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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年4月

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2017.4.18 1980年4月

 新学期が始まってしばらく経った。しかし、橋本は始業式以来顔を出さない。心配した新道と菜穂は毎日のように古書店に行った。しかし、橋本はいつも部屋にこもって本を読んでいて、2人に会おうとしなかった。

「ほっときなさいよ。いつものことでしょ」

 と初島は言った。菅谷も、

「それより自分の勉強を心配した方がいい。大学行きたいんだろ?」

 と言った。

「行けないよ。金ないもん」

 新道は悲しげに答えた。

「学校の先生になりたいって言ってたろ。大学行かないとなれないぞ」

「俺は頭悪いから無理だよ」

「諦める前に試してみろよ。学費はアルバイトでなんとかしてる人もいる」

 新道は悩んでいた。誰かの助言が欲しかった。こういうことに答えてくれそうな人といえば、やはり橋本だ。


 ある日、新道は一人で古書店に向かった。店主にあいさつすると、

「あいつは出かけたよ」

 と言われた。もしかして廃ビルに行ったのだろうか。外はまだ寒いというのに。

 新道は廃ビルに向かった。あいかわらず立入禁止の札があり、中は去年よりさらに荒れた様子になっていた。冬の間に雪が吹き込み、それがあらゆるものを侵食していったかのようだ。


 橋本はなぜ、こんな所に来るようになったんだろう。


 今にも崩れそうな階段を上がりながら、新道は、去年は感じなかった重い何かを感覚でとらえていた。去年は何も知らず、ただ橋本がここに入るのを見てついて行ってしまった。でも今は──橋本の境遇を知っている今は──ここが、彼の孤独が創り出した迷宮のように思える。

 橋本は前と同じく最上階にいた。床に古新聞を敷いてその上に座り、夏目漱石の『行人』を読んでいた。

「寒くないの!?」

 新道は思わず尋ねた。最上階は地上より気温が低く、床だって冷たいはずだ。新道の目には、橋本が自分を痛めつけているようにしか見えなかった。

 橋本は嫌そうな鋭い目を新道に向けたが、すぐに本に目を戻した。

「こんなとこにいたら凍死するって!」

 新道は再び叫んだ。橋本は、

「もう4月だろ。寒がってんのはお前だけだよ」

 と言って、本を読み続けていた。

「ねえ、ここって何なの?」

 新道は尋ねた。

「お前は何者なんだ?」

 橋本も尋ね返した。2人とも、互いの質問には答えられなかった。

「なんでこんな所に来るようになった?」

「お前はなんで俺にかまうんだよ」

「学校に来ないから心配して来たんだよ」

「いつものことだろ」

「いや、いつもとは違う」

 新道は感覚で言った。橋本は内心慌てた。しかし、思い直した。こいつが()()()()を知っているはずがない。いや、知ってほしくないというべきか。

「初島は──学校に来てるか?」

 橋本は尋ねた。声がうわずった。

「来てるよ。なんで?」

「なんでもない」

 あんな恐ろしい目にあっているのに、平気な顔で学校に来ているのか。橋本には全く理解できない状態だった。

 いや、あいつは狂ってる。昔からそうだった。

 もっと早く気づくべきだったんだ。

 あの父親をなんとかしなければならない。

 あの人間のクズを。

「お前今でも初島医院に行ってるのか?」

「行ってるけど記憶は戻らない」

 新道はここで相談したかったことを思い出した。

「俺、学校の先生になりたいんだよ」

「ハァ?」

 急に話題が変わったので、橋本が変な声を上げた。

「でも、それには大学に行かなきゃいけない。俺は頭が悪いし金もない。どうしたらいいと思う?」

「勉強しろ。金は働いて稼げ。俺にそんな相談するなよ馬鹿馬鹿しい」

「そうか」

「お前は幸せだな。単純で、悩みもその程度で」

 橋本はバカにした口調で言った。

「橋本は、どうしてここに来るようになった?」

 話題は振り出しに戻った。

「一人になりたかっただけだよ」

 いつか崩れ落ちそうなのが自分に似ていたから、と橋本は心の中で言った。いつか自分もそれに飲まれて()()()()()()()()()

