2017.5.5 金曜日 研究所
病院で、橋本は桜の写真をあさみに見せようとしていた。目を閉じたままだから見えないだろうに。そして、ヨギナミのことは心配しなくてもいいと言った。その後は何も言わずにじっと座ったままだった。
昨日ヨギナミとお花見したんでしょ?
私も行きたいです!
昼過ぎ、早紀が平岸ママのバスケット(中にはからあげとおにぎりが入っていた)を持って研究所に現れた。久方は『もう昨日見てきたんだけどな』と思いつつ、早紀が行きたいのならと、また森に行くことにした。
今日は暑い。5月でこの気温の上昇は普通ではない。
夏みたいだなあ。
久方はつぶやいた。雲が晴れて日差しは強く、草原の草の一本一本がきらめいていた。立ち止まって町の方向を振り返ると、雲の切れ間から降りた光が駅のあたりに光る空間を作っていて、まるで町を祝福しているかのようだ。
こういう光景を見た時だけ、神は本当にいると思える。
久方は言った。
所長がそういう風にしてるの、久しぶりに見ました。
早紀が言った。なぜかスマホを久方に向けていた。彼氏のなんでも撮る癖がうつったのだろうか。
そういう風って?
久方は手でスマホを下ろすように合図した。早紀はスマホをポケットにしまいながら、
所長が景色に見とれている所です。
昔はほぼ毎日そんな感じだったのに。最近は全然見てなかったと思って。
モノクロの森とか別なことに気を取られて、景色とか自然を見てなかったんじゃないですか?
そんなことない。僕は毎日自然を見てるよ。
サキ君が来なくなっただけ。
しばらく無言で草の道を歩いた。途中で、同じ方向に向かっている町の人と合流した。その中にはなんと、町長の一団とスマコンがいた。
まあ、奇遇ですこと。
スマコンは2人を見て優雅に微笑んだ。なぜか着物を着て、足元だけ山歩き用のスニーカーをはいていた。
山行く格好じゃないからそれ。似合ってるけど。
早紀が呆れながら言った。
あら、ありがとう。
でもわたくし、着物には慣れていますから。
この格好で家事もできるし、
悪霊と戦うことだってできてよ?
それ怖いからやめて!
スマコンと早紀が話している間、町長が久方にあいさつした。高そうな眼鏡をかけ、上品で、どこから見ても立派な紳士だ。連れている男達(スマコンによると、秘書と、町の重役達)はみんなどこか間抜けな様子をしていたが。そして、かなり年配のおばあさんがこちらを鋭い目で見ているのも気になる。
よかったら一緒に飲むかい?いい酒があるよ。北の誉を持ってきてるんだ。それに、松枝さんが作った弁当も量が多いから、一人くらい加わっても大丈夫だろう。
町長が言った。
いい考えだわ、お父様。
スマコンが言って、サキが『お父様って』と小さくつぶやいた。
せっかくですが、僕はお酒が飲めないし、じっくり桜を見たいので。サキ君は?
どんちゃん騒ぎに巻き込まれたくない久方は言った。早紀も、
平岸ママのおにぎりがあるから大丈夫です。
と言った。とはいえ、行き先が同じなので、桜並木までは一緒に歩くことになった。年配の男達はやれ暑い、やれ温暖化だ、やれ環境がどうのと言いながら、しきりにタオルで汗をふいていた。早紀が久方に近づいてきて、
あのおじさんのハゲが日光で光っておもしろすぎるんですけど、どうしたらいいですか?
と、今にも吹き出しそうな顔で言った。久方は『そういうことを言うのはよくないよ』と言いながら、町長の方をちらちらと見ていた。
あれこそ一人前の大人だ。
ちゃんと社会に属して、組織を率いていて、堂々としている。今日のようなオフの日もきちんとして見える。着ているものも立派そうだ。どこかのブランドなのかもしれない。
ああ、もっとまともな人間になれたらなあ。
久方がそう思っているうちに桜並木に着いた。昨日より人が多い。『クマ注意』の看板も気にせず、人々は桜に誘われるようにここに集まってくるのだ。
町民の何人かが久方の方を見てひそひそ話をしている。きっとあの噂話だ。できれば誰もいない時に来て、早紀と2人きりで桜を見たかった。しかし、町長達は先に来ていた場所取りのおばさん達と合流し、弁当を広げながらやいのやいのと言い出した。
早紀は桜を動画に撮っているようだ。舞い散る花びらの雨の中、木漏れ日に照らされた早紀は本当に美しい。目も、表情も輝いている。花びらを追うようにクルクル回っている様子を見ているうちに、久方の胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
ああ。
久方はうっとりした。
やっぱり僕は、サキ君のことが好きなんだ。
いや、愛しているんだ!
