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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年5月

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2017.5.4 木曜日 ヨギナミ 研究所

 ヨギナミは『研究所に来ない?』というメールを受け取った。所長からだった。ちょうどバイトも休みだったので、朝食を食べ、食器洗いをし、数学の勉強をしてから研究所に向かうと、林の道で保坂に会った。一緒に建物に入ると、1階にはおっさんとポット君がいて、ちょうど、ポット君がモップでおっさんを殴っている所だった。


 こいつ俺を敵だと思ってんだよ!


 おっさんは外に逃げていき、ヨギナミは慌てて追いかけた。林の道で荒い息をしているおっさんに近づくと、


 今日も、創が、出てこねえ。


 と言われた。


 え?さっきメールでここに来いって言われたよ?


 とヨギナミが言うと、


 やられた。

 あいつ始めから今日は俺に譲って逃げる気だったんだな。


 それから、


 創が好きな場所に行ってみようと思ってんだけど。


 と言った。


 好きな場所?


 森の中の桜並木だよ。一緒に花見すっぞ。


 おっさんが笑ったので、ヨギナミもつられて微笑んだ。

 2人は森に向かって歩いていった。前方に同じ方向に向かう人影がちらほら見えた。『同じこと考えてる奴がいるな』とおっさんが言った。実際、森の中の桜の下には、町民が何人も集まっていた。彼らはおっさんとヨギナミを見て、あいさつしたり、奇妙な笑いを浮かべたりした。

 きっと母と所長さんの噂を知ってるんだ。

 とヨギナミは思った。


 きれいだろ、桜。


 おっさんが花を見上げながらつぶやいた。


 あさみを連れて来たかったな。


 お母さんは桜好きじゃないよ。


 なんで?


 前に言ってた。すぐ散るのが嫌なんだって。死を連想させるから。


 花は何だって本来はすぐ散るもんなんだよ。今は食いもんでも花でも何でも長持ちするようにできてるけどな、本来はすぐ腐るもんなんだよ。

 人間だってそうなんだ。みんな忘れてるだけ。若い頃なんて一瞬で終わる。

 いや、そんな話はいいよ。花を見ろ。写真取らねえの?


 ヨギナミは携帯で写真を撮り、杉浦と佐加に送った。佐加からは『今昼飯の準備中』と、切りかけの刺し身の写真が送られてきた。


 そろそろスマホに替えたほうがいいんじゃないか?


 おっさんがヨギナミの携帯(レストランで貸されたもの)を見て言った。


 平岸パパにも言われたけどいいの、高いから。


 そうか。俺は創のお気に入りの木を見に行くよ。


 私も行く。


 2人は桜並木をはずれて、森の奥へ向かった。道はまだ雪が残っていて、誰かが歩いた足跡が残っていた。


 創と同じ好みの奴がいるな。


 2人はその足跡をたどり、時々よろけたりぬかるみにはまったりしながら進んだ。このあたりにはもう人はいない。ただ、雪と木々があるだけだ。


 ここだな。


 ひときわ大きな大木の前で、おっさんは立ち止まった。その木は他のものに比べて、異様なほど大きく、太かった。おそらく高さも他の木々を突き抜けて上に飛び出しているだろうと思わせるほど。


 おかしいよな。他の木とは種類が違うのか?

 なんでこいつだけ大きいんだ?


 すごいねえ。


 物語に出てきそうだろ。


 おとぎ話みたい。


 創、出てこねえかな。


 2人はしばらく待ってみた。


 出てこねえな。


 おっさんがつぶやいた。


 またモノクロの森に行っちまったのか。こっちはわざわざ本物の森に来てるっていうのに。


 やっぱりまだ生きてたくないのかな。


 ヨギナミが言った。


 私思ったんだけど、所長さんって、生きていた頃のおっさんに似てない?


 おっさんがヨギナミを見た。


 自分の存在を否定してる。自分は絶対世の中に受け入れられないと思ってる。それで一人で廃ビルとかモノクロの森にこもっちゃう。


 ヨギナミが言うと、おっさんは目をそらして、大木の裏に回っていった。


 そうかもしれない。


 声が聞こえた。


 おっさんは、本当はどうしたかった?


