2017.4.13 木曜日 病院→研究所
今日も朝から創がいないんだよ。
病院で橋本が、眠っているあさみに話しかけた。
また森に初島を探しに行ったのかな。
そんなことしても無駄なのによ。
橋本はうつむきながらこう続けた。
あいつは自分を消したがってる。
どうやって止めればいい?
もちろん、あさみは答えない。
久方創はモノクロの森で、大きな木の下に座っていた。
あいかわらず、誰もいない。
なんの音もしない。風もなく、鳥もいない。
このまま消えてしまいたいのに、
僕はまだここに存在している。
意味がわからない。
久方は時々つぶやきながら、色のない森の木々の間をじっと見つめていた。そこから求めている人が現れて、自分の存在を今度こそ消してくれるのではないかと期待して。
しかし、森からは、誰も現れない。
暇を持て余した久方は、きのう会った本堂まりえのことを考えた。一緒に歩いているのを町の人に何度も見られている。きっとまた変な噂が立つだろう。しかし、本堂まりえには、特別なものは何も感じなかった。向こうもこちらに特別な興味など持ってはいないだろう。ただの、田舎で出会った知り合いというだけで。
サキ君がいない。
久方が強く思うのはやはりそこだった。でも、ここで早紀のことを考えてはいけない。また引き寄せてしまうかもしれない。
久方は考えを変えようとした。すると、視界の隅に、何か色のついたものが入った。慌ててそちらを向くと、そこには、季節外れのTシャツと短パンを着た小さな男の子がいた。靴ははいていない。裸足だ。
それは、幼い頃の自分だった。
子供は数秒こちらを見たあと、森の奥に向かって走り出した。
──待って!
久方は子供を追いかけた。
研究所、午後3時。
いつまでも帰ってこない久方を案じて『おっさん』つまり橋本が部屋をうろついていると、そこに、ギターケースを抱えた保坂と、高谷修平が現れた。橋本は修平の顔色の青白さに驚いた。隣の保坂と比べると、明らかに色がない。
あれ?今日は橋本さんなんすか?
こういう事態に慣れっこになっている保坂は、明るく言った。
創が帰ってこねえんだよ。
橋本も最近言い慣れてしまったセリフを口にした。
高谷、顔色が悪いぞ、どうした?
別になんでもないですよ。俺ちょっと橋本さんと話したいから、先行っててくれない?
修平が言うと、保坂は一人で2階に行った。そこには結城がいるので、すぐにピアノとギターが鳴り出した。
なあ、創が隠れちまう『森』ってのは一体何なんだ?
橋本が尋ねた。
先生は『死者の世界』って言ってるし、久方さんは『自分が作った世界』と最近言い出し始めました。橋本さんは行ったことありますか?
ないんだよ。俺は行けないんだ。
俺は行っちゃったことあるんですよね。
修平はそう言って薄く笑った。
おかしいな。死者の世界だったらあなたが入れてもよさそうなものだし。奈々子さんからもそういう話は聞いてないですね。
奈々子はどうしてる?
橋本は傷ついた様子で尋ねた。
あいかわらずサキと一緒ですよ。
でも最近あまり出て来ないみたいですね。
新道は?
森から追い出されて、もう一回入ろうとしてるんですけど、できないと言ってます。久方さんに拒絶されてるからじゃないかと。
あいつは自分を消したがってる。
橋本が言った。
それが母親の願いだからとかぬかしやがる。でもな、母親の願いと自分の願いは違うだろ。あいつは本当は生きたがってる。俺にはそうとしか思えない。でも今、あいつをこっちの世界につなげるものがない。新橋は──
彼氏いますしね。わかります。
それで久方さんが弱気になるのは。
すみません。座ってもいいですか?
修平は疲れた様子でテーブルの椅子に座った。やはり体調がよくないようだ。
橋本さんは最近どうしてます?いい生活してますか?
修平が尋ねると、橋本は鼻で笑った。
何言ってる、俺に生活なんかねえよ。創は出てこない。あさみは目を覚まさない。俺は本来ここにいるべきじゃない。生きてる奴らには何もしてやれない。
何が生活だ。死んでるんだよ俺は。
あ〜、そこなんですよ。
俺らが間違ってたのは。
修平が大きく伸びをしながら言った。橋本は眉をひそめた。
俺らずっと幽霊を成仏させよう、つまり消そうという発想だったじゃないですか。でももしかしたら逆なんじゃないかと思ったんですよ。
どういう意味だよ?
