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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年4月

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2017.4.25 火曜日 ヨギナミ


 あさみが笑ったんだよ。


 カフェに入るなり、おっさんが言った。


 お前の話をしてたら、ほんの少しだけど笑ったんだ。


 ヨギナミは『それはないだろう』と思ったが、おっさんが全身から喜びを発していたのであえて否定はしなかった。でも本当にありえないと思った。母は今、意識がないのだ。

 おっさんは『目を覚ますかもしれない』という期待をますます強く抱いてしまったらしく、


 お前しばらく家に帰ってないだろ。

 そろそろ掃除しに行った方がいいんじゃないか。

 きっといろんなものがホコリをかぶってるぞ。


 とまで言い出した。確かに、もう何ヶ月か家には帰っていなかった。ヨギナミはおっさんを連れて帰ってみることにした。

 家までの道は不確かで、長い。誰も通らなくなったのだろう。もとあった道筋が薄くなって、草原に飲まれかけていた。2人は雪の残った、はっきりしない道をゆっくりとたどった。


 春だな。


 おっさんがあたりを見回しながらつぶやいた。


 いつもなら創が夢中になって植物を探しに行くんだけどな。今年はどうも悩み事が多すぎて、内にこもってばっかだな。

 

 やっぱりサキのこと?


 それもあるが、それだけじゃない。


 家は元どおりそこに建っていた。かつて、あさみがいて、外を見ていた窓。今は誰もいない。壁や屋根は前よりも傷んでしまっているように見えた。全体が色あせ、くすんで見えた。元々古い家だ。母は不倫のせいで町内に居場所がなくなって、ここに住みついたと聞いている。

 中に入ると、おっさんの言うとおり、あらゆるものがホコリまみれだった。空気がよどんでいて、もうここには誰も住んではいけないのではとヨギナミは思った。しかし、おっさんが母のベッドの枕やクッションを叩き、まわりを掃除し始めたので、ヨギナミはキッチンに行って掃除機を取ってきた。それ自体もホコリをかぶっていたが、ちゃんと動いた。

 ひととおりホコリを払い終わった後、おっさんは母のベッドに座って、窓の外を眺めていた。昔母がそうしていたように。

 ヨギナミはあえて話しかけず、カフェでマスターにもらったドリップコーヒーをいれていた。このキッチンに食べ物の香りが広がるのはいつ以来だろう?またこんな日が来るだろうか。それとも、もう来ないだろうか。

 おっさんは今日母が笑ったと言っていたけど、それでも、目を覚ます見込みはないとヨギナミは思っていた。それに、自分が公務員試験に受かったら、おそらく別な町で働くことになるだろう。そしたらこの家はどうしたらいいのだろう。せっかく平岸パパがお金を出してここを守ってくれたのに──


 おっさんがここに住めたらいいのにね。


 ヨギナミは思いつきをつぶやきながら、座卓にコーヒーを置いた。おっさんが振り返って、複雑な表情でヨギナミを見た。


 それは無理だ。


 おっさんが低い声でつぶやいた。


 でも、おっさんもこれから生きていかなきゃいけないんでしょ?所長さんのお友達や高谷が言ってるみたいに。おっさん自身の人生も大切にしなきゃいけないんでしょ?


 俺の人生はもう終わってる。


 ううん、まだ終わってないよ。私と話して、お母さんを心配してる。


 駄目なんだよ。そのおかげで創は自ら引っ込むようになっちまった。


 所長さんも自分を大事にしてないんだね。

 私最近思うの。母が私を嫌っていたのは、いつも人の言うことばかり聞いて自分がなかったからじゃないかって。母はよい意味でも悪い意味でも自分ファーストでしょ?だから私のことは理解できなかったんじゃないかな。私はすぐまわりを気にするし、人に気を遣っちゃうから。


 それがお前のいいところだよ。

 それに、あさみはいつだってお前を心配してるよ。


 うん、わかってる。


 風が吹き、窓を揺らした。おっさんがまた外を見た。

 そして、


 創が帰ってくる。


 と言って笑った。


 ヨギナミ、頼みがあるんだ。


 何?


 創が戻ってきたら、何かさせてやれ。

 俺ばかりここを満喫しすぎた。

 あいつはもっと外で活動すべきなんだ。

 そしたらきっと、生きている実感がわく。


 ヨギナミが詳しいことを聞き返す前に、おっさんの表情が変わった。子供っぽくなり、しばし目をしばたかせた後、


 なんで僕ここにいるの?


 と言った。久方創に切り替わったのだ。


 これ飲みます?


