって就職するの?」
「就職なんかしない」
橋本は言った。
「しない?大学に行くの?」
「行かねえって」
「じゃあ、どうするの?」
「どうでもいいだろ。お前はどうすんだよ。嘘ばっかついて」
「嘘の何が悪いの?」
初島が平然と言った。後ろの女子達がきゃあと言い、まわりのクラスメート達もこちらを見た。
「何が悪いって、何も起きてねえのに何かあったようなことを言うなって言ってんだよ」
「何も起きてないって、本当に言える?」
初島が言った。意地悪な笑いを浮かべながら。
「起きてねえものは起きてねえよ」
「でも起きたのよ」
初島はさらに言った。
「私が起きたって言ったらそれは起きてるの。マザーアースが言ってるんだから間違いないのよ」
「お前は狂ってる」
橋本は初島の目を見てはっきり言った。すると初島は、
「あははははは!」
わざとらしい笑い声をあげた。その声は異様だったので、クラスのみんながゾッとした。
「狂ってる!狂ってる!」
初島は言いながら数歩歩き、くるっと回った。
「そう思う?でもそれは誰のせいだと思う?」
初島はそう言って教室を出ていった。女子達がまたひそひそ話を始めた。ああ、あいつら、初島がおかしくなったのは俺のせいだと思ってるな。橋本は思った。
「橋本、ちょっと来い」
新しい担任の先生が橋本を呼び、職員室まで連れて行った。他の教員達が、とがめるような目で橋本の髪を見た。まるで見せしめのようだ。
「なぜ学校を休んでるんだ?」
「出席日数を計算してるから大丈夫です」
「それにしても休みすぎだろう」
先生は出席簿を見ていた。
「このままだと留年するぞ」
橋本は何も言わなかった。それが何だ、どうでもいいじゃないか。
「お父さんが心配して電話をかけてきたぞ」
「余計なことを」
橋本は顔をしかめてつぶやいた。
「親が子の心配をするのは余計なことか?」
新しい担任は古臭い眼鏡をかけ、半分ハゲた頭をしていた。前の担任よりは話しやすそうな雰囲気だったが、それでも橋本は信用できないと思っていた。
「話がそれだけなら俺は帰ります」
「待て、話は他にもある」
逃げようとした橋本の腕を担任がつかんだ。
「前の先生にも聞いたが、初島とつきあっているのか」
「つきあってません。なんの関係もありません」
「不適切な関係でもない?」
「俺は何もしてません。初島が嘘つきなだけです」
「初島はなぜそんな嘘をつくんだと思う?」
「俺は知りません。あいつの親父に聞いてください。原因はあいつです」
うっかり言ってしまってハッとした。
「初島のお父さんと何かあったのか」
先生が尋ねた。橋本は迷った。あの日見たものをいっそ打ち明けてしまおうかと。でも駄目だ。あんなおぞましいことをここで説明できない。さっきから他の教師が殺人犯でも見張るような目でこちらを見ているのを、橋本は肌で感じていた。
「俺は関係ありません」
橋本に言えたのはそれだけだった。
「あいつの親父に聞いてください」
「そうか」
先生は何やらメモに書いた後、
「俺はお前を信用するよ」
と言った。
そんなわけないだろう。橋本は思った。でも、他の、自分をあからさまに敵視してくる先生達とは、違うタイプの人間らしいなとは思った。
教室に戻ると、新道隆と根岸菜穂、菅谷誠一がそろって近づいてきた。
「先生に呼ばれたんだって?」
新道と菜穂が尋ねた。『なんでもない』と橋本は答えた。それから、教室に初島がいないことに気がついた。
嫌な予感がした。
そして、それは的中した。
数分後、初島が怒りの形相でやってきて、橋本の前に立った。
「橋本」
とても低い、怒りのこもった声だった。
「何だよ」
「ちょっと来なさい」
「今勉強で忙しいから──」
「いいから来なさい!」
とんでもなくきつくて大きな声が教室に響いた。橋本が顔をあげると、そこには、般若のような顔の初島がいた。
橋本は仕方なく立ち上がり、一緒に廊下に出た。
「あんた、先生に何を話したの?」
「何も話してねえって」
「なんで私の父が出てくるの?」
「人の話勝手に聞いてたのか?」
「先生に聞かれたのよ。『お父さんと仲が悪いのか?喧嘩でもしたのか』と」
あの馬鹿教師!
橋本は舌打ちした。本人に聞いてどうする!?
「何よ。私が嘘をついたから?その仕返しってわけ?」
初島は怒っていた。顔が興奮で赤黒くなっていた。まるで鬼のようだ。
「やめろよ」
橋本は言った。
「やめる?何を?」
「お前が父親とやってることだよ」
赤い顔の初島が、一気に青ざめた。
「もうやめろ。警察に行け。何されてるか話せ──」
突然、地面が大きく揺れた。
「わあっ!」
「キャー!」
教室から叫び声と、机が倒れる音がした。天井がゆがみ、ギシギシと音を立て、窓も今にも割れんばかりに揺れた。橋本は立っていられなくなり、その場でうずくまった。
揺れがおさまった時、初島はいなくなっていた。
「橋本、大丈夫か?」
教室から菅谷が出てきた。
「なんでもない」
橋本は立ち上がった。
「今のは初島の仕業だな。とんでもない力だ」
菅谷はそう言いながら廊下を歩いていった。
「もう授業始まるぞ。どこ行くんだよ」
「便所」
菅谷はいなくなった。橋本が帰ろうかどうか迷いながら教室に戻ると、そこでは根岸菜穂が新道にしがみついて泣いていて、新道は『もう大丈夫、大丈夫だからね』としきりになぐさめていた。クラスの全員が2人を見て笑い、からかっていた。
なるほど、菅谷はこれを見たくないから出ていったんだな。
橋本はそれに気づいてニヤリと笑った。でもすぐに初島のことを思い出した。人に秘密を知られてショックを受けたに違いない。
「橋本くぅん」
泣き顔の菜穂が声をかけてきた。
「みどりちゃん、どうしたの?どこへ行ったの?」
「知らねえよ」
橋本はそっけなく答えた。でも、内心、探しに行った方がいいかなとも思っていた。あいつはこれからどうするだろう?言われたとおりにするとは思えない。でも、あんなことだけはやめさせなくては。
橋本は自分の席に戻り、教科書を読むふりをして、新道と菜穂の様子をうかがっていた。この2人の仲はクラスではほぼ公認のようだ。みんながからかいつつも楽しく見守っているという様子だ。
幸せな奴らだな。
橋本は彼らの明るさを見ながら、自分の暗さを思った。一体なぜこんな風に生まれついたのだろう?
そのうち担任の先生がやってきて出席を取り、『初島は風邪で休み』と言った。またクラスの女子がひそひそ話を始めたが、先生に注意されてやめた。その日、橋本は珍しく、授業が全て終わるまで学校にいた。