逆に、生かす方向に行った方がいいんじゃないかと。
沈黙が生まれた。2階からのピアノとギターの二重奏だけが部屋に響いた。
つまりですね。
修平は静かな声で切り出した。
幽霊が成仏できないのは、生きていた頃に『生きている実感がなかった』あるいは『思い切り生きなかった』からじゃないかと思ったんです。あなたは髪の色で差別されて難しい生活をしていた。奈々子さんも何か不安や不満を抱えて、大通やススキノをさまよっていた。言っちゃ悪いけど『満たされた生活をしていた』とは言い難い。先生は生きていた頃十分幸せだったから俺を乗っ取る必要がない。
だから、生きそびれた2人は、もう一度生き直せばいい。
それで、生きてるって実感を得られれば──
お前、自分が何言ってるかわかってんのか?
橋本は怒っていた。
俺達はもう死んでるんだ。
生きてる実感もクソもあるか。
あ〜それ先生もよく言うんです。でも俺は違うと思うんです。あなた達はまだここに存在している。現に今俺と話してるでしょ?つまり消えてはいない。つまり、まだ死んでない。生きてるってことになりませんか?他人の体を借りてはいますけど。
俺が思うのは、あなた達幽霊が自分の存在を否定し続ける限り、何も変わらないんじゃないかってことなんです。
俺にどうしろっていうんだ。創の人生を乗っ取れって言うのか?ただでさえ俺は──
今まで乗っ取ってきた。不本意にも。
そうしなきゃいけなかった原因は何です?
修平は立ち上がってギターケースを持った。
そろそろ行かないと保坂に怪しまれる。でも考えてみてください。あなた自身の人生に何が足りなかったのか。それが久方さんに影響を与えていないか。
俺は先生の幸福にも不幸にも、もろに影響を受けましたよ。だから言ってるんです。
修平は、重い、ゆっくりとした足取りで出ていった。階段を上がる足音も、1秒おきに、ゆっくりと響いてきた。
あいつ、死にかけてやがる。
橋本はつぶやいた。
その頃、久方は子供の自分を探して森じゅうを駆け回っていたが、何も見つからなくて道の真ん中にしゃがみこんでいた。
あの子は絶対何か知ってる。
久方はつぶやいた。
だから、僕の目の前に何度も現れるんだ。
久方はまた立ち上がった。どうしてもあの子を見つけたい。そして今度こそ、何が起きたか知らなくてはならない。
森へ一歩踏み出した、その時だった。
急に視界が暗転し、ギュイーンという機械音がした。ポット君が、逆三角形の怒った目を表示して、床に倒れている自分をモップで叩きまくっていた。腕に痛みを感じ、『ギャッ』と叫んだ久方は、ポット君と目(の表示)を合わせた。すると、ポット君の動きが止まり、嬉しそうな顔が表示された。
ポット君!橋本を攻撃するのはやめて!
久方は起き上がりながら叫んだ。
僕まで死んじゃうってば!
するとポット君は不満げな顔を表示しながらキッチンに消えた。
岩保の奴、
こういうプログラムはやめてって言ったのに!
久方は、今度岩保に会ったら文句を言うことに決めた。ちょうど今週末、珍しくマンションを出て秋倉にやってくると言っていた。前は頑なに外に出ようとしなかったのに。カフェの孫と知り合ったせいでいろいろ刺激されたようだ。
若い人の力ってすごいんだよな。
久方は思った。自分だってまだそんなに歳を取っていないつもりだが、やはり高校生の輝きには勝てない。早紀だって同年代の彼氏の方がいいだろう。
ああ、また戻ってきてしまった。
久方は部屋を見回した。ポット君は橋本を追いかけ回して、また部屋のものをいろいろなぎ倒していた。片付けなければならない。猫2匹は我関せずで、いつも通り気ままにソファーに丸まったりしていた。
あの子を探さなきゃなあ。
久方は部屋を片付けながら思った。それから、さっき起きたことを早紀に送った。どうしても知らせておきたかった。
その子はきっと、所長に生きていてほしいから現れるんですよ。
と早紀は返事してきた。
もしかしたらその子も、初島から逃げ回っているのかも。未だに。
だとしたら、やはり探し出さなければならない。
当面、やることができた。
その間は生きていられるだろう。