 ヨギナミが尋ねた。


 わからねえな。


 おっさんが木の裏から出てきた。困ったような、泣きそうな顔をしていた。


 本当にわからねえ。

 あの頃の俺にできることなんてなかった。


 それはわからないよ。世の中は変わったから。生きていたら普通のおじさんになっていたかもしれない。奥さんや子供だっていたかもしれない。もしいなくても、趣味を満喫して一人楽しく暮らしていたかもしれない。昭和生まれのオッサン達がやっているみたいに。


 おっさんは大木の幹に手を当てて、しばらく指で叩くような仕草をしていた。それから、


 そんなことは、思いつきもしなかった。


 木の方向を見つめたままつぶやいた。


 あの時は、そんなことを考える余裕は全くなかった。


 何が起きたの?


 帰るぞ。


 おっさんがヨギナミの横を通り抜け、もと来た道を戻ろうとした。すると、急に立ち止まり、


 あいつ、肝心な話になると逃げるんだな。


 と言った。所長が戻ってきたようだ。


 所長さん。


 ヨギナミが話しかけた。


 またモノクロの森に行ってたの?


 自分を探しに行ったんだ。


 所長は振り向いて答えた。目つきも顔つきも、元に戻っていた。


 僕には必要なことなんだ。だから何も言わないで。


 ヨギナミの不安そうな様子を読み取ったのか、所長は笑ってこうも言った。


 僕は死んだりしないから心配しないで。

 桜を見よう。

 ここは僕が見つけた場所なのに、勝手に教えるなんてひどいな。


 所長は桜の方向に歩き出した。ヨギナミもついて戻った。



 


 すべてが終わった今から見ると、おっさんの行動は不可解に思える。でも、その当時がどんな時代で、何に悩んでいたのか、その時のその人にしかわからない。

 だけど、生きていたらいろいろ違ったのに。

 ヨギナミは帰ってからもずっとそのことを考えていた。おっさんが死ななかったら、たぶん幽霊にもならなかったし、自分達に会うこともなかっただろう。でも、髪の色をどうこう言われる時代は終わるし、マイノリティーへの理解も、不完全ながら進むのだ。おっさんが古本屋にこもって生き続けたとしても、誰も責めなかったはずだ。

 もったいない。

 死ぬのは、もったいないことなんだ。

 ヨギナミは思った。それから、自分の人生も辛いことばかりなのに『死にたい』と思ったことは一度もないということに気づいた。ヨギナミの世界にはそういう発想がなかった。人生は母の世話とバイトで満ちていて忙しく、余計なことを考える暇はなかった。生きるために、やるべきことをひたすらやっていただけだ。生き抜くことが全ての大前提だったからそんなこと思いつきもしなかったのだ。

 そうだ。『死ぬ』なんて言葉は、本来必要ないんだ。

 母が入院し、世話をする時間がはぶけた今、やるべきことは勉強だ。なんとしても公務員試験に受かって、安定した収入を得たい。他にやりたいことはない。

 部屋で勉強していると、ドアがノックされた。

 開けたら早紀だった。


 さっき、所長に会ったって言ってたよね。


 それがどうかした?


 ヨギナミは早く話を切り上げて勉強したかった。


 私今日カフェに行ってて、研究所行けなかったんだよね。


 そう。


 所長、私のこと何か言ってなかった?


 何も聞いてないと言うと、早紀は黙ってドアを閉め、去った。


 何だったんだろう、今の……?


 ヨギナミは不思議に思いながらも勉強に戻った。1時間ほど集中して、ふと気が緩んだ時、


 所長さんは、これからどうするんだろう?


 と思った。本人は生きたくないとよく言っているようだが、所長だって傍から見ればとてもいい暮らしをしてそうだ(どうやって収入を得ているかは知らないけど)。たぶん、本人が思っているのと、傍から見たのとでは、違うのだ。


 もし、遠い未来から今の生活を見たら、

 どんなふうに見えるんだろう?


 ヨギナミは考えてみた。でも、遠い未来に自分が何をしているのかがうまく想像できない。働いてる?結婚して子供がいる?

 昔は杉浦と結婚するものだと思っていた。でも杉浦は自分に興味がない。ヨギナミはそこで未来を考えるのが嫌になった。

 勉強に戻ることにした。でも、遠くから見た人生と自分が体験する人生はあまりにも違うということがわかってきた。ヨギナミはよく母の不倫で責められたり、逆に『一人でお母さんの面倒を見て偉いわね』と言われたりしてきたが、別に自分が悪いとも、偉いとも思ったことはなかった。外の人が勝手に思っているだけで、自分はただ生きて、やるべきことをやっていただけだ。


 おっさんも、できることはやってたのかな。

 それでも、死んじゃったのかな。


 やはりそこが気になってしかたないのだが、本人が話してくれないのだから仕方ない。

 ヨギナミは勉強に戻るよう努力した。

 自分の未来のために。




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