久方は早紀を熱っぽい目で見ながら思った。早紀に彼氏がいることも、自分のダメさ加減も、この瞬間は全て忘れていた。
いいんだ。もう何もかもどうでもいい。ただ、早紀のそばにいられればいい。それがあと一年足らずで終わるとしても、できるだけ──
あら久方さん。いけないわ。
そんなあからさまに女性を見つめてはダメよ。
あたりに向かって大声で『好きだ!』と叫んでいるようなものでしてよ?
スマコンがそっと近づいてきて耳打ちした。久方の顔が真っ赤になった。
どうしたんですか?所長。
早紀が近づいてきた。
いつもなら桜に夢中になるのに、今日は変ですね。
昨日も来たからだよ。
久方は言い訳をした。町長達のシートの隅に入れてもらって、おにぎりを食べ、多すぎるからあげをスマコンのだし巻き卵と交換した。町長とその部下達は、高い酒を飲んですっかり酔っ払っていた。こちらにからんできませんようにと思いながら、久方はずっと、ものすごい勢いで食べる早紀を見ていた。こうして一緒にいられる時間ももう残り少ないのだ。大切にしなくては。
久方さん。最近幽霊の様子はどう?
スマコンが尋ねてきた。
あいかわらずあさみさんを見舞ってるよ。
久方は答えた。
そう。幽霊は、カルマから外れた存在だから、元の輪に戻るために、やり残したことと折り合いをつける必要があるのよ。わたくしが思うに、『人と接する』ということが、その方のカルマなのだわ。生前は人に会っていなかったのでしょう?
友達には会ってたけど、世の中から拒絶されているとは思っていたらしいよ。髪の色のこともあるし。
そう、そこなのよね。
せっかく花見してるんだから幽霊の話やめない?
早紀が最後のおにぎりをかじりながら言った。
新橋さん。ものを食べながらしゃべってはダメよ。
それ所長にも言われたことある。
まあ、まるで家族のようね。
スマコンが笑って言うと、久方の顔がまた赤くなった。
でも新橋さん。あなたの幽霊もカルマの輪に戻す必要があることに変わりはないわ。そのために生前できなかったことを洗い出さなくては。
もうわかってるって。歌うことと、理解されること。
早紀は言いながら最後のからあげを口に放り込んだ。
そのためには少々犠牲を払う必要があるわ。おわかり?
わかってるって。私が体貸さなきゃいけない。
嫌なんだけどさ。
そういえば、結城さんって花に興味ないんですか?
今日もピアノ?
今日どころかいつでもピアノだよ。今日も朝からリストの『鬼火』を弾いてたよ。それから、大好きな月光の第3楽章もね。
久方が笑うと、早紀がふぅーと息を吹いて苦笑いした。するとスマコンが、
今何かがわたくしに語りかけてきたわ。新橋さんの幽霊には結城さんが必要だと。
と、空中に視線を向けながら言った。
またハイヤーセルフのお告げかい?
こういう娘に慣れっこの町長が話しかけてきた。
ええ、そうですわ。結城という人が、この問題のカギを握っているようですの。
そんなの言われなくてもわかってるって。
早紀がうんざりした様子で言った。
結城さんは絶対奈々子のこと好きだもん。奈々子だってそうだろうし。
そうなの?
久方が聞き返すと早紀は、
間違いないですよ。
と言った。それから、
せっかく花見に来てるのにそんな話やめましょうよ。所長、またあっちの木の方に行ってみましょう。今なら写真撮ってる人も少ないですよ。
久方は早紀と一緒に、言われた方向に行ってみた。確かに人はいなかった。みんな食べ物に夢中になってしまい、少し外れた場所にある桜のことは忘れているようだ。久方は花を見ながら、人が苦手な自分を早紀が気遣ってくれることを嬉しく思った。しかし、いつまでもこのままではいけない。いつか世の中に出て、人前でも堂々としていないといけないのだ。
ちょっといいかね?撮らせてもらっても。
町長が望遠レンズのついたカメラを持って、にこやかに近づいてきたかと思うと、桜の写真を撮り始めた。それから、近づいてきた娘、スマコンの写真も撮った。スマコンは自然に優しく微笑んでいて、そのまま2人は並んで歩いて、元の仲間の所へ戻っていった。その流れがあまりにもスムーズで自然だったので、久方はしばしぼんやりとしてしまった。
今僕は何を見たのだろう?仲のいい親子の幻?