 ヨギナミはおっさんが手をつけなかったコーヒーを勧めた。『所長』はそれを二口ほど飲んでから、何が起きたのかをヨギナミに尋ねた。ヨギナミは今日話したことを説明し、それから、


 所長さんはどこに行ってたんですか?


 と尋ねた。所長は気まずそうにうつむいた。


 あの森に行ったんですね。またサキに怒られちゃいますよ。


 サキ君には黙ってて。


 所長は弱々しくつぶやいた。


 なら、何か手伝ってもらおうかな。でも掃除はひととおり終わってるし。そうだ、シーツを洗ってなかった。干すの手伝ってください。


 ヨギナミが洗濯機を回している間、所長は部屋の中をうろうろして、いろいろなものを興味深そうに見て回っていた。といっても、貧しい暮らしをしていたので部屋に飾り物やおしゃれなインテリアなどはなく、生活に必要なものがあちこちに分散して置かれているだけだったのだが。

 やっぱりおっさんとは違うなあ。

 動き回る所長を時々見ながら、ヨギナミは思った。同じ体、同じ顔なのに、動きも表情もまるで違っていた。所長の方が、不安そうだ。安定感がない。生きているのは所長であって、おっさんではないはずなのに。

 だからおっさんは心配でたまらないんだ。

 そのうち洗濯が終わったので、ヨギナミは所長に、奥にある物干しを引っ張り出してほしいと言った。所長は言われたとおりにした。動きがぎこちなかったが、なんとか洗ったシーツを干し、ベッドに新しいものをかけた。


 こんなことして意味あるのかなって少し思うけど。


 ヨギナミは言った。


 お母さんはもう帰ってこないかもしれないし。


 帰ってくるよ。


 所長が言った。


 きっと帰ってくる。


 おっさんと同じく、所長も希望を持っているようだった。


 所長さん。


 ヨギナミはずっと気になっていたことを尋ねた。


 おっさんがどうして死んだか、聞いてない?


 僕も知りたいけど何も教えてくれない。


 所長は暗い目でつぶやいた。


 きっと何かあったんだよね。


 何がまずいことがあったのは間違いないよ。


 おっさんも所長も、何をどうしたら生きる気になってくれるのかなあ。


 ヨギナミは言ってからわざとらしいなと思った。でも言いたかった。たぶん『どっちも生きてていい』のだ。でも、体が一つしかないから、お互いにゆずりあってしまって、どちらも自分の人生を生きていない。


 ヨギナミは僕らの心配なんかしなくていいよ。

 勉強しなきゃいけないんでしょう?

 バイトも、やめた方がいいんじゃないの?


 それは無理。平岸パパにお金を返さなきゃいけないから。


 あの人はたぶん返してほしいとは思ってないよ。


 それから所長が、


 僕が金持ちだったら、ここを買うんだけどな。


 と言ったので、ヨギナミは驚いた。


 ここを買ってどうするの?


 ヨギナミにあげるよ。


 所長はかすかに笑ってから、すぐ暗い表情に戻った。


 でもそんな金は持ってない。正直、自分が暮らすので手一杯だ。普通の大人みたいに定職にもついていないし。


 所長はそこで何かを思い出したのか、それともここにいるのがいたたまれなくなったのか、


 僕はもう帰るよ。ありがとう。


 と言って、ヨギナミとは目を合わさずに、ぷいっと出ていった。


 自分に自信がないんだ、所長さんは。


 ヨギナミは思った。


 でもそれは、みんな同じだよ。


 そう言ってあげればよかったと思った。しかしもう日が暮れている。平岸パパから『今どこにいるの?』とメールが来ていた。『家です。すぐ帰ります』と返信して、ヨギナミは慌てて家を出た。前よりも日が沈むのが遅くなり、傾きかけた日がちょうど夜の闇に向かって動き出していた。

 きれい。

 ヨギナミはしばし立ち止まって夕日を眺めた。すると、道の向こうで所長が立ったまま動きを止めているのが見えた。やはり空を見上げている。

 様子を見ていると、所長はしばらく、穏やかな顔で空を見上げた後、不意に悲しい表情になって、歩き去っていった。

 今の、何だったんだろう?

 ヨギナミはそう思いながら平岸家に向かった。夕日を久しぶりに見たのだろうか?でもあの悲しい表情は何だろう?おっさんは今どこにいて、何を考えているのだろう?

 平岸家が見え始めた頃、ヨギナミは今日のことを早紀に話すべきか考えた。そして、何も話さないことにした。自分が黙っていてもきっと所長が話すだろう。

 ヨギナミも、早紀には高条より、所長の方がお似合いだと思っていた。

 そろそろ何か起きそうだな、とも。





 

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