「ねえ、帰ろうよ。ここ寒いよ」

 新道が両手で体を抱えて震える仕草をした。

「今日は気温がプラスだぞ?寒がってんじゃねえよ」

「帰ろうよ」

「一人で帰れよ」

「俺今まで気づかなかったんだけど、ここは何か危ない気がするんだよ。建物が古いとかそういうことじゃなくて、別に何か不吉な感じが──」

「うるせえな!帰れって!」

 橋本は怒鳴った。新道はしょんぼりした様子で階段を降りていった。

「めんどくせえ」

 橋本はつぶやいた。今後も何かとまとわりついてくるであろうことを予想するとうっとおしく感じた。

 そもそもあいつは何者なんだ?

 本当に人間なのか?

 別な何かなんじゃねえのか?

 橋本は、新道のあまりに純粋で『正しい』様を疑問に思っていた。あんな人間存在しうるか?いきなり現れて『記憶がない』と言う。おかしい。しかも、見つけたのは初島だ。奇妙な力を持って、気が狂っている──


『新道は、()()()()()のよ』


 急に思い出して橋本は震えた。初島がそう言っていたではないか。

 いや、違う。

 そんな馬鹿な。


 橋本はこの考えを打ち消そうとしたが、消えるどころか、思い出したことや気になっていたことが次々とそこに結びつき、どんどん確信に変わっていってしまった。初島医師も言っていたではないか。『お前は俺が作った子だ』と初島に。それも同じことなのか?

 でもなぜ?どうやって?

 確か、新道の生活費を出しているのは初島医師だ。あのおぞましい男だ。橋本はいつか見た光景を思い出して、うなりながら頭を振った。忘れてしまいたいが、きっと一生忘れられないだろう。あのおぞましい2人と、新道に関係があるとは思いたくなかった。しかし、何かあるのは間違いなさそうだ。

 本に全く集中できない。『行人』は自分の分身のような本だったのだが。

 橋本は本を閉じて帰ろうとした。ところが、誰かが階段を上がってくる足音がしたので、慌ててもとの位置に戻った。

「橋本くん」

 来たのは根岸菜穂だった。手に菓子メーカーの紙袋を持っていた。

「これ、おばさんにもらったから橋本くん家にもどうぞ」

 橋本は黙ってそれを受け取った。手が震えた。

「下でシンちゃんに会ったよ。寒いから一緒に帰ろう?」

 菜穂はそう言ってかわいらしく微笑んだ。

 ああ、なんて違うんだろう。()()()とは。

 橋本は菜穂を直視できなかった。あまりにも清らかすぎて。

「橋本くん?」

「一人にしてくれ」

 橋本は弱々しく言った。

「頼むから」



「一人になりたいんだって」

 戻ってきた菜穂は新道にそう報告した。新道はがっかりした。

「ナホちゃんの言うことなら聞くと思ったんだけどなあ」

 新道は廃ビルを見上げながら途方に暮れた。

「悩んでるみたいね。いつもと違うもん」

「ナホちゃんもそう思う?」

「最近人と目を合わさないでしょ?何かやましいことでもあるのかしら」

「橋本は悪いことをする奴じゃないよ」

「じゃあ、何か辛いことがあったのよ」

 2人は並んで、古書店まで歩いた。

「親父さんは、あのビルのこと知ってるのかな?」

 新道はふと思いついて言った。

「それは言ってはいけないことよ、シンちゃん」

「どうして」

「あのビルは私達の『秘密基地』でしょ?」

 菜穂はそう言ってにっこりと笑った。

「ああ、そうか」

 新道もつられて笑った。

「だから、大人には内緒なの。わかった?」

「うん」

 2人は仲良く古書店に入っていき、これから読む本を無邪気に選んでいた。

 未来のことなど何も知らずに。






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