所長!一緒に撮りましょう!
早紀が久方に飛びついてきて、桜がきちんと写る所まで引っ張っていった。ふざけた自撮り画像のような写真がいくつか出来上がった。2人とも顔があまりに間抜けだったので、お互いをバカにして笑い合い、桜の下で変な写真を撮り合って楽しい時間を過ごした。
あなた達、本当によく似てるわね。
スマコンが近づいてきた。
桜があなた達を見ながら笑いざわめいているわ。
知っているかしら?
木々はお互いに話ができるということを。
もちろん知ってる。僕もよく聞くから。
久方は当然のことのように答えた。
そうなんですか?
早紀が驚いてあたりを見回した。
それも、お母様から受け継いだ能力よ。
スマコンは優雅に笑いながら、酔っぱらうおじさん達の所へ戻っていった。
あの人の力。
久方はスマコンの背中をじっと見て立ち止まっていた。
気にすることないですよ。
スマコンはたまに意地悪するんです。
早紀が久方のコートの袖を引っ張った。
そろそろ帰りましょう。コーヒーが飲みたいし、結城さんにも説教しないと。
説教?何を?
こんな桜がきれいな季節に、部屋にこもってピアノばっか弾いてるなんておかしいですよ!
早紀は早足で歩き出した。ああ、また結城かと思いながら桜並木を抜けるとき、町長達を見た。仲間はすっかり酔っ払って、そのうち何人かはだらしなく寝っ転がっていたが、町長は姿勢よく座ったまま酒をちびちび飲んで、娘が何か話すのを聞いていた。どこまでも絵になる人だなと久方は思った。
研究所では、結城がまだベートーベン三昧をしていた。猫達は何も気にせずにカウンターの上やソファーに丸まっていた。2人が帰ってきたのを見て、ポット君がすぐにコーヒーを持ってきた。
所長。
コーヒーを一口飲んでから、早紀が尋ねた。
所長が一番やりたいことって、何ですか?
急に聞かれたので返答に困っていると、
幽霊の話で思ったんですよ。生きているうちにやりたいことをやっておかないと、奈々子達みたいに幽霊になっちゃうかもしれないって。だから、生きているうちに、やりたいことをやっておかないと!
サキ君は何がしたいの?
それがわからないんですよぉ〜。
早紀はだらしなくテーブルの上に伸びた。久方は笑ってしまった。
大丈夫。僕も自分が何をしたいかよくわかってないから。
でも幽霊にはなりたくないですぅ〜。
普通はならないから大丈夫だよ。奈々子さんや橋本だって、あの人が呼びさえしなければ戻ってこなかったんだから。
それなんですけど。
早紀が起き上がって真っ直ぐ久方を見た。
呼び出したってことは、その前にどこかにいたってことですよね?つまり、初島が呼び出さなくても、幽霊達は未練を持ったままどこかに浮かんでいたってことじゃないですか?
それは──そうかもね。
だからそれが嫌なんですよぉ。未練なく人生終えたい。
でもそれは難しそうだな。何も後悔なく死ねる人なんてこの世にどれくらいいるんだろう?事故で急に死ぬ人もいるし。
しばらくそんな話をしてから、早紀は帰っていった。
やりたいことか。
久方は早紀がいなくなってからつぶやいた。
あるにはあるけど、それは無理なんだよな。
お前ほんと好きね、親戚のおじさんやってんの。
花見の話を聞いた結城は呆れつつ笑っていた。
それにしてもあいつ、彼氏はどうしたんだ?
そろそろ別れんじゃない?
そんな話はやめようよ。
お前ほんとに気持ち伝えないつもり?もうバレてて遊ばれてるだけかもしれないぞ?利用されてるだけかもしれないけど。いいの?それで。
いいんだよ。サキ君がよければ。
とにかく一緒にいられればいい。知られる必要はない。重荷になるくらいなら。
夕食後、久方は外に出て空を見上げた。星がたくさん見える。広大すぎる世界の中に一つだけ、確かなことを見つけた気がした。
早紀への愛と、愛することができる自分だ。
それでいい。たとえ思いは通じなくても。
久方はしばらくその場にとどまり、星空と戯れていた。星の一つ一つの瞬きが、それでいいと言ってくれているように思えた。星々は何も否定せず、久方を迎え入れてくれていた。
その夜、久方は、何の夢も見ずにぐっすりと眠った。




