2017.5.2 火曜日 研究所
おかしい。
火曜日なのに、橋本が出てこない。
しかも、ポット君が猫じゃらしを振り回しながら猫達を追い回すようになった。おかげで部屋のものは何度もなぎ倒された。ポット君は今、充電と言う名の反省モードに入り、久方は猫じゃらしを2階の引き出しに隠した。
なんでいきなり猫を追いかけ始めたんだろう?
今までこんなことなかったのに。
岩保に問い合わせしても『誰かがやっているのを見て学んだのだろう』と言うだけ。猫と遊ぶようなプログラムはしていないから、勝手に学んだのだろうと。
久方はせっかくできた『自分の午前』を、散らばったモノやひっくり返った家具の片付けに費やした。ピアノ狂いは全く手伝う気がない。今日もリストを弾いている。超絶技巧が嫌味ったらしい。
全て片付け終わってからスマホを見たら、身に覚えのないやり取りが残っていた。橋本とヨギナミだ。
たまには創のとこに遊びに行けよ。
じゃあ、明日行ってみる。
とあった。久方は慌てて時計を見た。まだ12時前だ。学校が終わるのは3時頃のはずだ。まだ来ないだろう。しかしなぜ橋本は自分とヨギナミを会わそうとするのだろう?この前もそうだった。何を考えているのだろう。
何か用意しておこうかと考えていると、インターホンが鳴った。頼んでいたマリーゴールドの苗と、野菜の種が届いた。久方は入口の横のチューリップの近くに、等間隔でマリーゴールドを植えた。それからキッチンに行ってパスタを茹で、ピアノばかり弾いている結城を呼びに行った。
3時過ぎ、ヨギナミが来るのを玄関で待っていた久方は、早紀と、彼氏が一緒なのを見て緊張した。この前『サキに近づくな』と言いに来ていたことを思い出したからだ。一体何をしに来たのだろう。
ちょっと早いけど、キュウリの種まき手伝う?
久方はいきなりそんなことを言ってしまった。女の子2人が野菜の種を見ながらわいわい走り出したのを見送ってから、高条が、
サキの次はヨギナミですか?
と言って、怖い目で久方をにらんだ。久方はそれには答えず(ものすごく怖かったので)慌てて早紀達を追いかけた。
高条はみんなが畑に種をまく所を動画に撮っていた。ずっと監視されているようで怖いなと久方は思っていたが、早紀とヨギナミは慣れてしまっているのか、何も気にしていないように見えた。久方はなるべく画面に入らないようにしながら、明日以降に苗を植える場所を掘り返していた。
たまに土に触れるのっていいよね。
ヨギナミが言った。
うちも昔は家のまわりにミニトマトを植えてたんだけど、お母さんが『貧乏くさいからやめろ』って言って抜いちゃったの。
抜いた?何それめっちゃ怖い。
早紀が叫んだ。
機嫌が悪かったんだよ。
にしたって怖いって。
なんでミニトマトが貧乏くさいの?
高条が尋ねた。久方もそこは疑問に思っていた。
たぶん人目を気にしてただけだと思うよ。
あんなとこ誰も来ないのに。
ヨギナミが言った。種まきはひととおり終わった。北海道の5月。これから一番いい季節がやってくる。今もう自然は燃え上がるように成長し始めている。もう少し外にいて、その息吹を感じていたい──と久方は思ったが、高条が『腹減った。クッキー持ってきたから食べよう』と言ったので建物に戻ることになった。
しかし、そこにはピアノ狂いがいて、
よりによって、あのトッカータを弾いていた。
早紀は裏口で立ち止まった。一瞬体を震わせたかと思うと、ものすごい勢いでどこかに走っていった。久方は追いかけた。早紀は地下の食料庫にいた。床にしゃがみこんで泣いていた。
しかしそれは早紀ではなかった。
奈々子さん。
久方は声をかけた。
辛すぎる。辛すぎるの。
奈々子は言った。
私はナギに悪い影響を与えてる。もう何もかも忘れて自分の人生を生きるべきなのに、まだこんな所であのトッカータを弾いてる。私のせいで人生をだめにしたんじゃないかって。
奈々子さんのせいじゃないですよ。
でも辛いの。悪いことだとわかっているけど、出ずにいられない。このままだとサキの人生を壊してしまうかも。
そんなことは起きませんよ。
と久方は言ったのだが、
どうしてわかるんですか?
後ろから高条がやってきた。厳しい表情で。それから奈々子に向かって、
引っ込めよ。
と強く冷たい声で言い放った。奈々子が目を見開いたかと思うと、涙を手でぬぐいながら立ち上がり、
あんた、頼りになるね。
と言った。早紀が戻っていた。ヨギナミがやってきて、そっと早紀の背中に手を回して、1階の部屋まで付き添っていった。ポット君がコーヒーを入れてくれたが、なぜか3人分しかなかった。なので久方は手を付けなかった。
早紀はしばらく涙が止まらないようだった。
体に悲しみが残ってるんですよ。
殺されて人生を失った悲しみが。
と早紀は言った。
最近、毎日出てきてるんです。
高条が言った。
我慢してるのが辛くなったんだろうね。
久方が言った。
だからって出てこられちゃ困るんですよ。
高条がきつい声で言った。『落ち着いて』とヨギナミが言い、早紀はしばらく鼻をすすっていた。重苦しい雰囲気のまま、帰る時間が来てしまった。
帰り際、早紀とヨギナミが建物を出た後、高条が一人戻ってきて、
もう、ここには来させませんから。
と言って、戻っていった。
どうして、こうなったんだろう?
久方はしばらく玄関に立ったまま考えていた。いや、わかっている。こうなったのはあの人が幽霊を呼び出したせいなのだ。そして、自分も同じ力を持っているはずなのに、久方には幽霊を成仏させる方法がわからない。
結城はまだ『クープランの墓』をリピートし続けている。混乱した人生をあざ笑うような音。
久方はまた、今度は一人で、外に出た。畑の向こうには草原と山がある。なんの限界も感じさせないだだっ広い光景が。久方はまっすぐに歩いた。ここで少しでも心を自由にしたいと思った。風や草や木の力を借りて。しかし、今日の高条の敵意に満ちた視線や、早紀が泣く姿を思い出すと、心は乱れたまま戻らなかった。高条が奈々子さんを追い払った時、『頼りになるね』と言っていたことも気になった。
サキ君が望んでいるのは、
奈々子さんが完全に出てこないことなんだ。
でも、それを続けていたら何も解決しない。
前の僕みたいになるだけだ。
久方はこれから早紀にどう接していけばいいか考えたが、先程『もうここには来させない』と高条が言っていたのも忘れていなかった。
早紀はまた、しばらく来ないだろう。
もう二度と来ないかもしれない。
そう思うと、久方の心は沈み、目の前の景色も見えなくなるのだった。




