2017.4.11 火曜日 研究所
もう3年、正月にもお盆にも帰ってきてないやろ。
電話で、神戸の母が言った。
北海道でもつつじ咲くやろ。一度行ったことあるわ。
咲くけどずっと先だよ。
一度こっちのつつじ見に帰ってこんか?春が無理なら夏にでも。もうあまりにも長く会ってないから、あんたが本当に生きてんのか心配になるわぁ。
生きてるから大丈夫だよ。
久方はできるだけ元気な声で答えた。
『消えたいから死者の森をさまよってます』なんて、
この母には絶対に言えない。
父ちゃんが代われって。
ドキッとした。
やっと『結城もういらない』が通じたのか?
それとも母と同じように『帰ってこい』と言うのか?
おぉ、元気か。
父親の声は陽気だった。
うん。
知りたかったことは全部わかったのか。
いろいろわかったけど、全部ではないね。
まだ、橋本がなぜ死んだのか聞いていない。まだ、なぜあの人があんな人になったのかわかっていない。
そうか。
なあ、俺はお前が元気で暮らせてるなら、それでいい。
父は言った。
でもなぁ、母ちゃんが寂しがってる。
たまには戻ってこれんか?
考えておくよ。
久方はそう言った。しかし、帰っていいのか自分でもよくわからなかった。自分にそんな権利などあるのだろうか。
北海道に来たのは(無意識とはいえ)人生を返すためなのに。
父親が商売の話や、近所のおっちゃんおばちゃんの話をおもしろおかしく話すのを聞いた後、再び母が電話に出てきて、『またお菓子送るわ』と言って、通話は終わった。
今の親?
いつの間にか、後ろに結城が立っていた。
うん。神戸の。
そろそろ帰った方がいいぞ。
結城は真面目に言った。
そうだ!『もう助手いらない』って言うの忘れてた!
久方はおどけて話をそらそうとしたが、
そろそろ帰れよ。
結城は話題を変えなかった。
お前もう一人で生きていけるだろ。せっかく支えてくれる親がいるのに、こんな何もない田舎で何してんだよ?女子高生に片思いしてずーっと来るのを待ってて、自分からは動かない。
もういっそ地元に帰って人生新しく始めろよ。
そしたら俺もここを出ていく。
別に僕のことなんか気にしないで、
出ていけばいいじゃないか。
そういうわけにはいかない。
ねえ、幽霊達はずっと取りついたままかもしれない。彼らがいなくなるのを待ってても何も解決しないよ。サキ君達は成仏させる方法があると思っているけど、僕は幽霊を呼び出した大元のあの人をなんとかしないと解決しないと思ってる。
だから変な森にこもってダメな母親を探してんのか?
結城が尋ねた。久方は答えなかった。
一人で何もかも解決できると思うなよ。
俺は新橋達のやり方が正しいと思うね。
たとえそれが的外れだったとしてもな。
結城は部屋を出ていった。その後、またあのトッカータが聴こえてきた。
僕に文句言える立場なの?
久方は天井に向かってつぶやいた。
自分だって内にこもってピアノ弾いてるだけじゃないか。奈々子さんのためだけに。それって僕がやってることとどう違うの?
やめとけ、あいつに構うな。
橋本の声がした。
いいかげん何が起きたのか教えてよ!
久方は叫んだ。橋本の声は消えてしまった。感情的な、駆け上がるようなピアノだけが建物内に鳴り響いていた。
だめだ、この曲を聴かされたら集中できない。
久方は今日は森に行くのを諦め、実際の世界を散歩しようと、コートを取って外に飛び出していった。
狙ったように雨が降り始めた。
久方は傘を取って玄関を出て、外に出た所でしばらく立ち止まり、雨粒が傘に当たる音と感触を楽しんでいた。春がもう来ている。積もった雪もこれでかなり溶けるだろう。その後には木々が芽吹き、草が生え、花が咲く。今世界はその過程の最中にある。
僕はどこに向かっているんだろう?
久方は思った。
消えたい自分と生きたい自分、
どちらが自然なのだろう?
答えは明らかだ。
なのに、自分の体の芯が、どうしてか、違和感を発していた。
何かがおかしい、何かが違うと。
でもその『何か』が何なのか、いつまで経ってもわからないのだ。




