2017.4.19 水曜日 研究所
人には誰でも『たましいの危機』みたいな時期があるもんだ。きっと幽霊はそこにはまって通過できなかったのさ。
昼頃訪ねてきたリア充、槙田利数が、大学講師らしい身振りでそう言った。久方は槙田の幸せ家族自慢にうんざりしていたので、話題が変わったことを歓迎した。
君に危機があったなんて想像できないけどね。
久方はそう言って笑った。相手は『自他共に認めるリア充』だ。仕事も結婚もうまくいっていて、本人も常にそれを自慢している。
あるんだよ俺だって。ま、若い頃だけどね。哲学病みたいなのになってさ、『生きるって何?』みたいな問いにはまり込んだね。あんとき俺は人生で一番本読んだな。大学ん時より読んでたよ。ヘーゲルとかデカルトとかソクラテスとか。
『哲学』という言葉を聞いて、久方は早紀のことを思い出した。もしかして早紀もその危機の中にいるのだろうか。まだ若いのだし。
それがなぜだか、いつの間にか終わったな。大人になったっていうか、世の中にスレたっていうのかな。他に楽しいことがあって気がそれたっていうか。
ずいぶん軽いというか、飽きっぽく聞こえるな。
本当に悩んでたの?
それがさ、そん時は本当に、死ぬほど悩んでたんだよ。
それこそ死を想ってたよ。
それがさ、恐ろしいことに、
今ではそれがどんなだったか思い出せないんだよ。
怖いだろ、
命がけで考えるほど大事なことがあったのに、
今覚えてないって。
それでも生きられるのが大人なんだな。
なんだか寂しいよなあ。
サキ君がたまに言ってる『不思議な感覚』っていうのもそれかな?
それかもしれないし、そうではないかもしれない。でも、それを大人になっても持ってたら大変だよ。きっと夏目漱石の小説に出てくる男みたいになる。
槙田はもう冷めてしまったコーヒーを口にしてから、
俺はお前もそうじゃないかと心配してたよ。
と久方に言った。
確かに悩みごとは多いけど、
僕のはそういうんじゃないと思うよ。
でも、生死のかかった問題だろ?
さっきまでおちゃらけた顔をしていた槙田が、急に表情を険しくした。
生きろよ。
槙田は低い声で言った。
わかってるよ。
頭では、と久方は心の中で付け足した。本当は、ここで友人と語っていることにすら、何か違和感を覚えるのだ。本当はこんなことをしていてはいけないのではないか。自分にそんな権利はないのではないか。
今までの話を聞いてるとわかる。
お前と幽霊には共通点があるよ。
何?
どっちも『自分を消したいと思ってる』そうだろう?お前もそうだし、幽霊も『自分はここにいてはいけない存在だ』と自覚してる。
俺は思ったね。どちらも間違っていると。
どっちも?幽霊もいた方がいいっての?
もちろんいない方がいいに決まってるけどさ、今は否応なく一緒にいる身だろ?ネガティブな奴が近くにいると影響されるんだよ。
お前らはお互いに悪い影響を与え合ってる。どちらも自分を尊重することを知らない。幽霊と仲良くなったきっかけは何だった?相手の存在を認めたからじゃないか?
そう言えなくもないけど。
久方には、槙田が何を言っているのかよくわからなかった。
今お前らは、自分の存在を認めてない。
それじゃあ、自分との関係がうまく行かない。
槙田はそう言ってからニヤッと笑った。
俺を見ろ。100%自分を認めてるから何もかもうまくいってて幸せだぞ。秋には二人目の子供も産まれる!
ああ、また始まった!
話題が幸せ自慢に戻ったので、久方は叫びながらソファーに倒れた。槙田はガハハハと大声で笑い、何も気にせずに妊娠している奥さんの話を始めた。
今日は森に行く暇がなかったな。
夕方、久方は窓の外を見ながら思った。槙田にいろいろ言われたにもかかわらず、まだ自分を消すことを考えていた。それに、あの小さい頃の自分も気になる。
あの子はなぜ、あんな所で一人で泣いていたのだろう。
今日の槙田さんはオヤジっぽかったなあ。
後ろで見守っていた結城が言った。
やっぱ子供を持つとああなってくんのかな。
ところで久方さんよ。結婚するとか子供を持つとか考えたことある?
僕には無理だよ。
久方は窓の外を見たまま言った。
少しは考えた方がいいんじゃない?若いうちに。
自分はどうなんだよ。
俺が結婚とかする柄に見えるか?
見えないね、確かに。
そうだろ?
奈々子さんが生きていたら違ったんじゃない?
久方が言うと、結城は変なため息をついた。
あいつもそういう柄じゃなかったよ。
生きてても結婚はしなかっただろうな。
そうかな。
それよりお前ほんとに、マジで、これからどうするかそろそろ考えた方がいいぞ。神戸に帰るとか、またドイツに行くとか。
ドイツはもういいよ。行ってまでやりたいことはない。
じゃあ何がしたいんだ?
久方にはそれがよくわからなかった。ただ、大学の知り合いが何人か、自分の所で研究を手伝わないかと言ってきていた。それには心惹かれなくもない。
でも今は、
何が起きたか知りたいよ。
久方は言った。
そうすれば、自分がなぜ存在しているのかがわかる。
それからキッチンに行って夕食のポークチョップを焼いた。その間思い浮かべていたのは早紀のことだった。今3年生だ。卒業したら東京に戻るだろう。一緒にいられるのはあと一年しかない。
その間ずっと、僕は『親切な近所のおじさん』をやってなきゃいけないんだな。
耐えられるだろうか。自分を抑えられるだろうか。いつか衝動的に早紀に想いを告げてしまって、全てを台無しにしてしまいそうな気がする。それは絶対に避けたい。
体を休めてリラックスすれば気分が良くなるかと思って、こたつで寝てたら爆睡しちゃいました。
今夜眠れないかもです。
早紀からはそんなことを報告してきていた。
眠れないなら、一緒に語り合うことはできないだろうか。久方は早紀に初めて会った年を思い出していた。早紀は東京に帰ってからも不安になるとよく電話してきた。昼間にも夜中にも。あの頃が懐かしい。何でも話してくれたし、こちらも正直に話せた。2人の間には何も邪魔なものはなかった。
でも今は。
結城も今日はピアノを弾かないようだ。今日は音楽でも聴いて過ごそう。久方はそう思いながら料理を仕上げ、一階の部屋に運んでいった。結城はソファーに座ってスマホをいじっていた。猫達はあいかわらず、暖房のまわりで平和にくつろいでいた。
こうやって部屋を見た限りでは、
何も起きてないんだけどな。
と久方は思った。自分の内面とこの部屋の光景は、なんて違うのだろう。
ため息が出そうになって、抑えた。
今は食事をしなくては。




